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なぜユダヤ教はキリスト教に迫害されたのか

先日公開したシオニズムについての解説に「なぜユダヤ教徒がヨーロッパで迫害されるようになったのか知りたい」という質問があった。

これはローマ時代、キリスト教とユダヤ教が未分化だった時代まで遡れるテーマなので、シオニズムについて説明する記事では詳細を省略した。前回のnoteでも紹介したが「ユダヤ教には選民思想がある(ので迫害された)」というのはヨーロッパのキリスト教徒による迫害の正当化のために使われてきた言説である。にもかかわらず歴史や倫理の教科書には堂々と「選民思想」という言葉がユダヤ教の特徴として載っており、日本でユダヤ教に対する偏見を助長する原因となっている。
ヨーロッパにおいてユダヤ教徒は迫害してもいいマイノリティとして、つまり被差別階級として残されてきた。よくナチスだけが病的な反ユダヤ主義者だったとして扱われるが、欧州における反ユダヤ主義は何世紀にも渡り欧州社会に根付いたものであり、実際のところはヒトラーが特にユダヤ人を憎んでいたからではなく、欧州中でユダヤ人が憎まれていたからホロコーストのような事態につながったのである。
ではユダヤ人に対する憎悪はどのように生まれ、どのように欧州キリスト教社会に組み込まれていったのか。この記事で解説していきたい。

序.なぜユダヤ教は民族宗教から多民族により信仰される宗教になったのか

本題に入る前に、ローマ時代のユダヤ教は必ずしも民族的ユダヤ人の宗教ではなかったことを説明しなければならない。ユダヤ教は古代オリエントおよびヨーロッパ世界において、マジョリティではなかったが多くの民族の間で信仰された宗教であった。シオニズムの記事でも説明したように、ユダヤ教が民族性と再び結びつけられ、ユダヤ民族として再発見されたのは近現代に入ってからである。つまりユダヤ教が古代イスラエル人の枠を超えて多くの民族に信仰され、ユダヤ教のコミュニティを築いていた時代があり、それが現代にいたるまで続いていたのだ。つまりユダヤ教は古代に民族宗教として始まり、民族宗教の枠組みを超えた宗教に変化し、ナショナリズムの時代に再びユダヤ民族の宗教として再発明されるという少しややこしい歴史を持っているのだ。
ユダヤ教コミュニティが迫害される経緯について説明する前に、なぜユダヤ教が古代ユダヤ民族の枠組みを超えてローマ時代のヨーロッパやオリエント世界の諸民族の間で一定数信仰されるようになったのかを説明する。

ユダヤ教はもともとカナン地方(現代のパレスチナ地方)に住んでいた古代イスラエル人の民族宗教であった。一神教など現代につながる特徴は古代イスラエル王国、ユダ王国の時代に徐々に形成されたと思われる。この時代はまだ数ある民族宗教のひとつであった。民族宗教における神とは民族の守護神であり、一般的に「民族を守護する義務」を怠った場合、つまりその民族の国が敗北した場合は信仰が廃れることが多かった。
古代ユダ王国は新バビロニア王国に滅ぼされ、ユダ王国の指導者や司祭たちはバビロンに連れ去られた。これをバビロン捕囚という。普通の民族宗教であればこの時点で神による契約不履行、もしくは自分たちを滅ぼした民族の神のほうが強いということで、敗れた側の神の記憶はやがて忘れ去られていく。
しかし古代のユダヤ教徒は「かつて栄えていた自分たちの国が滅びてしまったのは我々が堕落して神の道から背いてしまったからだ。我々が改心して正しく生きていればいつか神は奇跡を起こして私たちを故郷へ連れて帰ってくれる。かつて神がエジプトで奴隷であった我々を救ってくれたように」と考えた。これが異教の地にありながら古代のユダヤ教が維持された理由であると考えられる。また、民族宗教から多くの民族間で信仰される普遍宗教に変化する第一段階でもある。

新バビロニア王国はのちにアケメネス朝ペルシャに滅ぼされる。バビロンに囚われていた古代ユダヤ人たちは解放され、故郷に返されて自治を認められた。このときどのような宗教でどのような自治を行うのか記述して政府側に提出するように要求された。このとき現代の聖書に通じる律法が形成されたと言われている。ペルシャ帝国による庇護下で教義が体系化された。民族宗教から普遍宗教への変化の第二段階である。この段階ではまだユダヤ教=古代ユダヤ民族の宗教であった。しかしアケメネス朝ペルシャがマケドニアに滅ぼされ、ヘレニズム文化と出会ったときユダヤ教は大きな変化を遂げる。古代ユダヤ民族を支配したヘレニズム諸国はペルシャとは異なり宗教を弾圧、同化圧力をかけてくることが多かった。古代ユダヤ民族はユダヤ教の独自性を自覚するようになり、支配者に対して独立運動を展開する。古代ユダヤ民族は強大なヘレニズム諸国に対して戦い、なんと独立を勝ち取った。ハスモン朝と呼ばれる。ヘレニズム諸国の時代、古代ユダヤ民族は商人として活躍し、オリエント世界の各地に散らばった。異質で同化主義的なヘレニズム文化に対抗して古代ユダヤ民族は強固なコミュニティを築き、異国の地でもユダヤ教の教えと文化を守ろうとした。また、このころから異邦人の改宗も積極的に受け入れるようになったといわれている。ユダヤ文化の独自性、高い規律、商業ネットワークは異邦人を引き付け、ユダヤ民族以外にも信仰する人が増えるようになった。ユダヤ教は民族の枠を超えてエジプト、ギリシャ、アラビア半島、エチオピアなどでも信仰されるようになったのだ。

1.ディアスポラとローマによる迫害

民族宗教の枠を超えてオリエント世界でユダヤ教を信仰する民族が出てきた。しかしオリエント世界でメジャーな宗教になる前にユダヤ教は危機を迎えることになる。ヘレニズム諸国に対して独立を勝ち取り独自の王国を築いたハスモン朝であったが、オリエント世界に進出してきたローマ帝国の支配を受ける。当初は自治を認められていた。しかしローマによる圧力が強くなり、ユダヤ民族は反ローマ抵抗運動を繰り広げる。2回のユダヤ戦争を経てエルサレムは陥落、第二神殿は崩壊して多くのユダヤ民族が居住地から追放された。
2回目のユダヤ民族による反乱の結果、ローマ当局は戦争の原因をユダヤ教やその文化にあるとして、エルサレムをローマ風の都市に改造した。ユダヤ教指導者を殺害、ユダヤ教関連書物を処分し、ユダヤ民族がかつてのエルサレムに立ち入ることを禁止した。

ユダヤ民族によるローマ反乱の失敗によりローマ全土へのユダヤ教の迫害が始まったわけだが、当時キリスト教はユダヤ教と明確に分化しているわけではなかった。初期キリスト教は異邦人(非ユダヤ民族)を中心にローマ帝国領内で勢力を伸ばしていたが、ユダヤ教と同一視されることも多かった。
そのためユダヤ教迫害の手は初期キリスト教にも伸びることとなる。ここで護教の観点から初期キリスト教は我々はユダヤ教とは別の新しい宗教であると主張する必要性が生まれた。
キリスト教には聖餐式といって「キリストの肉と血に見立てたパンと葡萄酒を食べる儀式」が存在する。ユダヤ教において血とは命そのものであり、他者の命を摂取することはたとえ家畜であっても禁忌とされるのだ。
象徴的なものとはいえ、人間の肉と血、つまり命そのものを摂取することを強要して信仰を問う、踏み絵を迫るような教義がキリスト教には存在する。つまりキリスト教とはその起源からユダヤ教を否定する理論が組み込まれているのである。
キリスト教を信仰することで必ずユダヤ教を憎むようになるということを言っているわけではないが、キリスト教の教義そのものがユダヤ教を否定するものであり、それがのちにヨーロッパ世界でユダヤ教を迫害する基礎を築いてしまったことは否定できないであろう。

2.アシュケナージ 東欧ユダヤ人

第二神殿崩壊後、ユダヤ教徒たちはローマ帝国中へ散らばった。そのうちヨーロッパ、特にドイツ語圏や東ヨーロッパに定着した人々をアシュケナージ(複数形でアシュケナジムと呼ぶこともある)と呼ぶ。
アシュケナージの起源ははっきりしていない。エルサレムから追放された人々だけでなく、ヨーロッパ系の改宗者も多かっただろう。迫害から逃れて中央の権力が及びにくいゲルマン人の領域に庇護を求めた人々もいたかもしれない。また、ゲルマン人の中からも改宗者が出ただろう。実際にアシュケナージとされる人々の顔を見ても普通のヨーロッパ人と区別がつかない。アシュケナージの多くはドイツ語の方言を話した。この言葉をイディッシュ語という。
ローマ帝国がキリスト教を国教にしたあと、多くの帝国臣民はキリスト教に改宗する一方で、ユダヤ教徒はキリストの奇跡を証する存在として改宗を免除されることもあった。ユダヤ民族の離散後、ユダヤとは民族というより宗教共同体を指すように変質していった。
存在を許されたが、キリスト教社会におけるユダヤ教徒は被差別階級であった。彼らは「キリスト殺し」の民とされ、またメシアが現れた後も福音と救いを拒む頑迷な民として差別されたのだ。
ローマ時代から続くユダヤ教徒に対する誹謗中傷も維持された。一番有名なのが「血の中傷」と呼ばれる「ユダヤ教徒が儀式のために異教徒の子供を拉致してその生き血を使っている」というデマだ。この告発は神殿崩壊時代にはすでに存在した。下手したらヘレニズム時代にまで遡れる誹謗中傷かもしれない。このデマは十字軍の時代に再燃し、十字軍がヨーロッパに住むユダヤ教徒を攻撃する理由として使われた。
十字軍による迫害、中世西ヨーロッパ諸国からのユダヤ教徒追放運動はユダヤ教徒たちを東へと追いやった。彼らは現代のポーランド、ウクライナ、ベラルーシにあたる地域に移住した。当時東ヨーロッパの覇権を握っていたのはポーランド王国で、ポーランド国王はユダヤ教徒たちの国内定住を歓迎した。ユダヤ教徒たちは貴族お抱えの商人、徴税人、使用人として優遇された。ウクライナ地方やベラルーシ地方の開拓のため貴族とともに移住するユダヤ教徒も多かった。ポーランド王国は西欧と比べて貧しく、彼らはユダヤ教徒の知識、技術、ヨーロッパ中に散らばるユダヤ教徒のネットワークを必要とした。
西欧に残ったユダヤ教徒もいたが、多くのユダヤ教徒が中世の間ポーランドに安住の地を見出し移住した。地域によってはユダヤ人人口が20%に迫ることもあった。しかし彼らの平穏も長くは続かなかった。ポーランド王国が衰退し、支配者が変わると支配を受けていた農奴たちの怒りはポーランド貴族だけでなくユダヤ教徒たちにも向かった。これが東欧における断続的に発生したポグロムの起源である。
ポグロムはシオニズム運動を生み、多くのユダヤ教徒が東欧の地を捨てて英領パレスチナや新大陸に移住するきっかけとなった。東欧ほどではないが、西欧においてもユダヤ教徒に対する迫害は続いており、戦乱とともに新天地を求めるユダヤ教徒が増加した。また、迫害の中でもヨーロッパにとどまることを決意したユダヤ教徒は第二次世界大戦でホロコーストによる虐殺を経験することになる。

3.スファラディ 中東系ユダヤ人

ユダヤ教徒のもうひとつの大きなグループにスファラディ(複数形でスファラディムとも呼ばれる)がある。彼らはスペイン語系のラディ―ノ語を話している。もともとイベリア半島に居住しており、イスラーム文明とキリスト教文明の橋渡し役を担っていた。
しかし1492年レコンキスタ完了後、スペイン・ポルトガル両国でユダヤ教徒は改宗か国外追放を迫られた。彼らはオスマン帝国領に移住した。移住先で独自のコミュニティを築き、言語を保ってきたので、ラディーノ語には15世紀のスペイン語の特徴がよく残っている。
スペインを追われたユダヤ教徒たちはヨーロッパに残ったユダヤ教徒と比べたら迫害は少なかった。これはイスラーム世界に啓典の民という概念があり、ジズヤ税を支払うことでズィンミー(庇護民)として異教徒の生存を認められた。この制度はムスリムたちからも「寛容の制度」であると主張されることが多い。
ムスリムたちの理屈から言えばズィンミー制度は「寛容」と言うこともできなくもないのだが、その中身を見てみると必ずしも異教徒にとって居心地良いものとは言えない。ズィンミーとされた人々は様々な権利を制限された。布教の禁止、宗教施設建造の禁止、武器や服装の制限、宗教儀礼の制限、結婚の制限、政治参加の制限、人頭税などムスリムと対等な市民とは言い難い。イスラーム世界において、ユダヤ教徒はもちろん、非ムスリムは二級市民とされたのだ。二級市民であるがゆえに差別を受けることだってあった。キリスト教圏と比べて恵まれていたからといって、スペインから追放されたユダヤ教徒たちの苦しみをなかったことにすることはできないであろう。

4.イスラーム社会におけるユダヤ人は迫害されていたのか

スファラディについての節ですでに書いたが、イスラーム社会において伝統的にユダヤ教徒が迫害されていなかったとは必ずしも言い難い。キリスト教圏と比べて身分が保証されていたというだけで、実態としては異教徒の二級市民化、被差別階級化といってもいい内容であった。また、ムスリムによるユダヤ教徒の虐殺も皆無ではなかった。有名なものだと1066年グラナダの虐殺がある。
現代において反シオニズムの文脈で「イスラーム法の秩序のもと、ムスリムとキリスト教徒とユダヤ教徒は平和裏に共存していた」という主張がなされることがある。しかしこれはムスリム側に偏った見解であり、ここで言われる共存とはムスリムによる異教徒の支配である。
また、仮にそれが事実だったとしても、もはや「イスラーム法の秩序のもと、ムスリムとキリスト教徒とユダヤ教徒は平和裏に共存していた」ような世界は永久に失われてしまったのだ。
先日アフガニスタンで暮らす最後のユダヤ教徒がイスラエルへと去っていった。もともとアフガニスタンには4万人のユダヤ教徒が住んでいたが、19世紀後半からの反ユダヤ的政策により多くが国外に脱出し、下の記事のシメントフ氏の家族のみとなっていた。
アフガンで暮らす最後のユダヤ人、女性や子どもなど30人連れて脱出 - CNN.co.jp

アフガニスタンだけではない。イスラエル建国後、多くの中近東に住むユダヤ教徒たちは迫害され、イスラエルへと逃げていった。今やアラブ世界が反ユダヤ主義の最前線となっている。ムスリムたちが反ユダヤ主義に傾くほど、シオニズムが主張する「世界中で迫害を受けるユダヤ人を守るための国家」の必要性がリアリティを持った存在となるのだ。もはやイスラーム世界はユダヤ教徒にとって安全な場所ではなくなり、イスラエル国家だけがユダヤ人を守る場所となってしまったのだ。

5.迫害の原因

結局ユダヤ教徒たちはなぜ迫害を受けてきたのだろうか。キリスト教圏にせよ、イスラーム世界にせよ、被差別階級として都合がよかった。また、ユダヤ教徒自身も離散と迫害は神の試練であり、耐え忍ぶことでいつか神が奇跡を起こして故郷に連れ帰ってくれるという信仰を持っていたのもあるだろう。
キリスト教やイスラームの教義にユダヤ教を下位存在とする理論があったことは説明した。これもユダヤ教が差別される原因となったが、必ずしもキリスト教とイスラームを信仰することがユダヤ教徒を憎悪することにはつながらない。現にイスラーム世界では「庇護民」として見られており、ヨーロッパであってもポーランドのようにキリスト教徒とユダヤ教徒が共存することもあった。
十字軍がユダヤ教徒迫害正当化のために用いた「血の中傷」も、キリスト教が広まる以前から、ヘレニズムの時代から存在するものであった。キリスト教にユダヤ教を否定する教義が組み込まれているのはその通りだが、似たような構造はイスラームにも多かれ少なかれ存在している。
ユダヤ教徒が迫害されてしまった理由をひとつに絞ることは難しいであろう。各地で圧倒的なマイノリティであったこと、その中で強固なコミュニティを維持したこと、ユダヤ教から生まれた宗教がユダヤ教を否定するような教義を持っていたこと、ユダヤ教自身が異教の地で迫害を耐え忍ぶことを良しとする教義を持っていたこと、これらすべてが組み合わさり、ユダヤ教は2000年以上に渡り迫害を受け続けたのだ。
国民国家の時代になると「迫害を受け続けたユダヤ教」からシオニズム運動が誕生した。それが現代のイスラエル国家再建につながり、今度はイスラーム圏でユダヤ教徒たちが迫害されるようになった。シオニズムの誕生はユダヤ教徒に「もう迫害を耐え忍ぶようなことはしない、我々ユダヤ民族の平穏はユダヤ民族自身で勝ち取るのだ」という意識改革をもたらした。迫害とともに歩んできた宗教は再び民族として、国民として復活した。ユダヤ人国家の獲得はユダヤ教にどのような変化をもたらすだろうか。今後もユダヤ教の悠久の歩みを見守っていきたい。

※あまり構成詰めずに書いたので記事の主旨がキリスト教圏じゃなくて世界中でユダヤ教が迫害された原因になっとるやんけという質問は受け付けておりますん

6.参考文献

『ガリツィアのユダヤ人(新装版): ポーランド人とウクライナ人のはざまで』
『スペインを追われたユダヤ人―マラーノの足跡を訪ねて』
『ユダヤ人と国民国家―「政教分離」を再考する』
『ユダヤ人とユダヤ教 (岩波新書)』
『「ユダヤ」の世界史: 一神教の誕生から民族国家の建設まで』


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