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シオニズムとは何か―公平な中東理解のため

駐日イスラエル大使の抗議声明に寄せて

2022年5月31日、イスラエルのギラッド・コーヘン駐日大使はテルアビブ空港銃乱射事件の実行犯および首謀者が社会で暖かく迎えられていることに抗議の意を表明した。

https://www.j-cast.com/2022/06/02438593.html?p=all

テロの歴史を語る上でテルアビブ空港銃乱射事件は「テロリストが無差別に多くの一般市民を襲撃した初の事件」として象徴的である。日本では実際に「イスラエルの圧制に対するパレスチナ人解放を目的としたテロ」として受け止められることが多い。しかし実際に犠牲になったのはほとんどがイスラエルと無関係のプエルトリコ人だ。

あまり指摘されないが、日本において「イスラエルはユダヤ教を狂信するシオニストの国でありパレスチナ人を一方的に迫害している」という中東観が人口に膾炙している。その結果がテルアビブ空港銃乱射事件の実行犯および首謀者をある種の英雄として迎えてしまう土壌を作ってしまっている。

日本政府は長らく旧英領パレスチナにおける和解プロセス、所謂中東和平に関わってきたが、日本政府の立場はあくまでイスラエルとパレスチナ自治政府の「二国家解決」である。筆者もこの立場だ。しかし日本の世間一般ではイスラエル側が一方的な悪者で、旧英領パレスチナの権利はすべてパレスチナ自治政府にあるという偏った中東観が広まっていると言わざるを得ない。政府と民間の意識の乖離はいつか問題になるのではないかと考えていたが、半世紀前のテロリストが日本で暖かく迎えられて、事件の被害者であるイスラエルの大使が抗議する事態となってしまった。

日本人の少し世界史を真面目に勉強した人の中東観は「イギリスの三枚舌外交が中東を分割し、イギリス領に多くのシオニストのユダヤ人が入植した。戦後ユダヤ人とアラブ人は対立し、アメリカの支援を受けたユダヤ人が勝利してパレスチナ人を迫害し続けている」といった理解であろう。大筋としては必ずしも間違っていないが、単眼的な認識の歴史観であり、パレスチナ寄りの中東観が生まれる原因となっている。

教科書を真面目に読むことは大事だが、日本政府の方針、つまり国際社会の和平プロセスの方針と乖離のある認識が広まってしまうのは長期的に見てよくないと考えている。今はまだイスラエル側の寛容な態度で大使の抗議で済んでいるが、いつかイスラエルと日本の関係に致命的な傷を与える事件に発展する可能性だってあるのだ。現にテルアビブ空港銃乱射事件も、中東についてよく知らない日本人が一方的にイスラエルを悪者と決めつけ暴走して起こった事件である。暴走する善意が第二のテルアビブ空港銃乱射事件を引き起こさないと誰が保障できるだろうか。

そこで教科書的な世界史観をこの記事を通して、二つの論点で脱構築していきたい。

まずそもそもシオニズムとは何なのかから説明していく。経験上シオニズムについて誤解している日本人のほうが多い。「(これが誤解でしかないのだが)狂信的なユダヤ教原理主義者でありこの土地は神が我々に与えた約束の土地だから我々はシオンの地に住む権利を有している」というのが一般的な‶中東通"日本人のシオニズムについての理解であろう。この見方がいかに偏っていて、問題はより複雑であり、イスラエルかパレスチナ自治政府どちらか一方の肩を持つことはできないことを説明する。

そして次に「イギリスの三枚舌外交」についても事態はもっと複雑であることを指摘しておきたい。noteの記事ひとつでまとまるような内容ではないので書籍の紹介にとどめるつもりだが、この記事が中東の多角的理解の助けになることを願っている。

1.シオニズムとは何か

1-1.思想的起源

まずシオニズムとは「ユダヤ教原理主義運動」ではないという話から始める必要がある。むしろ起源を遡るとシオニズムとは、誤解を恐れず言えば反ユダヤ教的な民族覚醒運動としての側面もあった。

シオニズムとはナショナリズムである。丸山眞男によれば「ナショナリズムとは、ネーションの統一、独立、発展を志向し、推し進めるイデオロギーおよび運動」であり、シオニズムも世界中に存在するナショナリズム運動の一種である。ナショナリズムの内実は多様であり、民族の宗教を伴うこともあるが、必ずしも宗教原理主義とは限らない。また、日本ではナショナリズムは悪きものとして刷り込まれることが多いが、ナショナリズムとは世界的に見て普遍的で、必ずしも善悪では測れない中立なものである。

シオニズムが形成された時代は19世紀後半、この時代は列強間の帝国主義の時代であり、それ故に世界中の民族が自分たちの民族の国家、つまり「国民国家(ネイション・ステート)」を獲得しようと目覚め始めた時代であった。

シオニズムも、世界各地で誕生した自民族の国民国家を獲得しようとするナショナリズムの一種である。しかしシオニズムは次の2つの点で特殊なナショナリズムであった。まず当時ユダヤ教徒は世界各地に散らばっており、統一の言語を持っておらず、宗教は共有していても文化は非常に多様だった。つまり他のナショナリズム運動と比べて民族の統一性を欠いていた。次にユダヤ教徒は各地に散らばっているが故に民族の土地と言えるものを持っていなかった。聖書時代の故郷である旧英領パレスチナ、所謂シオンの地が民族の故郷として共有されるようになるまで、シオニズムというナショナリズム運動は民族、土地を欠いた特殊なナショナリズム運動としてスタートした。国民国家を作ろうとしてもまずユダヤ民族とは誰か、ユダヤ民族の国土はどこかが決まっていないという困難を抱えていた。

次の節で詳しく説明するが、ヨーロッパ世界のユダヤ教徒は長い歴史の中で迫害を受けていた。「ユダヤ教徒には選民思想がある」というのもどちらかというとヨーロッパのキリスト教徒によるユダヤ教徒迫害正当化のために使われてきた偏見である(にも関わらず学校の世界史の教科書は堂々とユダヤ教の特徴について選民思想という言葉を載せている。だからこそ教科書的世界史の脱構築が必要なのだ)

話が脱線したが、迫害に対してユダヤ教徒の多くは耐え忍ぶことを選んだ。自分たちは寄留の民であり、神からの罰、試練を受けている状態である、正しい信仰を持って生きていればいつか神は我々を故郷に連れ帰ってくれるかもしれない、そうした希望を胸に慎ましやかに生きて、困難を神に与えられた試練として受け入れることを選び、長いことユダヤ教徒として文化を育んできた。

しかし19世紀後半、世界各地でナショナリズム運動が活発になり人々が宗教以外の生き方に目を向け始めるようになると、「ユダヤ教」を自分たちを束縛する古臭い因習と見なす人々が出てきた。これまで何世紀も迫害を耐えてきたのに神はなにもしてくれないじゃないかという怒りもあっただろう。抑圧されて生きることを正しいこととして要求してくるユダヤ教に対する批判が生まれるのも当然だ。自分たちを縛り付けようとする古臭い迷信である「ユダヤ教」を捨てて、「ユダヤ民族」として生まれ変わるべきだという素朴な願いが初期シオニズムの思想的な起源であった。

「ユダヤ民族」の国民国家を作り、ユダヤ民族の運命はユダヤ民族自身が決める、神でも異教の支配者でもない。こうして始まったシオニズムであるが彼らには土地がなかった。ヨーロッパ中のシオニズムに共感するユダヤ人が集まり会議を開き、どこにユダヤ民族の国家を作るべきか話し合った。最初は現在のアルゼンチンやウガンダの僻地を買い取るという話もあったが、東欧系ユダヤ人の強い要望により旧英領パレスチナ、シオンの地に帰還しようという意見が主流になっていく。

ちなみに当時のユダヤ教コミュニティは「ユダヤ教徒を故郷の地へ帰すのは神の意思、神の奇跡によるものであり、ユダヤ教徒が勝手に神との約束を破ってシオンの地に帰る、ましてや国を作るなど言語道断である」という意見が主流であった。つまりシオニズムとは極めて世俗的な運動であり、宗教原理主義とは程遠い思想だったのだ。

1-2.歴史的起源

19世紀後半、ナショナリズム運動が盛んであった時代にユダヤ教徒たちもシオニズムを選ぶのか、寄留国への忠誠を誓うのかの選択を迫られていた。実際のところユダヤ教徒たちの中にも、ドイツのユダヤ教徒ならドイツ国民、フランスのユダヤ教徒ならフランス国民として生きようとする人も多かった。

しかし現実は残酷であった。ナショナリズム運動の高まりはヨーロッパに染み付いていた反ユダヤ主義を顕在化、過激化させて、ユダヤ教徒たちの「国民として受け入れられる夢」を踏みにじった。西欧ではドレフュス事件が、東欧ではポグロムが契機となり、多くのユダヤ教徒たちがシオニズムの必要性を突きつけられてしまう。

ドレフュス事件はフランス軍の大尉がユダヤ教徒であることを理由にスパイ容疑をかけられた冤罪事件である。この事件の裁判、警察による捜査はあまりにも杜撰であり良識的なフランス人からも抗議の声が上がった。しかしそれをかき消すほどにフランス国民の間に反ユダヤ主義は根付いていた。

冤罪で群を除籍になったドレフュス

同じころ東欧ではポグロムというユダヤ教徒虐殺の嵐が吹き荒れていた。ユダヤ教徒というだけで頭に釘を打ち込まれて殺されたりなど残酷なニュースは西欧に暮らすユダヤ教徒にも伝わっていた。この二つの歴史的事件を契機にヨーロッパのユダヤ教徒難民、移民の断続的な英領パレスチナへの流入が始まる。

ポグロムの犠牲者 エカテリンブルグ
ポグロムの犠牲者 キシナウ
ポグロムの犠牲者 リヴィウ

西欧、東欧におけるユダヤ教徒の苦境を知ったオーストリア系ユダヤ人のヘルツルは『ユダヤ人国家』を出版して「ユダヤ人が民族として目覚めて自分たちの国家を持つ必要性」を訴えた。さらにヘルツルはユダヤ教徒たちを集めてシオニスト会議を主催した。これが現代イスラエルの建国につながるシオニズムの歴史的な起源となる。

旧英領パレスチナへ渡るテオドール・ヘルツル

よく勘違いされるがホロコーストはイスラエル建国の直接的な起源ではない。ホロコーストは迫害を受けてもなおヨーロッパに残り続けたユダヤ人の希望を打ち砕き、ヘルツルのユダヤ人国家のアイデアとイスラエルの建国の根拠にお墨付きを与えた、言わばとどめの一撃であった。つまりホロコーストを否定したところでヨーロッパにおけるユダヤ教徒迫害の歴史すべてを否定することは困難なのだ。

初期の英領パレスチナへのユダヤ人移民は移民と言うにはあまりにもみすぼらしく、着の身着のまま東欧のポグロムから逃げてきたほとんど難民のような人々が多かった。偏見とともに語られる「金持ちなユダヤ人」はヨーロッパで成功することができたごく一部のマイノリティであった。多くのユダヤ人は貧しく、特に東欧のユダヤ人にはもはや「シオンの地」しか行き場が残されていなかったのだ。

1-3.シオニズムの変質

シオニズムはヨーロッパ中で迫害されるユダヤ人の故郷を作ろうという運動としてスタートした。その性質は近代主義的かつ脱宗教的なもので、保守的なユダヤ教徒からの反発も大きかった。しかし対立を抱えながらも旧英領パレスチナへのユダヤ人移民は断続的に続いた。

旧英領パレスチナはもともとオスマン帝国の人口が希薄な地域、言ってしまえばあまり開発されていない田舎であり、ユダヤ人が当初入植した地域はマラリアが蔓延るような荒地も多かった。都市部ですらヨーロッパと比べるとお世辞にも生活環境がいいとは言えず、中には心が折れて「帰国」してしまう人もいた。しかしそれでも多くのユダヤ人たちは自分たちの故郷を自分たちの労働で汗水流して建設しようと努力した。

社会主義思想と農本主義思想を背景にした初期のこの運動は「労働シオニズム」と呼ばれる。必ずしもアラブ人と対立するものではなく、あくまで先住のアラブ人との共存を訴えていた。アラブ人の中にもユダヤ人の帰還を歓迎し、共に旧英領パレスチナを発展させていこうと説く指導者もいた。

シオニスト指導者ヴァイツマンとイラク王ファイサルの会談
アラブ人の衣装を纏った初期ユダヤ系入植者

しかしユダヤ人とアラブ人の協力関係は長続きしなかった。増え続けるユダヤ人に旧英領パレスチナのアラブ人は警戒心を抱くようになった。イギリスによる委任統治が始まる前からアラブ人による反ユダヤ人暴動が頻発していた。ユダヤ人は自衛組織ハガナーを結成した。

度々反ユダヤ暴動を煽ったアラブ人指導者アミーン・フサイニー
ヒトラーと会談するアミーン・フサイニー

1929年、嘆きの壁事件が発生して133人のユダヤ人がアラブ人により殺害された。イギリスはユダヤ人の移民および土地取得の制限を検討するようになった。1939年にはイギリスはアラブ人に大きく譲歩してユダヤ人移民および土地取得を大きく制限する政策を採った。しかしアラブ人の反ユダヤ人活動は収まらず、ユダヤ人側も自衛組織を強化して対応した。

焼き討ちに遭ったユダヤ人の家
暴動で殺されたユダヤ人の葬列

第二次世界大戦後、イギリスはユダヤ人とアラブ人の統治を諦めた。1948年5月15日をもって委任統治を終了して、旧英領パレスチナをアラブ人国家、ユダヤ人国家、国連管理地区に三分割することを受け入れた。しかし当時ユダヤ人とアラブ人の武力衝突は毎日のように発生しており、イギリスのこの宣言は「我々は紛争にこれ以上介入せず、アラブ人とユダヤ人に紛争の主導権を委ねる」と受け止められた。おそらくイギリス、ユダヤ人、アラブ人のうち誰もが「国連の分割案をみなが大人しく受け入れる」とは考えていなかったであろう。旧英領パレスチナはすでにユダヤ人とアラブ人の内戦状態にあり、イギリスの撤退はそのままユダヤ人共同体とアラブ人共同体の戦争へ移行することを意味していた。

イギリス委任統治の最終日、1948年5月14日にユダヤ人共同体はイスラエル国の独立宣言を発表した。独立宣言時点では国境について明確に言及していなかった。当時主流だった労働シオニストの間では国連のパレスチナ分割案におけるユダヤ人に割り当てられた領土を支持する者も多かったが、旧英領パレスチナ全土を要求する「修正主義シオニスト」と呼ばれる勢力も少しづつ強くなっていった。独立宣言に対してパレスチナのアラブ人、および周辺のアラブ諸国はイスラエルに宣戦布告し第一次中東戦争が勃発した。

パレスチナ分割決議案

第一次中東戦争において当初イスラエル軍は防戦一方であった。軍事力もイスラエル側が劣勢であり、戦後アラブ諸国との関係性を重視して欧米諸国はイスラエルの支援に慎重だった。イスラエル側は自衛組織ハガナーを中心にイスラエル国防軍を編成し反攻を開始する。アラブ連合軍は数だけは優勢だったが連携が取れているとは言い難く、イスラエル側は徐々に支配地域を広げていった。1949年、疲弊したアラブ各国はイスラエルと休戦協定を結ぶ。このときの国境線はグリーンラインと呼ばれ、イスラエルとアラブ諸国、イスラエルとパレスチナ自治政府の国境線として国際的に認知されるものとなった。

第一次中東戦争の結果
所謂グリーンラインと呼ばれる国境線

中東戦争はその後第四次まで勃発したが、いずれもイスラエル側が勝利した。ユダヤ教徒はヨーロッパだけでなく旧オスマン帝国領などを中心に中近東や北アフリカにも散らばっていたが、イスラエル建国以来中東系ユダヤ人に対する迫害も強くなる一方であった。

イスラエルは欧州系ユダヤ人主導で建てられた国だったが、中東諸国でのユダヤ人迫害が強まるにつれて中東系ユダヤ人の人口も増えた。アラブ人との共存を必ずしも排除しない労働シオニズムは長引く戦争の中で下火となり、東欧系ユダヤ人を中心とした徹底抗戦を訴える修正主義シオニズムやユダヤ教の伝統に則った国家建設を主張する宗教シオニズムなど様々なシオニズム運動が生まれた。

イスラエル人が2人集まると政党が3つできるというジョークがあるが、シオニズムは多様である。世俗的で必ずしもアラブ人を排除するわけではないもの、世俗的でアラブ人に敵対的なもの、宗教的なものなど目指す国家像、社会像はバラバラであるが、世界中で迫害を受けるすべてのユダヤ民族の故郷を建設するという理想を共有している。イスラエル人の思想が多様化する一方で、パレスチナ自治政府はユダヤ人をパレスチナ全土から排除するという点でまとまっている。パレスチナ自治政府がイスラエルへの敵対姿勢を強化するほど、そして中東諸国でユダヤ教徒への迫害が強くなるほど、「世界中で迫害を受けるユダヤ人を守るための国家」としてのイスラエルはユダヤ人にとってリアリティを持った存在となるのだ。

1-4.なぜ二国家解決なのか

日本政府、特に外務省は所謂パレスチナ問題について「二国家解決」を支持している。これはユダヤ人国家であるイスラエルと独立したアラブ人国家であるパレスチナ自治政府が平和かつ安全に共存することを目指すものである。

https://www.mofa.go.jp/mofaj/me_a/me1/palestine/page3_003117.html

なぜこの解決を支持する必要があるのか。

まずイスラエルにせよパレスチナ自治政府にせよ、どちらか一方に肩入れして片方の独立を決して認めない方針は、将来的にユダヤ人かアラブ人のどちらかを旧英領パレスチナの地から永久に追い出すことに繋がる。これは立派な民族浄化であり人道的に許されることではない。仮に実現させてしまった場合、ユダヤ人が勝ってもアラブ人が勝っても中東和平は遠のくであろう。どちらか一方の国の独立を認めないことは中東に更なる戦禍をもたらすことに繋がるのだ。

シオニズムとはナショナリズム運動である。もちろんアラブ人側にもナショナリズムは存在し、どちらか一方のナショナリズムを肯定して片方を否定することは不公平である。民族が存在し国家を作り出そうとする限りナショナリズムを根絶することは不可能であり、ナショナリズムを否定することは民族の根絶やしを願うことと同義なのだ。

また、イスラエルにせよパレスチナ自治政府にせよ、穏健派は二国家解決を支持している。そのため非当事者の身勝手な押し付けというわけではない。二国家解決はどちらか一方に肩入れするものではなく双方の主権を認め、外交交渉を通して多国家間で平和を実現するものである。戦後日本の外交方針とも合っており、双方に公平な解決方法となる。民間と政府の方針に乖離があると、どちらか一方に肩入れした"善意の日本人"がいつか第二のテルアビブ空港銃乱射事件を起こしてしまうかもしれない。政府はイスラエルとパレスチナ自治政府の共存が和平のために重要であり、どちらかの国家を認めないことは中東の平和を阻害することにつながるということを根気よく説明していく必要がある。

2.教科書的な世界史の脱構築

2-1.サイクス・ピコ協定は何を目指していたのか

世間では中東情勢混乱の原因は「サイクス・ピコ協定で列強がアラブ世界に不自然な国境線を引いたからだ」と言われる。教科書の説明から読み取れるものはここが限界である。
しかしこの見方に囚われると「サイクス・ピコ協定さえなければ、列強によるアラブ分割さえなければ中東は平和になった、平和になるはずだ」という誤解が生まれてしまう。実際にはサイクス・ピコ協定の枠組みを取り払ったところで中東に平和は訪れないのだ。

教科書的な歴史観の脱構築のため、池内恵先生の著作『【中東大混迷を解く】 サイクス=ピコ協定 百年の呪縛』を紹介したい。

https://www.amazon.co.jp/dp/4106037866/ref=cm_sw_r_tw_dp_NHCSTFTQP0DY4WCJG415

著者はサイクス・ピコ協定が中東の混乱の原因であるという単純化を戒めている。協定締結以前からオスマン帝国は領域内の民族問題を抱えており、帝国の勢いに翳りが見えるようになるにつれ、現地の諸勢力は欧州列強諸国を巻き込み独立運動を展開していった。著者はサイクス・ピコ協定はオスマン帝国崩壊の混乱を最小限に抑えるための処方箋としての役割を果たしていたと主張する。

サイクス・ピコ協定の問題点として中東の現状に合わない恣意的な国境線が挙げられることが多い。しかし実はサイクス・ピコ協定の前にセーヴル条約という、中東の諸民族分布の現状に合わせた条約が存在した。セーヴル条約は現地の諸勢力の意向をより強く反映したものだった。

もしサイクス・ピコ協定の問題が中東の現実に合わない恣意的な国境線を引いていることなら、セーヴル条約はより妥当な解決案として受け入れられたはずだった。しかし実際にはセーヴル条約により切り取られた諸民族の区画はあまりにも細分化されており、経済的にも政治的にも軍事的にも自立が困難であった。また、その細分化された領土ですら単一の民族が居住する均質な空間ではなく、言語や宗教を異にする様々な民族が入れ子状に居住する複合的空間であった。

セーヴル条約によるオスマン帝国分割案

セーヴル条約は3年後にローザンヌ条約という全く異なる条約に置き換えられる。オスマン帝国崩壊後、帝国の中東領土は英仏により分割されることになる。

サイクス・ピコ協定およびローザンヌ条約が問題のある条約であったのは確かであろう。しかし帝国崩壊後、列強を巻き込んで独立運動を展開した諸民族同士の紛争を「手打ちにする」効果があったのだ。戦後中東地域に成立したアラブ諸国は表向きには列強による分割を批判するが、一貫して列強が築いた国家の枠組みの中で統治を行なってきた。シリアとエジプトの連合のようにサイクス・ピコ協定が築いた枠組みを相克しようとする試みはあったが結局短期間で失敗してしまった。サイクス・ピコ協定はオスマン帝国崩壊後の権力の空白に一定の秩序をもたらした側面もあったのだ。

詳しくは『【中東大混迷を解く】 サイクス=ピコ協定 百年の呪縛』をぜひ読んでいただいて、教科書的な歴史の一歩先をいったより複雑な中東現代史を味わってほしい。

2-2.イスラエルはアメリカの傀儡なのか

第二の誤解、「イスラエルはアメリカの傀儡である」についても誤りであると指摘しておきたい。アメリカには多くのユダヤ人移民が住んでおり社会的に大きな影響力を持っているのは事実であるが、アメリカとイスラエルの関係は常に蜜月だったとは言い難いのだ。

これについてはイスラエルの歴史について書かれた本を読んでいただきたい。第一次中東戦争では当初イスラエル側が勝利するとは考えられておらず、アメリカも西欧諸国も戦後のアラブ諸国との関係もあり、支援には消極的であった。

植民地時代まで遡るとイギリス当局とユダヤ人共同体との関係性も距離感があった。むしろユダヤ人難民の英領パレスチナでの受け入れを拒否したりなどアラブ人に譲歩した政策も多かったのだ。

イスラエル成立後も欧米との関係は重視したが、決して言いなりではなく独自の外交方針で敵に囲まれた戦後の中東を強かに生き抜いてきた。アラブ諸国との関係性も流動的なところがあり、近年ではUAEとの国交正常化を覚えている人もいるだろう。

イスラエルという国は新しい国だが複雑な歴史を歩んでおり、小さいがダイナミックで面白い国である。政治信条は色々とあるが、一度偏見を捨ててどのような歴史を歩んできたのか、ありのままのユダヤ民族の歩みを知ってほしい。その上で中東和平のために何が必要なのかをもう一度考えて欲しい。

『イスラエル ――民族復活の歴史』   https://www.amazon.co.jp/dp/4895861627/ref=cm_sw_r_tw_dp_2HW1A8EQ313J9ZJ7FR5J 

『物語 イスラエルの歴史―アブラハムから中東戦争へ 』 https://www.amazon.co.jp/dp/4121019318/ref=cm_sw_r_tw_dp_27FKCE0DQM60NA2DZDFY 

2-3.「旧英領パレスチナ」の所有者は誰なのか

この記事では一貫して「旧英領パレスチナ」という表現を使ってきた。なぜなら現代イスラエルおよびパレスチナ自治政府の元となった国家の枠組みはサイクス・ピコ協定によって分割され、イギリスが持ち込んだ「イギリス委任統治領パレスチナ」という枠組みに由来するからだ。つまり列強が分割するまではこの地はオスマン帝国の「歴史的シリア地方」の一部であり、「パレスチナ」という独立した行政単位があったわけではない。パレスチナという表現はあたかも旧英領パレスチナはパレスチナ人、つまりアラブ人にのみ正当な所有権があるかのような誤解を与えてしまう。よって中立的な表現として「旧英領パレスチナ」または「パレスチナ地方」という言い方をすべきだと個人的に考えている。

さて、この旧英領パレスチナであるが、ユダヤ人の人口が多くなったのは植民地支配後であるということは事実だ。この地方はオスマン帝国の低開発地域であり、人口希薄地帯であったが、基本的にはアラブ人がマジョリティの地域であった。
しかしそれはこの地にユダヤ教のコミュニティが全くなかったということではない。エルサレムの第二神殿がローマ帝国に滅ぼされた後もこの地に連綿と受け継がれていたコミュニティもいくつかあった。旧英領パレスチナはパレスチナ自治政府だけのものであるという主張は、第二神殿崩壊後も居住し続けてきたユダヤ教コミュニティを排除することにも繋がる。

仮に古くから住んでいたユダヤ教徒のみを見つけ出すことができたとして、イギリスによる支配が始まってからこの地にに住み始めたユダヤ人を追放するのだろうか。似たような政策を行なって独立後失敗した国がたくさんあるし、そもそもそれは立派な民族浄化である。
ちなみにポグロムの被害を受けたユダヤ系難民の流入自体はイギリスによる支配が確立する前から始まっている。イスラエルの国家としての正当性を認めず、パレスチナ自治政府の言い分のみに肩入れすることは1世紀以上前にこの地に流れ着いたユダヤ系難民を再び離散の状態に追いやることになるだろう。

そもそも妥協することを知らず、ユダヤ人共同体を英領時代から脅かし続けたのはアラブ人側であった。初期のユダヤ人シオニストたちの中にはアラブ人との共存を目指すグループもいたのだ。彼らとの対話を拒絶したアラブ人に非は全くなかったと言えるのだろうか。ユダヤ人共同体と争うことをやめて話し合いを続けていれば旧英領パレスチナの半分以上の土地はアラブ人の手に渡っていた。それを拒絶して第一次中東戦争を起こしたのはアラブ人側であった。

今現在、アラブ人との共存を目指すシオニズムは主流から外れつつある。パレスチナ自治政府に住むアラブ人武装組織による反イスラエル闘争は激しさを増しており、双方の妥協点が見えない。このままではイスラエルかパレスチナ自治政府のどちらかが片方を旧英領パレスチナから追い出してしまうまで戦い続けることになるだろう。民族浄化の再来である。

だからこそ日本はどちらかに肩入れすることなく、あくまで二国家共存を訴えていくべきなのだ。イスラエルとパレスチナ自治政府がお互いの存在を認め合うことなしに中東和平は実現することはない。

3.参考書籍

この記事ではユダヤ人、ユダヤ教について知るために参考になる書籍を紹介する。アラブ人側の事情についてまとめたサイトは溢れているのでここでは扱わない。興味がある場合調べてみてほしい。

シオニズム、イスラエルの歴史について

・『イスラエル ――民族復活の歴史』
・『物語 イスラエルの歴史―アブラハムから中東戦争へ 』
・『物語 エルサレムの歴史―旧約聖書以前からパレスチナ和平まで』
・『イスラエルを知るための62章』
・『ロシア・シオニズムの想像力―ユダヤ人・帝国・パレスチナ』
・『社会主義シオニズムとアラブ問題 ベングリオンの軌跡』
・『シオニズムとアラブ ジャボティンスキーとイスラエル右派 一八八〇~二〇〇五年』

ユダヤ人、ユダヤ教について

・『「ユダヤ」の世界史: 一神教の誕生から民族国家の建設まで』
・『ユダヤ教の歴史 (宗教の世界史)』
・『ユダヤ人とユダヤ教』
・『図説 ユダヤ教の歴史』

中東情勢について

・『【中東大混迷を解く】 サイクス=ピコ協定 百年の呪縛 』
・『【中東大混迷を解く】 シーア派とスンニ派』
・『増補新版 イスラーム世界の論じ方』
(情勢が目まぐるしく変わってしまいだいぶ古くなりつつありますが)

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