ひとまえで表現することについてちょっと書いたので公の場に置きます

こちらの記事がとても興味深い内容だったので、
コメントを下書きして、
貼り付けたら
「コメントは500文字以内にしてください」
という警告が出て、投稿できなかったのが、数分前。

さて、どうしよう?
それなら、投稿するのをやめる、というのが最も短時間で今やっていることから離れられる方法。
500文字に収まるように推敲する、というのが次の案。
でもそれやると、言いたかったことと違うものになってしまうな、と思ったので、突然、自分のところに、貼ることに。

なので、読んでくださる方は、上の トコラテン さんの投稿へのコメントとして読んで戴ければ。

まぁ、たぶん、この文章は、ごくごく少数の方の目に触れるだけだと思います。
なんで公開するのかなぁ〜?
と思いながら。
以下がその全文です。

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まずは、お芝居をやっていたからこそ手に入れることができた協調性、
というのに感嘆。
こんなふうに自覚できたら、お芝居やってきた時間に心底感謝できていいなぁ、と。

順番逆になりましたが、
表現しているその時に、表現者自身が楽しさを感じる、ってことについて。
ワタシがやっている大衆音楽の界隈ではしばしば
演っている人が楽しそう!
というのが価値あることとして語られます。
見ている側の方々が書く感想のなかに、
演ってる人が楽しそうに見えることでますます高揚する、
みたいな表現を頻繁に見かけます。
演者同士の会話でも「楽しんで演って!」みたいな掛け声もスタンダード。
ここ読みに来てる人におそらく私のお客さんはいないと思うので書くと、
長年この掛け声に、ちょっと違和感を持っていました。
なので、この記事は、かなり興味深い内容でした。

で、今、もう一度考えてみると、ワタクシごとで恐縮ですが、
数回の長い休みを余儀なくされた後の昨年からのライブで、
この違和感が払拭されました。
解釈が変わったのです。
「楽しい」という言葉は、実は非常に漠然とした言葉でもあるな、と思っているのですが、まさに、その広〜い意味の隅っこ領域にあるであろう感じ。
今、こうやって演じることができること、その背景の総てに感謝が湧いてくる。
そのカンジを「楽しい」という語に当てはめることもできるかな、と。

人前で何かやる、ということは、受け手のことを考えるのが第一。
発信なので、お客さんは現象だけをみているのとは違う。
もちろん、綿密に作り込まれたコンテンツ(音楽、劇、朗読 etc)は、
意図を持って発信されると同時に意図しない現象も発信されます。
で、意図しない領域の中に、演者のコンディション等があって
それゆえに、楽しさが多く発信されることはあると思います。

個人的には、楽しそうに見えるように演出する
というのがモーレツに性に合わないので、それはやりません。
それはやったとしても、単なる演出だというのは多くの人には伝わると思っているからです。
もちろん、一定の割合の人には伝わることがない、とも思っています。

すみません、コメントなのに長くなりました。
最後に書かれているように、
見せる方と、見る方とで出来上がる全体の空気
というのが本当に肝。音楽とおなじだな〜と。
世界は同じ空間を共有することについての価値をないがしろにする方向へ
どんどん進んでいますが、それじゃダメよね、と思ってます。
おじゃましました。

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