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誰かのために

わたしは「我が強い」方だったかと
思いますが


奈良県天理市で心理セラピストをしている
ADOです。


最近では、角が取れてずいぶん丸くなった・・と
我ながら感心しています(笑)


若い頃、わたしは自分の考えをしっかり持っていて
人の言動に流されない芯のある人に
憧れていました。


それだけ、自分が弱かったので
「そうなりたい」と強く思ったんだと思います。


だから、自分も強い人になったつもりで
それらしく振舞っていた時期もありました。


涙もろいクセに、人前で涙を見せるのは
カッコ悪いと思って

うるうるしていても、涙をこぼさないように
堪えていたのです。


・・・今なんか、歳のせいか
感受性が鈍ってしまって(笑)


なかなか泣けなくて
それはそれで、残念ですけどね・・(^^;


とにかく、若い頃は強く見られたい一心でした。


今にして思えば、ふたり姉弟で
弟は頼りなく、父は子育てに非協力的。

母は、わたしを拠り所にしていたので

その期待に応えるために

「強くなれ」「強くなれ」と
自分を鼓舞していたのかもしれません。



そんな育ちだったからか
わたしは、人に流されにくい

いわゆる「我の強い」タイプに成長していました。


環境が人をつくるんですね・・


でも、環境は人を変えることもできるようで

いつしか、わたしの考え方も
柔らかく変化していきました。


「自分のために」というのもいいけど

「誰かのために」存在するのも悪くないな・・と
思えるようになったのです。


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社会の歯車になって働くのはイヤだ、とか


誰からも評価されない
家事に埋もれてしまうのはイヤだ、とか

わたしにも、そんなふうに考えていた時期がありました。

自分を犠牲にして、やり甲斐を感じないことをやるなんて

または、時間は自分のために使いたいのに
人に振り回されるのはまっぴらだ・・と、考えていたのです。



こうして時間が経ち、俯瞰してみると
ずいぶん尖がってたな・・と、思うのですが

そのときは、それが「自分軸」だと信じていました。


わたしの息子たち世代が
今まさに、そんな考え方をしているようですね。


「時間は有限だから」という捉え方
ぜんぜん間違っていないと思います。


「自分を一番に考えて」という発想もばっちりです。


でも、
所詮人間は、ひとりでは生きていけないんですよね。


というか、
人の中にいないと、幸せすら感じられないのです。


それがわかったら、社会の歯車になるのも
家事に埋もれるのも、いいやん・・と、
思えるようになるんですね。


もちろん、わたしが今この場から居なくなったとしても
社会は、これまでと何ら変わりなく回っていくし

家庭だって、少々の混乱はあったとしても
時間が経てば、わたしが居ないなりに日常が戻ってくるのです。


そういう意味では、はじめから人ひとり居ても居なくても一緒
なのかもしれません。


宇宙から見れば、人間ひとりの存在なんて塵のひとつにも
満たないでしょ?


だけど、
そんな塵でも存在するからには
それなりの理由があるのだと思うのです。


それは
命をつなぐためかもしれないし
誰かを助けるため、誰かを喜ばせるため・・かもしれない。

人それぞれに、存在理由はいろいろだと
思いますが


「ここに居て良い」から存在しているわけです。


これって
有難いことだと思いませんか?


「生きている」ということは
あなたの居場所はあるよ、ということです。


***

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