見出し画像

夢の中で生きたいか、それとも、夢から目覚めたいか


「一切皆苦」という世界の夢からの脱却

この世界にはまざまな生き方、在り方の選択肢があるかのようにみえます。

人それぞれに生き方、在り方があって、人それぞれに人生の目的や使命があるかのようにみえます。

コースの観点からみるならば、そのように知覚していること自体が、すでに自我を教師としている状態だといえます。

自我の教師と共にこの世界を見るならば、誰もがバラバラな多種多様なの人生の目的に向かって生きているように見えるのです。

そう、通常の私たちは、この世界をそのように捉えています。

つまり、それは、私たちはずっと自我を教師としている状態であることを意味します。

そこから生きている私たちは、それゆえに、けっして幸せになることもなければ、けっして満たされることのない、すべてが苦しみでしかない世界を生きることになるのです。

ときには一時的に幸せになったりすることもありますが、やはり、その幸せは永続するものではありません。

所詮、仮のもの、一時的なものでしかないからです。

それが、どんなに幸せな人生であったとしても、です。

たとえ人生がうまくいっていたとしても、この世界において「苦しみのない人生」というものはないのです。

それが、この世界であり、この人生であるといえます。

仏教を説いた釈迦は、それを「一切皆苦」という言葉で表現しました。

そのことを私たちは認識する必要があります。

この世界は、まさに天国の対極の世界であるということです。

そうであるにもかかわらず、私たちはこの世界のものによって自分は満たされる、自分は幸せになれると信じています。

じつは、それこそが苦しみの原因なのだということです。

コースの言葉で言えば、「自我を教師としているかぎり、私たちは苦しみから逃れることなどできない」ということです。

自我を教師としているかぎり、本当の幸せ、平安はあり得ない、ということです。

「自我を教師としている」とは、自我(分離/二元性)の思考体系を信じているということであり、しかも、それが狂気の思考体系であるということにまったく自覚がないということです。

私たちは、それがすべての苦しみの原因であるということをまったく分かっていません。
(仏教では、その状態を「無明」「無智」と呼んでいます。)

自分が今、自我の思考体系と同一化していることも認識していませんし、自分が自我(狂気/無知)になっているということに自覚がないのです。

もはや私たちは絶望状態にあるわけですが、逆に、もしそれが狂気であると認識するなら、その狂気からの脱却するという希望がはじまることになります。

というのも、その状態が自分を幸せにすることはけっしてないと悟るならば、その状態からの脱却、つまり、苦しみからの脱却を望むようになるからです。

誰もが皆、幸せや平安を望まないわけがありません。

でも、そのためには、私たちはまず自我の思考体系と同一化してしまっていることを自覚しなければならないし、そして、その自我の思考体系が狂気の思考体系であることを認識しなければならないということです。

そして、そうなるためには、正気(聖霊/正しい心)の思考体系を学ぶことが必須なわけです。

それが、コース形而上学の学びと理解なのだということです。

つまり、何のためにコースを学ぶのか?

というなら、私たちが正気の思考体系と狂気の思考体系が識別できるように、本当の幸せとそうでないものを識別できるように、コースを学んでいるのだということを覚えておきましょう。


どちらの教師と共に見るのか?

私たちがコースの実践の中でしていく訓練とは?

というなら、

どちらの教師と共に見るのか?

ということになります。

つまり、自我の見方(解釈)か、聖霊の見方(解釈)か、そのどちらを選択するか?ということがその訓練となるということです。

ちなみに、この世界にはたくさんのものの見方があるかのように思えます。

ですが、そのどれもが自我(の思考体系)による見方(解釈)であるということをまずは知っておかなければなりません。

というのも、それらとはまったく異なる別の見方があるということです。

別の見方がある、あるいは、もう一つの見方がある、ということなわけですが、私たちはその「もう一つの見方」というものをすっかり忘れていると言うことができます。

そして、今や、自我の思考体系の中に幽閉された状態になっているのです。

その自我(の思考体系)から脱却していくために、私たちが覚えておかなければならない重要なことは、そこには別のもう一つの見方があって、つまりは選択肢があるのだということです。

そう、そのもう一つの見方こそが私たちが忘れている正しい知覚の仕方であり、それを思い出していくことが私たちに求められているのだということです。

いわゆる、それが、

自我の見方(解釈)か?聖霊の見方(解釈)か?

ということです。

形態ではなく、形態を超えて内容で見るということです。

内容で見るなら、

自分が知覚している世界(夢)を信じるのか?
それとも、
自分が知覚している世界(夢)を信じるのをやめるのか?

その二つの見方しかないということです。

言い換えるなら、

夢を見続けていたいのか、それとも、夢から目覚めたいか、そのどちらの目的で見たいのか?

というふうに言い換えることができます。

本当は、毎瞬毎瞬、私たちにはその選択の機会が与えられているわけです。

自我の目的で見るのか?

それとも、

聖霊の目的で見るのか?

そして、私たちは、毎瞬毎瞬、自我の目的(自我の見方/自我の教師と共に見る)のほうを選択し続けています。


”選択は、どの夢を保持したいかということではなく、夢の中で生きたいか、それとも、夢から目覚めたいかということだけである。”(T-29.Ⅳ.1:5)

奇跡講座/中央アート出版社


自我の教師と共に見るのか?聖霊の教師と共に見るのか?

どちらの教師を選択するのか?

それが私たちがコースの実践においてフォーカスしていくべきものだということです。

その選択によって、一方は裁き、攻撃、罪、最悪観、恐れ、不幸さ、みじめさといったものがもたらされ、ますます夢に縛り付けられていくことになりますし、もう一方のほうを選び直すなら、そこには、赦し、癒し、平安、喜び、そして夢からの目覚めといったものがもたらされることになるということです。

そういうことが識別できるようになるならば、当然、誰もがもう一方の教師のほうを選び直していくことでしょう。

そして、もう一方の教師、つまり、聖霊を教師として選択して生きはじめるようになるとき、そうなるとき、この世界を、この人生を、「教室」として捉えていくようになります。

聖霊が私たちに教えているのは、「自分が見ているこの世界は、自分が見たくて見ている夢であり、その内容は真実ではない」ということであり、私たちはそのことを実践を通して体験的に学んでいくことになります。

それをコースでは「奇跡」と呼んでいて、つまり、私たちは「奇跡」について学び、「奇跡」という手法によって、この世界の夢から目覚めていくのだということです。


”奇跡は、あなたが夢を見ているということ、そして、その内容は真実ではないということを確立する。”(T-28.II.7:1)

奇跡講座/中央アート出版社


コースで呼んでいる「奇跡」とは、いわゆる一般的に呼ばれている「奇跡」とはまったくちがいます。

「奇跡」を修得していくこと、つまり、それは、聖霊の見方(聖霊の知覚)を修得するということであり、それがこのコースを学んでいるコース学習者の目的とするところです。

「奇跡」を修得していくならば、もはやこの世界を実在しているとは見なくなっていくことになります。

そう、私たちは「奇跡」という手法を使って、自分が誰で、どこにいて、何をしているのか?を思い出していくことをしているといえます。

私たちは「奇跡」によって、この世界の夢から目覚めていくのだということです。

だからこそ、コースが、「ア・コース・イン・ミラクルズ」と呼ばれるゆえんなのだということを知っておくよいでしょう。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?