アドレリアン・パパとママの関係について

私は、まだまだアドラー心理学初級者ですが、いろいろ考えながら、「アドラー心理学を子育てに使ってみよう」と日々、試行錯誤をしています。

アドレリアン・パパとして、息子(3歳)に向き合っています。

まず、「叱らない、ほめない」を徹底しています。息子を叱っても効果がないので叱らない。褒めて育てた子供は褒めないと何もしないので、役に立たない。だから、息子を褒めない。

息子は、自分でやりたいことしかやらない。だから、息子に正しい目的設定ができるように手伝うようにします。叱ったり、褒めたりする代わりに、「勇気づけ」を行うのが、アドレリアンの子育てだと思います。「勇気づけ」とは、息子の横にいて、息子に関心を示し、感想をコメントをしたり、「こうしてもいいかもね」と助言することだけです。

私は最近、上記を心がけているのですが、私の当初予想に反し、息子の反応は上々です。息子は褒めなくても日々育っていると思います。「上手になったね」と感想を述べることはありますが、「上手になって良かったね、偉いね」とは言わないようにしています。結果、息子が3歳になると、自分で学ぶようになりました。

息子は、時々、パパに自慢をするようになりました。

息子:「パパ、私はね、一人でおしっこができるんだよ。
    こうやって乗れば、便器にも落ちないんだよ
    赤ちゃんにはできないけどねー」
   (便器にまがたり、小便を実演)

近所に交通公園があり、補助輪付自転車を貸し出しています。

息子:「自転車に乗りたい」
パパ:「いいよ」
   (息子を乗せてやる)
   「自転車は、ペダルを漕いだら進む、漕がなければ進まない。
    『進みたければ、ペダルを漕げば良い』とパパは思うけど、
    別にペダルを漕ぐ必要は無いよ。
    進みたければ、ペダルを漕いだら良いんじゃない?」
息子:(自転車のペダルを漕ぐ)

という具合いです。時に、

息子:「漕げない。進まない」
パパ:「漕ぎたくなければ、漕ぎたくなければ、漕がなくて良いよ。
    別にパパは困らないよ。
    息子がペダルを漕がなければ、自転車は前には進まないだけで、
    別にパパはそれでもいいよ。
    漕がないなら、パパのところに帰ってきたら?」
息子:(パパの元に戻り、三輪車に乗ってしばらく遊ぶ)
   (自転車に乗っている他の子供を見る)
   (自転車をこぎに向う)

気づくと、息子は、そこそこのスピードで自転車に乗るようになりました。

同じ公園で、教育熱心なおばあさんがいて、孫の面倒を見ている光景を見ていました。息子と同じぐらいか、少し大きい男の子(推定4歳)に

おばあさん:「男の子ちゃん、パダルを漕ぎなさい。
       自転車はね、漕がなきゃ進まないの。
       ほら、漕いで。漕ぎなさい。
       なんで漕がないの、漕がなきゃ進まないでしょ、
       もう、ほら、漕ぐ。
       漕いで、前見て進んで!!
       もう4歳なんだから、自転車ぐらい乗れるようになりなさい。
       ほら、こんな小さい子が乗っているでしょ。
       あなたはなんで乗れないの。
       こんな小さい子も乗れているのよ」
   男の子:(補助輪付きの自転車は前に進まず)

こういうふうにやられると、この男の子は「プライドが傷つくだけで、やる気も無くなり、自分に自信がなくなっちゃう」と私は思います。おばあさんが熱心なのは分かるんですが、「自転車に乗れるか、乗れないかは、おばあさんの問題ではなくて、4歳児の問題なんですけどね。おばあさんの問題になっちゃってますね」と思って、気の毒になりました(声はかけませんでした)

その光景を見ながら、思い出したことがあります。

私は、過去、アメリカ育ちの日本人の部下がいました。私は、その日本人に英語を注意されたことをあります。命令形が多いことを注意されました(ちなみに、「私はあなたの上司だけど、私の英語は不完全だから、私に英語を指導してくれ」と依頼していたので、彼は私を指導してくれたのだと思います)。

部下:「私は子供じゃないのだから、命令形は強すぎる。
    せめて、Please <動詞>というように、依頼の形で言ってくれ。
    英語として、かなりの違和感がある。
    私は子供じゃないんだから」

男って、命令形が嫌いなんですね。私も、命令されるのは大嫌いで、特に妻に命令されるのは嫌いです(先ほどの教育熱心なおばあさんは、命令形を4歳の男の子の孫に何度使ったのか私は数えきれませんでした)

息子を叱ることも褒めることもせずに、ただひたすら息子の行動に関心を示し、感想を述べるだけの私の横で、ママはいつも息子を叱っています。パパは「叱ることに効果がない」と思っているので、「ママが息子を叱るのを止めたい」と思っています。しかし、ママを叱らないように強制することも「アドレリアンとしては間違った行動だ」と思うようになりました。

アドレリアン・パパは、自分の問題とママの問題を切り分けるはずです。ママが息子(3歳)を叱り、叱る効果がなく、息子の愚痴を言うのは、ママの問題であってパパの問題ではありません。ママと息子の関係は、ママと息子の問題であって、パパの問題ではありません。だから、パパは、ママと息子の関係に口を出さないことにしました。

すると、それはそれで成り立つことが分かりました。

息子:(22時になっても寝ないで、遊んでいる)
ママ:「こらー、寝なさい」
パパ:「早く寝ないと明日早く起きれないね。
    パパは朝早くから公園に遊びに行くよ。
    息子が早く起きれなかったら、息子は公園にいけないね。
    息子が朝に起きなければ、パパは一人で公園に遊びにいくね。
    今寝たら、朝早く起きられるかもね」

また、息子がパパの顔を叩く時は、こうでした。

息子:(パパの顔を叩く)
ママ:「たたかない!」(怒)
パパ:「痛い。
    息子がパパの顔をたたくと痛いし、顔に傷が付くので、
    顔を叩くのはやめてください」

結構な確率で、息子はパパの顔を叩くのをやめます。

そんなアドレリアン・パパである私は、アドラー心理学の本を食卓の上に置きっぱなしにしているのですが、ママには本を読む習慣がないので、読みません(息子の世話で読む暇もないとも言います)。放置しています。

「ママがアドラー心理学を読まないのは、ママの選択であって、私がどうこうすべき問題ではない。ママがどう子育てをするのかは、ママの自由であり、ママと息子の関係でしかない。ママがどんなことをしようと、パパと息子の関係は、パパの意思と行動によって変わる」と考えています。

こう考えると、「パパとママの子育ては、アドラー心理学で一致させる必要はない」と思うようになりました。

実際やってみると、ママが息子に何をしようが、パパと息子の関係に影響はありません。極端な話、ママと息子の関係が悪くても、パパが息子と良い関係を築ければ、パパは困りません(ちなみに、幸いにも息子は、ママが大好きです)

ママはアドレリアンではなく、私パパはアドレリアンである中、ママと息子の関係をパパの視点で見ていると、息子の心理というのは典型的で面白いと思います。

息子がミニカーを床に起きっぱなしにしたまま寝ようとした時です。

ママ:「むすこっち、それを夜に踏んだら痛いでしょ、
    怪我をするから、片付けて」
息子:「痛くてもいいもん。怪我しても良いもん」

夜中に起きてミニカーを踏んで痛いのは、息子の問題であって、ママの問題ではありません。息子は夜に起きてミニカーを踏んでも良いと思っているので、片付ける必要は無いのでしょう。息子は、ミニカーを片付けません。

私がママなら、こういうと思います。

パパがママ:「息子よ、それを片付けておかないと夜の暗い時に
       ママはミニカーを踏んでしまうよ。
       そうしたら、ママは足が痛くなってしまって困る。
       困るので、ミニカーをしまってください」

ストレートに息子に依頼をすれば、息子はおもちゃを片付けてくれると私は思いいます。「ママの足が痛くなるから、片付けてほしい」という主張は、「片付けろ」と命令されるより、息子にとって受け入れやすいと思います。

パパがママ:「パパが踏んだらミニカーはきっと壊れてしまうね。
       ちゃんと片付けておけば、ミニカーが壊れることはないけど、
       息子はミニカーが壊れても良いのかな?
       ママは、ミニカーをしまっておいた方が良いと思うけど、
       息子はどう思っているのどうなの?」
   息子:「しまう」

と息子は自主的な判断をして、すぐに行動に移ると言うのが私の予想です。息子のミニカーを壊すか、壊さないかは、息子の問題です。息子が息子のミニカーを壊したくなければ、ミニカーを片付けるという手段をとると思います。

「ママもうまく言えば、楽になるのにな」と私は思いますが、私は決してママにアドラー心理学を強制することはしません。「それは、ママの問題であり、ママが判断すべきことだ」と私は思うからです。

パパは、「なぜ、子供を叱らず、褒めないのか」をママに説明しておけば、ママはパパに何も言わないと思います。アドレリアンのパパは、そういうママとの関係築くべきだと私は思っています。

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