禅という言葉の説明の一例

20年以上前のことになりますが、私はある禅寺で某有名な宗教社会学の先生と語らっていました。その先生は私に
「私はかつてスタンフォード大学で『禅とはなにか』というテーマで講演をやったんだが大いに受けたが君はどう思う?」と言われました。講演の内容は
『我々が自分自身を幸福に導くのに2つの方法がある。1つは外の環境を作り変えて行く方法であり、もう1つは内なる自己自身を変えてゆくというやり方である。前の方は西洋に発展した科学的・技術的な方法であり、後の方は東洋、ことに禅によって代表的に示されている主体的な道である。例えば、暑くてたまらんとすると西洋の人はエアコンで温度を下げる。禅者は“心頭を滅却すれば火もまた涼し”(織田信長に焼き殺された甲斐恵林寺の快川禅師の言葉)となる』
だったそうです。

私はその時先生へ「僭越ですが先生は禅という言葉の意味を間違って認識されているようです。エアコンの技術主義と心頭滅却の精神主義といった対比の仕方で禅を考えることを私は好みません。禅でいう『心』は、科学に背を向けてこれと対立して見られるような、なにか神秘的・主観的な精神ではないからです。私はむしろこう言いたいと思います。益々高性能なエアコンを作り出す科学的行いの真っただ中こそ禅がなければならないと。この現代の今を生きて働く禅なのですから。」
と返答しました。先生は君は生意気だねと叱られました。

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