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感情は目的を達成するための道具に過ぎない

今日のテーマは「怒り」をはじめとした感情についてです。
アドラー心理学において「怒り」は目標を達成するための道具として
考えられています。

僕がアドラーに強い支持を寄せるのは、こういった「目的論」が
かなり的を射た内容であることが大きいです。

原因論的な考え方であれば、感情が先だと考えるのが普通です。
「侮辱されたから怒りを感じて、怒鳴った」
これが原因論的な見方です。

目的論はまず「相手を屈服させたい」という目的が発生し、
それを成し遂げるために怒りという感情を沸かせたという
考え方です。
一見あべこべに見えるかもしれませんが、
これは相手が誰であるかを変えると簡単に説明がつきます。

誰かに道でぶつかったとします。
視野が吹き飛び倒れ込む。
「誰だ?一体どこを見て歩いてるんだ?怒鳴りつけてやる!」
相手がわからない内にあなたの表情は怒りに満ちていきます。
この時既に「相手を服従させる」という目的を形成しています。
そしてぶつかった相手を見たら、
筋骨隆々なヤクザで、暴力沙汰になったら絶対に勝てなさそうな
相手でした。

この時、あなたの怒りは必ず霧散するでしょう。

『こいつに戦いを挑んだら殺される』

途端にあなたは恐怖を覚え謝罪をしてしまうでしょう。
目的が「相手の屈服」から「服従して媚びを売り、生き延びる」事に
変わったからです。そして怒りに満ちた感情は一瞬で消え去りました。
人はこういう計算を一瞬で行います。
そして、感情というものは状況に応じて簡単に出し入れ可能なものだということがわかると思います。

ヤクザはあなたをひとしきり罵って、去っていきました。
あなたは生き延びるために必死にそれに耐えました。
無論、ヤクザが去ったあと、ヤクザに向かって心のなかで舌をだしたり
毒づいたりするでしょう。「相手を屈服させられなかった不満」が
あるからです。
でも、ヤクザ相手にそれを表すことはありません。

負ける戦だからです。

残った不満は代替物へ八つ当たりすることで解消することになるかと
思います。
そう、怒りを表出させても良い「自分より弱い相手」に向かってです。
無機物に当たり散らかすならマシですが、大抵は人間に向かいます。
何故なら「相手の屈服」の証拠が欲しいからです。
それが当初の目的だったからです。

それが「いじめ」の源泉です。

弱い者たちが夕暮れ、更に弱いものを叩くとは良く言ったものです。
人は相手によって感情を簡単に切り替えて出し入れしてできるし、
不満がある時はそれを表出しても良い相手を選んで
自分の目的のために感情を作り出すのです。
「こいつには何をやっても良い、良いサンドバッグだ」
不満をカタルシスに変える期待と、絶対の安全性を確信した
相手を前にした表情を想像してみて下さい。
これが「傲慢」です。
精神的な歪みはこういった感じで生じていきます。

では、何故そうした「怒り」などの感情によって人を操作し
屈服させようとするのか?
それは赤ん坊の頃の話にまで遡ります。

赤ん坊は親に世話をしてもらわないと生き残れない脆弱な存在です。
そして、理論的な言語を習得していないため、泣いたりすることでしか
自分の意志を伝えることができません。
なので、お腹が空いたとか、抱っこしてほしいとか、そういう欲求が生まれた時に、泣くことでしか欲求を伝えることができないのです。
反抗期の子供になってくると欲求を伝える方法に怒りが加わってきます。
それについて親が屈服してかまってあげたり従ったりすると
子供は「ああ、怒れば自分の思い通りになるな」という事を学びます。
そうやって子供は感情の使い方を学んでいくわけです。

大人になっても他人を怒鳴りつけたりする人というものは
そういう子供じみた欲求の通し方をまだ採用しているということです。

人前ですぐ泣く人も基本は同じです。
泣けば相手が同情して自分の欲求を満たしてくれる。
だから「悲しい」という感情を作り出すのです。
人生をそれなりに生きてくれば、怒りや悲しみで
自分のわがままを通せなくなる事は成長過程で大抵学べるはずです。
駄々をこねて地面に寝そべっていやいやをしている子供を放置して
去っていく親のシーンを見たことがあるでしょう。
ああいう経験を経て、子供は自分は世界の中心でもないし、怒りや
悲しみで全て解決できるわけではないということを学んでいきます。

しかし、親が子供を甘やかしたりしてしまった場合、自分の感情が世界を征服できると勘違いをしたまま大人になってしまうのです。
過干渉、過保護な親に対しての不満があった時、たまたま弱そうな相手に
その不満をぶつけてみたら、相手が服従して不満が解消された。
そのカタルシス、成功体験が、怒りの有用性を確信させ、そのまま
怒りという道具に頼って大人になっていくのです。

しかし、世界は一個人の怒りごときで変わってくれるほど
甘くありませんし、感情的な人間は幼稚であるとレッテルを貼られて
社会から締め出しに会います。
でもそういった経験を持ってしても幼少期に確立された「怒り」という
道具による、安直且つ手っ取り早い手段を捨てられない人は多いのです。
これは感情の本質を理解できていないからですし、
他にまともな手段が思いつかない、または理論的な説明によって
相手とのコミュニケーションによる「落とし所」を言語によって作れない、
言語化することが煩わしい、自分の欲求が100%満たされることに
執着している人が陥りやすいです。

怒りは基本的に自分の欲求を満たすための権力闘争の道具です。
そして怒りの有用性を信じている人は自分の身の回りを「怒り」で支配できる人で固めようとします。
怒りで支配できない相手は「排除」しようと試みます。
怒りでゴリ押しするか、狡猾な計算によって相手を罠にはめるか
手段を選ばずに自分の欲求を満たそうとするでしょう。

女性のいじめが陰湿だと言われているのは、女性は腕力が弱く
怒りでゴリ押しできない、男性という物理的に敵わない相手がいるのと
腕力でゴリ押しするような女性は女性として良くないという
社会的体裁があるからです。
水面下であらゆる手法を使って、相手を服従と自分の不満を解消する
カタルシスのための道具にしようとします。
密室であれば暴力も使うでしょう。
また、例えば上司、部下の関係だった場合、相手が男性でも
上下関係を利用して部下を怒鳴りつけて服従させるケースもあります。
そうやって計算して、有用な場合は「怒り」を用いるのです。
形勢が不利になった場合泣くことで、哀れみを買って優位に立とうとすることもありえます。

どちらにせよ、感情は道具に過ぎません。
有用なら使うし、使えない場合は使いません。
まず、「目的」があるのが前提です。
男は単純に暴力で解決できてしまう事が多かったので、
暴力を用いるケースが多いというだけです。
暴力や感情の発露、どちらも「相手を服従させるという目的のための手段」に過ぎません。

じゃあ、その目的とはどこから湧いてくるのか?
次回はその辺りを語っていきたいと思います。

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