コースの学びと実践を通して私が理解したこと、そしてその成果について
何が真の赦しであるかについて
コース(奇跡のコース/奇跡講座)学習の歩みは、「形而上学(理論)の学び」と「実践を通しての学び」の両輪によって、その学びは深化していくと言うことができます。
ですから、コース形而上学の学びも重要なのはもちろんのこと、それが実践において適用されていかないならば、学びを深めていくことはけっしてないということです。
そして、その実践的な手段が、「赦し」と呼んでいるものです。
ただ、その「赦し」とは、コースが独自に定義する「赦し」であるということを忘れてはなりません。
ですから、その赦しとは何か?が分かっていないなら、実践することすらできないといえます。
それゆえに、私たちは「赦し」について学ぶ必要があるということです。
そして、そのために私たちはコースを学んでいると言うことができます。
つまり、コースの教えを理解するということは、「赦し」について理解するということです。
しかも、それは完全に修得(習得/マスター)されるまで学ばれる必要があるということです。
「赦し」が、自分にとって自然なもので当たり前な状態になるまで、それは学ばれる必要があるのです。
そうでないなら、「コースを理解した」「赦しを理解した」ことにはなりません。
もちろん、私もその学びの途上であることは言うまでもありません。
以上のことを踏まえて、「赦し」について、現時点の私が理解したところから書いてみたいと思います。
コースの実践はどのようなことをしていくのか?
コースの学びが深まっていくつれて、どのようになっていくのか?
というなら、
自分の内側はどう反応しているか?
ということにフォーカスは向かっていくことになります。
つまり、自分の内側の反応(動揺)にフォーカスしていくことが重要事項になっていくということです。
心の決断の主体がどちらの教師を選んでいるか?
自分の内側の反応(動揺)を見れば、それが明らかだからです。
それがどういうことを意味するのかというなら、動揺は内的状況を認識するための単なるきっかけであって、動揺していること自体は重要ではないということです。
それがハッピーな感情であろうが、ネガティブな感情であろうが、動揺しているなら、自我を教師としていることを認識していくきっかけとしていくということです。
そのようにして赦しの実践をしていくにつれて、外側に起きる出来事について良きことが起きようが良くないことが起きようが、そういうことが重要ではないということが分かってきます。
つまり、それらをどれも同じ(自我の思考体系が作り出した幻想)として捉えていくようになるということです。
逆にもし、それらを重要視するとしたなら、もはや真の原因を見失うことになります。
真の原因ではないところにフォーカスされてしまうなら、もはや「赦し」はあり得ず、歪曲した実践になりかねません。
重要なのは、自分はどう反応しているか?ということのほうなのだということです。
それは、
自我を教師としているか?聖霊を教師としているか?
ということです。
もう一度申しますが、そのどちらを教師とするかが、私たちが実践していくうえで重要項目になっていくということを覚えておきましょう。
その反応が「動揺」であるならば、自我を教師としている、間違った選択しているということです。
そのことを認識していくことがとても重要です。
通常、私たちは自我を教師としているわけですが、そのことを咎めることなく認識していくということです。
そのとき、それが自我を聖霊と共に見ている状態であり、聖霊を教師としている状態だということなわけです。
聖霊と共に(聖霊の視点から)自我を見るならば、そのすべてが虚偽だとはきりと分かります。
それを「赦しのまなざし」と呼んだり、「聖霊のまなざし」と呼んだりしています。
そして、その視点から見る訓練を重ねていくことによって、「自分は心(の決断の主体)である」ということを思い出していくと同時に、その自分はいつのときもその選択肢(真の選択肢)に居るのだということを認識するようになります。
つまり、真のアイデンティティーを自覚するようになるということです。
そして、そうしていくことによって、「肉体と同一化していた自分」から「心の決断の主体の自分」へと自己認識(アイデンティティー)のシフトがはじまっていくということです。
自己認識(アイデンティティー)がシフトしていくとどうなる?
赦しを実践していくうえで、重要なポイントとされるのが、
自分は「個の自分」ではなく、自分は「心(の決断の主体)」である、
という自己認識(アイデンティティー)のシフトです。
「心(決断の主体)」の自分を自覚していくならば、その自分はむしろ動揺したがっているのを自覚/認識するようになります。
そのことを認識しているとき、つまり、その自我を咎めずに見ている(気づいている)とき、その自分は正気/正しい心から見ているということです。
つまり、それが、平安の教師、つまり、聖霊と共に見ている状態です。
ようするに、
1.「心」である自分を思い出して(心に戻って)、
2.動揺したがっている自分(自我)を聖霊と共に(聖霊の視点から)眺める、
ということをしていくということです。
それが「赦し」の実践で、私たちがしていくことです。
そのとき、すべてを虚偽として、平安と共に眺めることができます。
そのときもたらされる知覚(真の知覚)を、実践を通して自分で自分に教えていくのが私たちがしていく訓練なのだということです。
そして、その実践を通して分かってくるのは、「一瞬一瞬が、神からの分離を信じたあの原初の瞬間を、形態を変え、状況を変え、繰り返し繰り返し体験しているだけ」ということが体験的に理解されてくるということです。
”あの(原初の)瞬間”とは、まさに、今この瞬間なのだということも認識されていきます。
そして、自分(心の決断の主体)は、ずっとその「あの(原初の)瞬間」にいるのだと理解されてきます。
「原初の瞬間」とは、時間がはじまった場所であり、時間が終わる場所のことです。
そこは、時空を超えた領域、時空の外、この夢の外、です。
つまり、「赦し」の実践をしていくことによって、そこに居る(心の決断の主体の)自分が認識できるようになっていくということです。
それが、まさにアイデンティティ(自己認識)のシフトのはじまりです。
アイデンティティー(自己認識)がシフトしていくとどうなるのか?
というならば、
外側の世界で起きていることは、その「心の自分」を思い出すためのきっかけでしかなく、外側の世界をそのための「教室」というふうに知覚するようになっていきます。
それと同時に、外側の世界は、本当は意味もないし価値もない、単なる「影」にすぎない、ということが腑に落ちていきます。
もちろん、それに伴う知覚も、全一(すべて同じ)と見る知覚へとシフトしていきます。
全一なる知覚とはどんなものか?というなら、外側に世界は無い、外側に他者はいない、すべてが自分からは離れていない、というふうな知覚になっていくということです。
つまり、「想念はその源をはなれない」という原理の意味を理解するようになるのです。
すべてが心の自分の一側面を見ているだけであり、すべてが自分の一部だと知覚されるようになっていくということです。
そのようにして、肉眼で見ている形態から、心(の選択肢)の内容のほうへとフォーカスがシフトしていくということです。
確かさと信頼
コースの学びと実践を通して思うのは、やはり、このコースという霊性の道は長期的な訓練を要するということを痛切に実感します。
もちろん、まだこの時間と空間の世界が幻想だとは本気では信じていないわけで、だからこそ、学びと訓練をしていくしかないわけです。
この霊性の道を歩んでいくためには多大なる意欲と覚悟が要るということです。
だからといって、もはや先に前進していくほかなく、この学びと訓練以外にこの世界でしていくことなど何も無い、ということも分かっているわけです。
というのも、これまではまったく無自覚にこの外側の世界に振り回されて一喜一憂してきたわけですが、コースの学びと訓練によって、自分が誰なのか?何をしているか?を自覚/認識するようになるならば、当然、学びと訓練をしていかないわけにはいかなくなるわけです。
平安の教師、愛の臨在に触れる体験をするようになっていくならば、なおさらです。
この外側の世界のものごとに夢中にさせられて、そして、それを私たちは「人生」と呼んでいるわけでが、これまで、私たちはどれだけの無益な旅を続けてきたことでしょう。
それが無益な旅であると悟る(知る)ならば、誰が無益な旅を続けることをOKとするでしょうか。
無益な旅をし続けるなら、そこには希望もなければ、絶望しかないということを私たちは知る(悟る)必要があります。
そうでないならば、外側の世界に振り回されるばかりの旅(人生)になってしまうだけです。
でも、この旅の目的を変えるなら、そこには確かさと信頼があることを知るでしょう。
この人生で経験することのすべてが学びのレッスンとすることができるのです。
そうするならば、このコースは確かな道だとわかります。
その確かさとは、コースの教師のマニュアルでいうところの「信頼」と呼んでいるものです。
その信頼がもっと深化していくように、私たちはこの学びと実践(訓練)を重ねていくしかないということです。
以上、「赦し」について、現時点での私がその実践を通して理解したこと、そしてその成果について書いてみました。
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