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「便宜の夢」についての考察と洞察

自我は目覚める気などまったくありません

私たちは「この世界は現実で、実在していて、自分はその世界の中に居る」と当たり前のように信じています。

でも、非二元の観点から見るならば、私たちは「分離は起きた」という夢を見ているだけであって、その結果として作り出されたこの世界を現実(リアル)だと信じているだけです。

コース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)が教えている中心概念とは、そういうものです。

つまりは、今この瞬間も、私たちは眠りの中で夢を見続けている状態なわけです。

この今も夢の中に居ながらも、私たちはそのことをまったく認識していません。

それよりも、「この世界は現実で、実在していて、自分はその世界の中に居る」と当たり前のように信じて疑わず、たとえコースを学んでいたとしても、コースが教えていることをまったく信じていないのです。

さらにいえば、コースを実践してみると分かってくることですが、自分はまだまだこの夢を見続けていたいと思っていて、夢から目覚めようとはまったく思っていないことが自覚/認識されます。

そう、自分は目覚めたい、わが家に帰りたい、と意志してコースを学んでいたとしても、

無意識の層では、

このままま眠り続けてずっと夢を見続けていたい、目覚めたくなんかない、ということが自覚/認識されてくるわけです。

それが何を意味するのか?というなら、

私たちは今や自我と同一化した状態になっているということです。

自我は目覚めたくなんかないし、目覚める気などないのです。

それが私たちです。

そう、私たちはそのような状態でありながら、コースを学んでいるということを知る必要があります。

コースという霊性の道を歩んでいく上で、自我の抵抗と向き合っていくことなしに、その歩みはあり得ないということです。

もっといえば、コースの実践では、自我と向き合っていくことをしていくのだということを知っておきましょう。


便宜の夢 ~現実を夢の中に持ち込む

上記でも述べましたように、私たちは今や自我になってしまっているということです。

その自我(自分)は、このまま眠り続けてずっと夢を見続けていたいし、目覚めたくなんかないわけです。

ですから、コース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)という霊性の道を歩んでいくならば、当然、それに対する「自我の抵抗」「自我の防衛」が起きてくるということです。

それは、私たちがふだん眠っていて夢見ている状態のときに喩えることができます。

たとえば、朝、自分は眠っていて夢を見ているとします。

そんな自分は、まだ眠り続けていたいわけです。

そんな状態のとき、夢の外側から「目覚めなさい」と呼びかけられたとして、私たちはどうするか?というと、眠り続けよう、夢を見続けようとします。

そして、どのようなことをするかというと、夢を見続けるために、夢の外側からの呼びかけを夢の中に持ち込むということをするのです。

もっと具体的に喩えて言うならば、夢の外側で目覚まし時計の音が鳴っているにも関わらず、眠り続けようとして、夢を見続けようとして、目を覚ましたくない自分は夢の中でその音を夢の中で電話のベルとしてすり替えたり、あるいはそのまま夢の中で目覚まし時計のベルの音を処理(解決)したりするということをするわけです。

それというのも、

目覚めたくないから、
夢を見続けていたいから、
眠りに就いていたいから、
眠り続けていたいから、です。

(ちなみに、そういうことを発見したのが心理学者のフロイトで、それを「便宜の夢」と呼びます。)

つまりコース学習で言えば、夢(時空)の外側から聖霊(イエス)がコースを通して、「起きなさい!目を覚ましなさい!夢から出てきなさい!」と、しきりに私たちに語りかけてくれているにも関わらず、眠り続けていたいがゆえに、私たちはコースをこの世界の夢の中に持ち込むこともしますし、聖霊(イエス)をこの世界の夢の中に引き込むことをするということです。

それをコースでは、「真理を幻想に持ち込む」といふうに表現しています。

コース学習者である私たちは、自我はそういうことをするのだということを知っておく必要があるということです。

本来、コースの実践では、幻想を真理のもとに運んでいかなければならないにもかかわらず、あるいは、幻想を聖霊(イエス)のもとに運んでいかなければならないにもかかわらず、私たちはそういうことをするということです。

なにせ、眠り続けていたい自分(自我)は、どんな手段を使ってでも夢を見続けようと、眠りの中に留まっていようとするのです。

たとえコースを学んでいるつもりでいても、あるいは、「悟り」「目覚め」について探究しているつもりでいても、私たちはこの世界から脱却しようとはせずに、この世界の中で幸せになろうとします。

だからこそ、私たちは、聖霊やイエスをこの夢(幻想)の中に引き込もうとするし、神、愛、真理といったものまでもこの夢(幻想)の中に持ち込もうとするということに警戒していなければならないということです。

いわゆる、宗教とか、二元性のスピリチュアリズムはその典型だと言うこともできますが、

実際のところ、ノンデュアリストたち、そして、コースの学習者である私たちもそういうことをしてしまっているのは否定できないといえましょう。

分離の夢を見続けるため、分離の夢を維持するため、それが目的なわけですから。

それが自我であり、私たちなのだということです。

ですから、私たちはその自我に気づいていくことが求められているわけです。

私たちが覚えておかなければならないのは、聖霊(イエス)は夢の外側にいるのであり、その場所(視点)から私たちに語りかけているのだということです。

そして、その教師が私たちに語りかけて伝えてくれているものとは、「私たちは夢を見ているだけであって、それは真実ではない」ということだけだということです。

奇跡は、あなたが夢を見ているということ、そして、その内容は真実ではないということを確立する。(T-28.II.7:1)

奇跡講座/中央アート出版社

聖霊やイエスはこの夢の中(の出来事)についてはどれも実在しないと知っているわけです。

そんな彼らがコース学習者の私たちに伝えようとしているのはそのことだけですし、私たちが学ぶべきこともそのことだけです。

つまり、聖霊、イエスは、この世界のことについてのガイダンスなどしないということは明らかです。

聖霊やイエスやについて、そういうことを形而上学的にしっかり理解しておくことは、コースを学んでいく上ではとても重要です。

夢の外側にいる聖霊やイエスを夢(幻想)の中に引き込むのではなく、この幻想(夢)こそが非実在なのであり、そしてその夢の中に居る自分こそが夢の外側の視点へと戻っていくことが私たちがしていくことなのだということです。

その実践が「赦し」であり、また、それが私たちコース学習者が訓練していくべきことであるということを肝に銘じておきましょう。


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