見出し画像

もう一つの別の見方があることを知るなら、この世界の牢獄の扉の鍵を開けることができる

「ビリーバー」から「幸せな学習者」へ

私たちはここ(この世界の夢の中)で何をしているか?

というなら、自分が知覚しているもの、自分が経験していることを現実だと信じ切って、真実をまったく忘れてしまっていると言うことができます。

これが現実、ここが現実であるとまるで信じ切ってしまっていて、疑うことすらしようとはしない無知な状態になっているわけです。

本当は神の子として天国のワンネスと共にいるにもかかわらず、今や私たちは、分離の思考体系(自我の思考体系)のビリーバー(信者)となってしまっているといえます。

自分ででっち上げたもの(投影)に振り回されて、

自分とは何者なのか?

をすっかり忘れてしまっている、、、それが私たちです。

それらすべてが自分で自らが作り出した幻想でしかないというのに、私たちは、まったく自分の知覚しているものに疑問視することすらしません。

というのも、「信じる者(ビリーバー)」となってしまった私たちは、もう一つの別の見方(真の知覚)があることをまったく忘れてしまっているのです。

それゆえに、ただ信じるほかなく、知覚しているものにまんまと騙され続けている以外ないというわけです。

それを疑うということができないのです。

ようするに、私たちは自我の思考体系を信じる者(ビリーバー/信者)となってしまって、今やこの世界の牢獄に閉じ込められている状態になっているということです。

でも真実は、私たちはただ天国(神)から離れたという分離の夢を見ているだけで、その夢のストーリーの中に没入しているにしかすぎないのです。

それが何を意味するのか?というと、

私たちは夢の中にいながらも、「これはただの幻想である」と見ることのできる知覚の仕方があるということです。

もう一つの別の知覚の仕方(真の知覚)があるということを知る(思い出す)なら、私たちはこの世界の牢獄の扉の鍵を開けることができます。

そのための実践的な手段が、「赦し」です。


”赦しが幸せへの鍵である。”(W-p1.121)

奇跡講座/中央アート出版社

”この単純なレッスンの握る鍵が開くのが、永遠に閉ざされているとあなたが信じている暗い扉である。”(T-14.Ⅱ.7:5)

奇跡講座/中央アート出版社


もう一つのまったく別の異なる見方があることを知ることで、 私たちは、今、自分が知覚していものを疑問視することができるようになります。

つまり私たちは、もう一つの別の知覚の仕方がある、つまり、「選択肢」があるということをコース(奇跡のコース/奇跡講座)を通して学び、そしてその実践の中でそれを思い出す訓練をしていくことが求められているのです。

そう、もう一つの「選択肢」があるということが思い出されていくとき、コースの(赦しの)実践の本格的な訓練がはじまることになります。

その訓練とは、

自我の思考体系を信じたままでいるか?
それとも、
自我の思考体系を信じるのをやめるか?

というものであり、それをコースの言い方で言えば、

自我を教師としたままでいるか?
それとも、
自我を教師とする代わりに、聖霊を教師とするか?

という選択の訓練です。

その訓練がなされていくならば、自分がいかにこれまで「ひたすら不幸に献身している」(T-14.Ⅱ.1:2)ことをしていたか!ということが自覚/認識されていくようになります。

そうなってようやく、私たちは、

自我を教師とすることの代価(代償)と、
聖霊を教師としたときの報奨との、

その対照性を認識することができようになります。


”聖霊はこの対照性なくしては教えることができない。というのも、あなたは不幸こそが幸福だと信じているからである。”(T-14.Ⅱ.1:3)

奇跡講座/中央アート出版社


その対照性を認識していくならば、私たちは聖霊を教師として選び直していく訓練へのモチベーションがますます高まっていくことになります。

自分がこれまで信じてきた真実とするものについて疑問視していくことができるようになっていくということです。

その実践は、自分が信じているものを見つけ出して、それを訂正していくことをしていきます。

そのようにして、「信じる者(ビリーバー)」から脱却していくということです。

実際のところ、自分は「信じる者(ビリーバー)」としてただそれを信じていただけだったということを認識していけばいくほど、その自分はもはや「自分の本性」ではないと分かってくる同時に、それとはまったく別の真のアイデンティティー(真の自己)が体験的に自覚/認識されていくようになります。

つまりそれは、「信じる者(ビリーバー)」から「幸せな学習者」となっていくことを意味します。

ようするに、本当の自分は一なる神の子であることがますます認識されていくと共に、自分はその真のアイデンティティーを思い出すためにここ(この世界の中に)にいるのだという自覚/認識へとシフトしていくということです。

そうなっていくとき、この世界が「牢獄」から「教室」へと知覚されるようになっていきます。

そのようにして、ますます「幸せな学習者」となっていくといえます。


”聖霊は幸せな学習者を必要としている。聖霊の使命は、幸せな学習者の中で幸せに達成される。”(T-14.Ⅱ.1:1)

奇跡講座/中央アート出版社


コース(奇跡のコース/奇跡講座)のイエス、聖霊は、私たちが「幸せな学習者」となっていくことを望んでいます。

私たちが彼らを教師として、この霊性の道を彼らと共に歩みはじめるのを、彼らはいつのときも待っています。

それはいつのときかではなく、この今からでも歩みはじめることができます。

ただし、ここで私たちがわきまえておくべきことは、コースの実践は、「イエス、聖霊を信じる、信頼する」というようなものではないということです。

そもそも真理は、「信じる」ということを必要としません。

ときに、「聖霊を信頼しましょう!」といったことを提唱するコース・ティーチャーやコース学習者がおられたりしますが、

もし「イエス、聖霊を信じる、信頼する」という実践をしているとしたならば、それ自体が、「聖霊を信じていない」という前提になっているということを知る必要があります。

私たちがしなければならないのは、自分は「ビリーバー(信者)」であることを自覚/認識して、それを訂正していくことです。

信じているものを取り消すことをしていくわけです。

いわゆる、自分が自我を教師としていることを自覚/認識して、それをやめる(クビにする)ということです。


”今すぐ自分自身の教師の職を辞しなさい。”(T-12.Ⅴ.8:3)

奇跡講座/中央アート出版社


「自我を教師とするのをやめる」とは、そういうことです。

そして、それこそがイエス、聖霊を教師として招き入れるという意味なのだということも知っておきましょう。

ですから、まず大事なことは、私たちはすでに自我を教師としている、そして、自分で自分を牢獄に閉じ込めている、ということを自覚/認識していくことです。

それが、私たちに求められているということを忘れないようにしましょう。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?