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カンボジア現代史⑤ ポルポトとは何者だったのか

前回までのあらすじ

 クーデターで政権を追われたシハヌークはクメールルージュと手を組んだ。ロン・ノル政権に国家をまとめる力はなく、ベトナムと中国の支援を受けたクメールルージュは勢力を拡大、5年後に政権を奪い民主カンプチアを建国した。
 政権奪取後、ポル・ポトは旧ロン・ノル政権の閣僚、軍人、官僚、警察官などを殺害した。しかしロン・ノル政権を崩壊させたはいいものの、当初の予想よりも早く革命に成功してしまったため、これからどのような国家を作っていくのか具体的なプランがクメールルージュ幹部の間でほとんどできていなかった。決まっていたことは都市部の住民を農村へ強制移住させて労働力として使うことくらいだった。こうしてプノンペン占領後「計画的」に市民の強制退去が行われたが、行き先は決まっていない人もおり、多くの人が40度を超える炎天下を歩かされた。プノンペンはゴーストタウンと化し、この強制移住で多くの市民が命を落とした。
 ポル・ポトにとって都市とは腐敗の象徴であった。資本主義に毒された都市部住民を労働を通して教育、農民に転用することで農業生産を向上させ、食糧危機も解決できるというのがポル・ポトの描いたプランであった。北ベトナムよりも早く統一を成し遂げたポル・ポトとクメールルージュ幹部は自信に満ちており、革命を成功させたように我々の国家計画も必ず成功すると信じていた。そのため農業生産が思ったほど上がらず、各地で飢餓が発生しているのを国内に革命の敵が潜んでいるからだと考えた。
 「内なる敵を探せ。うまくいかないのは国の中に紛れ込んだ敵のスパイが妨害しているからだ」これがポル・ポトの命令だった。カンボジア人は従順であり、忠実に命令に従った。政権内から末端の庶民まで「革命の敵探し」を実行した。共産圏にありがちな腐敗はカンボジアではほとんどなかった。それ故に誰もが真面目に敵を探したのだ。敵と見做された人は収容所に送られ拷問の末に殺されていく。今度は自分が殺されるかもしれないという恐怖から人々は忠実に革命の敵を粛清していった。
 クメールルージュの時代には大きく分けて2種類の悲劇があった。まず、クメールルージュの政策自体が急進的であり、そのわりに行き当たりばったりであったため、多くの人が餓死、病死する結果となった。そしてそれ以上に多かったのが国民同士の密告合戦によって死んでしまった人たちである。クメールルージュが政権を奪った1975年から民主カンプチア崩壊の1979年、このわずか4年の間で200万人が犠牲になった。これは当時のカンボジアの人口の約4分の1に相当する。

第5章 ポル・ポトの落日

5-1.東部管区の反乱とベトナムの侵攻

 粛清の嵐から逃れるためカンボジア東部から多くの難民がベトナムへ流出していた。ポル・ポトはこれをベトナムによる国内の破壊活動の証拠だと決めつけ、たびたびベトナムに国境を越えた攻撃を繰り返していた。侵攻したクメールルージュ軍の間では反ベトナム感情が広く共有されており、ベトナム領内で虐殺行為を行っていた。最も被害が大きく凄惨だったのがバチュク村の虐殺だ。クメールルージュ軍が侵入した集落の住民3157人のうち生き残ったのはわずか2人であった。

バチュク村 虐殺された住民の血痕

 1978年6月、バチュク村の虐殺から2か月後にベトナムはカンボジア国境地帯への空爆を開始する。同時期にポル・ポトによる粛清から逃れた東部管区のリーダーたちもベトナム領内に亡命していた。ベトナムは東部管区の師団長だったヘン・サムリンを中心に「カンプチア救国民族統一戦線」を結成した。 
 1978年12月25日、カンプチア救国民族統一戦線およびベトナムは民主カンプチアに侵攻を開始した。クメールルージュ軍は中国の支援を受けていたにもかかわらず非常に弱く、反乱軍の攻勢を止める力もなかった。疑心暗鬼に駆られていたクメールルージュ幹部は軍人に少年少女を使っていたのだ。これではいくら中国が支援をしても武器を使いこなすことも難しい。1979年1月7日には早くもプノンペンが陥落、ポル・ポトを中心とするクメールルージュ幹部は北西部タイ国境地帯のジャングルへと逃れた。
 3日後の10日、カンプチア救国民族統一戦線はヘン・サムリンを国家元首としてカンプチア人民共和国を樹立した。ベトナムが支援した政権なので共産主義政権から別の共産主義政権に変わった形ではあるが、クメールルージュの恐怖支配から解放されたカンボジア人は新政権を歓迎した。伝統的に反ベトナム感情が強いカンボジア人であるが、クメールルージュの恐怖を終わらせてくれるならベトナムにも縋りたかっただろう。こうしてポル・ポトが建国した民主カンプチアはわずか4年で崩壊したのだ。

5-2.再び内戦へ

 政権の崩壊はあっけなかったが、プノンペンを追われたクメールルージュは粘り強い抵抗を見せた。ヘン・サムリン政権の背後にベトナムがいたこともあり、反ベトナム感情が強い国民の間では受け入れられない勢力も多く、カンボジアは再び内戦の時代に突入した。

赤は内戦末期のクメールルージュ活動地域

 政権崩壊前にポル・ポトは西側諸国とも外交関係を持とうと模索していた。その甲斐もあり、日米、ASEAN諸国はクメールルージュ政権を支持、ベトナムと対立していた中国も引き続きクメールルージュを支援した。タイはポル・ポト派からルビーの採掘権を買い取り、木材やルビーの密貿易から得た資金でクメールルージュは戦闘を継続していた。一方でヘン・サムリン政権はベトナム、ソ連の支援を受けており、プノンペンの解放と政権奪取には成功したが、ベトナムの傀儡政権と見做されており、国際的には孤立していた。
 1982年2月、クメールルージュはシハヌーク派、ロン・ノル政権時代にフランスに亡命していたソン・サン派と同盟を組んだ。シハヌークとしてもポル・ポトにはうんざりしていたが、それ以上に自分の国がベトナムの支配を受けることが気に入らなかった。反ベトナム三派は「民主カンプチア連合政府」を結成し、国内は再び内戦となった。
 ベトナムは中国との戦争を乗り越えながらもカンボジアへの駐留とヘン・サムリン政権の支援を継続していた。ASEANはベトナム軍のカンボジアからの撤退を求めていたがベトナムは内戦への介入を続ける。1985年、ベトナム軍は民主カンプチア連合政府に大攻勢を仕掛け、反ベトナム三派の軍はほぼ壊滅した。シハヌーク派の拠点は陥落し、ポル・ポト派はさらにジャングルの奥へと撤退した。

5-3.和解、そしてポル・ポトの最後

 ポル・ポト派の敗走により1970年から断続的に続いていたカンボジア内戦はようやく終結に向かう。戦争は20年間続いた。途中クメールルージュの時代を挟んだが、ベトナムとの戦争は続いていたのと、戦争よりも酷い粛清の嵐が吹き荒れた。この20年はまさにカンボジア人にとって受難の時代だったと言える。ポル・ポト派の最後について書く前に内戦の流れをおさらいしておきたい。
 1970年、ロン・ノルによるクーデターからカンボジア内戦は始まった。北京に亡命したシハヌークはカンプチア共産党と呉越同舟の同盟を結成し、反ロン・ノル闘争を開始する。ロン・ノル政権はアメリカの支援を受けていた一方で、ポル・ポト派&シハヌーク派は中国とベトナムの支援を受けていた。ベトナムとしては交戦中のアメリカと対抗するためでもあった。一方で中国はベトナムの強大化、具体的に言うと北ベトナムの支配がカンボジア、ラオスに及び、旧仏領インドシナ時代の領土を支配する国になることを警戒しており、そのためポル・ポトやシハヌークを支援していた。

1970年内戦の勢力図

そしてポル・ポト政権崩壊後の1979年の内戦は冷戦構造の変化から勢力図が大きく変わる。米国やASEAN、西側諸国はベトナムやその背後にいるソ連と対立しており、クメールルージュ含めた三派連合を支援していた。ソン・サン派は反共勢力ではあったが、ポル・ポト派の軍をイギリスが訓練したこともあり、西側諸国は実質的にクメールルージュを支援していた。一方でヘン・サムリン政権の背後にいたベトナムは中国と交戦中であった。ソ連は1956年のスターリン批判以来中国と対立していた。そのためベトナムとともにヘン・サムリン政権を支援していた。

1979年内戦の勢力図

 カンボジアは常に冷戦の最前線にあった。冷戦構造に巻き込まれ、振り回され続けたことがカンボジア内戦の正体であり、内戦が20年にわたり長期化した原因である。そのためポル・ポト政権が崩壊したあとも平和が訪れることはなく、西側と東側、中国とソ連の対立が複雑に絡み合った国際情勢に引っ張られて戦争は続いた。
 内戦は冷戦の終息とともに終結へと向かう。1986年、ソ連のゴルバチョフはペレストロイカを実施し、これまでの対中国、対西側政策を和平路線へと転換する。ベトナムはソ連のペレストロイカを受けてこれまでの社会主義体制からの脱却を図る。1988年にカンボジアからのベトナム軍撤退を開始した。1990年、カンボジア和平東京会議が開催される。翌91年、カンボジア和平パリ国際会議が開かれ、ヘン・サムリン政権、反ベトナム三派は和平を合意した。この和平合意は包括的パリ平和協定と言い、カンボジア・ベトナム戦争の終結、カンボジア内戦の政治的解決に関する各国の合意、国連平和維持活動の派遣とカンボジアの復興、国際社会への復帰が決定された。この協定には日本も参加しており、日本は国連平和維持活動に自衛隊を派遣した。
 1993年、国連の監視下で総選挙が行われる。王党派のフンシンペック党が第一党、ヘン・サムリン政権を受け継ぐカンボジア人民党が第2党となった。フンシンペック党とカンボジア人民党は連立を組み、王族のノロドム・ラナリットが第一首相、カンボジア人民党のフン・センが第二首相となった。同年9月には新憲法を発布して立憲君主制を復活させ、シハヌークが国王として再び即位したのだ。フランスからの独立を勝ち取ったシハヌークはロン・ノル政権のクーデターにより政権を追われ、北京に亡命し共産主義勢力と手を組み、ポル・ポト派とともに政権を奪い、お飾りではあったが共産主義国の国家元首となる。そして内戦を乗り越えて再び国王に即位したのだ。こうしてカンボジアは共産主義の看板をおろして再び「カンボジア王国」としてスタートを切った。
 総選挙にポル・ポト派は参加しなかった。彼らは時代が国際協調路線に移ったことについていくことができず、対決姿勢を続けていた。しかし中国はもうポル・ポト派を支援することもなく、ASEAN諸国だけでなく世界は新生カンボジア王国を支えた。ポル・ポト派はジャングルへと追いやられ、かつてのクメールルージュ幹部たちも次々と投降した。1997年、カンボジア政府はポル・ポト派軍隊を政府軍に編入することを決定して帰順を促した。これにより北西部で抵抗を続けていたポル・ポト派は帰順派と徹底抗戦派に分裂する。ポル・ポトは帰順派の幹部を親族ごと虐殺するが、これに反発したポル・ポト派幹部のタ・モクはポル・ポトを裏切る。タ・モクはポル・ポトを逮捕して人民裁判にかけ、終身刑を言い渡した。逮捕後のポル・ポトは軟禁されていたが、1998年4月15日に突然死んでしまった。ポル・ポトは心臓の病気を患っており、軟禁場所の近くに砲弾が落ちた際にショックで死んでしまったというのがタ・モクたちの説明であったが、実際のところは分かっていない。毒殺、または自殺の可能性もある。しかし検証されることもなく、ポル・ポトの遺体は焼かれてしまった。遺骨は埋められ、簡素な墓がのちに建てられた。

ポル・ポトの墓

終章 結局ポル・ポトとは何者だったのか

1.ポル・ポトの人物像

 これまでカンボジアの歴史の中でクメールルージュ、及びポル・ポトがどのように歩んできたのかを書いてきた。ではあらためてポル・ポトという人物についてどのような印象を持っただろうか。共産主義諸国独裁者というとスターリン、毛沢東、金日成など強烈な個人崇拝というイメージが世間では一般的である。ではカンボジアの歴史を振り返ってみてポル・ポトはどうだろう。確かに強権的な独裁者であるが、ほかの社会主義国とは異なり一貫して控えめであった。秘密主義で表には出てこない、外交の場どころか国内ですら居場所を隠しており、プノンペンの制圧が完全に完了するまで支配者として表に出ることすらなかった。ポル・ポト自身ものちにジャーナリストに対して自分は子供のころから無口で控えめな人間だ、自分は指導者として吹聴したくないなど語っていた。
 ポル・ポトは決して冷酷で残忍な人物というわけではなかった。農村の少し裕福な家庭で生まれ育った普通のカンボジア人だった。フランス留学中に共産主義に傾倒したが、当時西欧で社会主義思想に触れる東南アジア植民地人は珍しくなかった。当時から革命について野心があったとの声もあるが、ごく一般的な理想に燃える若者であったといえよう。当時のカンボジアはフランスから独立したとはいえ、国民の多くは貧しく、富は外国企業や一部の都市富裕層が独占していた。マルクスの階級闘争はリアリティがあり、カンボジアの貧民を救うためには革命が必要だと考える人も多かった。
 ポル・ポトは2回結婚しているがどちらも家族を非常に大切にしていた。特に後妻との間に生まれた娘を溺愛していた。旧体制の遺物であるとして全国で家族を解体してきたクメールルージュであるが、幹部たちのほとんどは実際のところは家族を大切にしていた。戦後、一度も虐殺について自らの罪を認めなかった幹部も家族には頭が上がらず、親族を前にして自らがもたらした惨劇について土下座して謝ったこともあるという。ポル・ポトだけでなくクメールルージュの幹部も普通のカンボジア人だった。
 戦後生き残った幹部でクメールルージュ時代の虐殺について謝罪した政権幹部はいない。ポル・ポト含め自分たちは貧しいカンボジア人が幸せに暮らせる国を作るために戦っていただけで、決して殺すつもりはなかったという趣旨の証言をしている。クメールルージュの幹部たちが理想のために生きていたのは事実であろう。しかし実際には「革命の敵を見つけ出して殺せ」という命令はあったのだ。彼らの理想は独善的であり理想の邪魔をする人々は救うべき人々ではなかったのだ。

2.クメールルージュはなぜ失敗したのか

 クメールルージュはなぜ失敗したのか、なぜ多くの国民が死ななければならなかったのか。これを知るためにはクメールルージュは何を目指していたのかを知る必要がある。
 クメールルージュは予定よりも早くロン・ノル政権を打倒してしまったため、具体的な国家像について調整しきれていないところがあった。しかし準備不足は当然悲劇の原因ではない。むしろ結果であったとも言える。
 ポル・ポト、およびクメールルージュのイデオロギーは毛沢東思想や主体思想の影響を強く受けた共産主義とナショナリズムの折衷であった。ナショナリズムと共産主義は一見対立するようにも見えるが、実際には共産主義運動は脱植民地化も相まってナショナリズムと強く連動することが多かった。また独立を達成したあとも共産主義国同士がナショナリズムの高まりを背景にぶつかり合ったのはベトナムとカンボジアだけではない。
 思想としては珍しいものではなかった。しかしこの思想がカンボジアでは大虐殺の方向へと動いていく。ポル・ポトはカンボジアを資本主義の病魔から救い出すためにまず都市を無人にしなければならないと考えた。都市とは資本主義の腐敗そのものであり、革命とはガンを取り除く外科手術のようなものであった。ポル・ポトは必ずしも都市の人間を殺すつもりではなかった。農村で働かせることで新しい人民として迎え、カンボジアを資本主義から浄化された農業大国として生まれ変わらせるつもりだった。
 しかし実際のところ多くの人が飢えと過労で命を落とした。米の生産も当初の予想よりも少ない。ポル・ポトは自らの革命に自信を持っていた。ベトナムよりも早くアメリカを追い出したのだ。これだけ素晴らしい革命を成し遂げたのにうまくいかないのは革命の敵が我々の間に潜んでいて邪魔をしているからに違いないと考えていた。彼は死ぬまで自分の失敗は敵に邪魔されたせいだと考えていた。こうして「革命の敵を見つけ出せ」という命令が下され、上から下まで粛清の嵐が吹き荒れた。クメールルージュの革命は失敗したのではなく、あまりにも成功しており、制度として浸透してしまっていた。なのですべての人民が忠実に革命の敵探しを行った。真面目に敵を見つけなければ次は自分が殺されるという恐怖も粛清を加速させた。革命はカンボジア人を虐殺するシステムとして完成してしまったのである。そのため自分たちではどうすることもできず、ベトナムが介入しシステムを破壊するまでカンボジア人同士の殺し合いが止まらなかったのだ。

3.カンボジアの大虐殺は誰に責任があるのか

 結局カンボジア大虐殺は誰に責任があるのだろう。植民地支配を始めたフランスだろうか。ロン・ノル政権を生み出し革命の原因を作ったアメリカだろうか。それともクメールルージュだろうか。
 旧宗主国について、たしかにカンボジアを植民地にしたのはフランスだ。しかし思い出してほしいのは、フランスの保護を最初に求めたのはカンボジアの当時の国王だったということだ。当時のカンボジアはタイとベトナムの侵略によりすりつぶされる寸前であり、フランスの保護を受けたのは国を守るためだったと国民も認めている。また植民地支配が西欧文明と富をもたらし現代国家の基盤を築いた側面もあり、ベトナムですらそうした要素は認めている。もちろんのちにポル・ポトは西欧がもたらした富そのものを資本主義の腐敗であると憎むようになるのだが。
 アメリカについてはどうだろう。シハヌークを追い出してポル・ポト派が政権を握る原因を作ったのは確かにアメリカであり、空爆で国民を解放区側へ追いやってしまったのも責任があると言える。しかしアメリカはフランス植民地支配崩壊の後始末のため暗中模索している最中だった。その中でアメリカと協調するどころか、共産主義勢力に近付き情勢を引っ掻き回して不安定にしていたシハヌークも同じくらい責任があるだろう。そもそもクメールルージュは彼が育てたようなものだ。カンボジアへの内政干渉という点ではベトナムや中国も同罪である。
 カンボジアは冷戦構造の中で振り回された被害者だった。しかしそれはポル・ポトやクメールルージュのやってしまった罪を免責する理由にはならない。自らの目指した革命が虐殺マシーンになっていくのを止めなかったのは彼ら自身だ。また、国をあげた密告合戦で国内の20%を超える人々が犠牲になったということは、多くの人が加害者に回ったということでもある。カンボジア人自身の責任、排外主義、反ベトナムナショナリズムにも当然虐殺につながる原因はあったのだ。カンボジア人は誰もが被害者であるが、同時に誰もが加害者でもあった。
 カンボジア大虐殺は誰に責任があるのだろう。改めて考えると難しい問題である。当時かかわっていたすべての国、指導者、国民感情などすべてが複雑に絡み合って止められない虐殺へと転げ落ちていった。そしてその責任をポル・ポトというごく普通のカンボジア人を悪魔に仕立て上げることで押し付けているのが現状である。ポル・ポトは死んでしまったので何も語ることはできない。
 ポル・ポト政権下を生き残った人々には当時のことについて口を閉ざす人も多い。誰もが加害者であり、隣にいる人が実は自分の家族を密告した人かもしれないのだ。臭いものに蓋ではないが、せっかく取り戻した平穏を崩したくないというのが本音である。「ポル・ポト派狩り」が始まればポル・ポト時代の粛清の嵐に逆戻りする可能性があった。また、現代カンボジアの政府にも元クメールルージュのメンバーが多くいる。なんならフン・セン現首相は民主カンプチア時代の東部管区の軍人だ。クメールルージュ時代を生きた人々がまだ生き残っている限り、下手な責任追及はカンボジアの不安定化につながってしまうであろう。そのためクメールルージュ幹部の国際裁判は今でも難航している。審理が始まる前に死んでしまったメンバーもいる。
 ある事件を歴史として残すこと、原因を考えることは大切だ。しかし犯人捜し、責任追及が必ずしも平和をもたらすとは限らない。それは粛清の繰り返しだ。まず必要なのは癒しと和解のプロセスであり、カンボジアはその最中にある。クメールルージュ時代の自らの過去を悔いて宗教活動に専念する人も多いそうだ。我々外国人ができることはカンボジアの過去を興味本位で面白おかしく掘り返しセンセーショナルに騒ぎ立てることでなく、カンボジアの復興を支援し見守りつつ、彼らの歴史を客観的に学ぶことではないだろうか。クメールルージュの悲劇は普通のカンボジア人が起こした悲劇だ。同じことは日本では起こらないと本当に自信を持って言えるだろうか。
 この投稿で少しでも多くの人がポル・ポト時代のカンボジアで起こった悲劇に興味を持っていただけたら幸いだ。私のnoteなどよりも参考文献で紹介する本の方がずっと勉強になるのでぜひ読んでほしい。「ポル・ポトって誰だよ」という問いに答えられるように。

参考文献&参考にしてないけど参考になる本や映画

・『東南アジア史〈1〉大陸部 (新版 世界各国史)』
・『ポル・ポト〈革命〉史―虐殺と破壊の四年間』
・『ポル・ポトの悪夢: 大量虐殺はなぜ起きたのか』
・『カンボジア大虐殺は裁けるか―クメール・ルージュ国際法廷への道』
・『ポル・ポト 死の監獄S21―クメール・ルージュと大量虐殺』

映画だと『キリングフィールド』が古典で一番参考になります。あと地雷を踏んだらサヨウナラ

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