福澤諭吉さんとアドラー心理学

アドラー心理学には子供の教育方針があるわけですが、そこに一番近いのは福澤先生であるのかなと私は思っています。

福澤先生は『福翁自伝』の一節に、「子供の活動を妨げず」というのがあります。引用しますと、

躾け方は温和と活発とを旨として、大抵のところまでは子供の自由に任せる。例えば(中略)子供の身体の活発を祈れば室内の装飾などはとても手を及ばぬことを覚悟して、障子唐紙を破り諸道具に疵つけてもまず見のがしにして、たいていな乱暴には大きな声をして叱ることはない。酷く剛情を張るようなことがあれば、父母の顔色をむつかしくして睨むぐらいが頂上で、如何なる場合にも手を下して打ったことは一度もない。(中略)親が実子に向っても嫁に接しても、また兄姉が弟妹に対しても名を呼び捨てにせず、(中略)一家の中はまるで朋友のようで(中略)ソレデモ私方の孫子に限って別段にわがままでもなし、長少戯れながら長者の真面目に言うことは良く聞いて逆らうものもいないから、余り厳重にせぬ方が利益かと思われる。

さすが福澤先生ということで、明治時代の著作にも関わらず、現代でも読める日本語を残しているところも夏目漱石ぐらいすごいですが、その考え方は明治時代にありながら先進的であります。まさに、日本のベストセラー作家であり、唯一の啓発者であります。

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「躾け方は温和を旨」としてやるべき。はいそうですね。「大抵のところまでは子供の自由に任せる」親が子供を指図をするなと言っています。子供がモノを壊すのには見逃して、寛容に接する。むしろ、壊されることを覚悟して家を配備するぐらいの気持ちでやれ。子供が剛情にだだをこねても、睨みつけるぐらいにして、手は出さない。名前はお互いに呼び捨てにさせないで、親子も兄弟も平等な関係を築かせる。そういう風にしていても、大人が真面目に言うことを子供は良く聞いて逆らわないよ。少なくとも、うちの9人の子供やその孫はね。とおっしゃっている訳です。

福澤先生は、江戸時代に生まれ、明治時代の人なので、アドラーより前の時代の人ですが、子供に対するその主張はすごく似ているなと思います。まず、福澤先生には9人の子供がいました。男女ともにいたらしく、その子供への教育方針がよくわかります。ただ、理想を述べているのではなく、自らの子供や孫に対しての子育て論であるから説得力があります。

アドラー心理学で言うところの、「子供を叱るな」というところや、子供と大人が対等な立場で接するというような話とポリシーが良くあっているんですね(ちなみに、慶応義塾大学では先生は福澤先生一人で、あとの教授はさん付けで呼びます。大学の掲示板にも「XX君休講」と書いてあるのは、大学教授が休みであるという意味というのは有名な話です。確かに、教授といえども一人の人と人との意思疎通で、上下の関係とはちょっと違うものでした。また、人との論理を通じた意思疎通は非常に大事にされていると思います)。

福澤先生は、儒学者の家に生まれ、早くして父親を無くし、オランダ語を学んで学問を学び、後に英語になって(英語とオランダ語は似ている)広く西洋の考え方を学んで、また翻訳をされている人という背景あります。であるので、考え方が西洋風なのかもしれません。そこが、アドラーと考えがにかよるところであるのかもしれません。

しかし、明治時代の話です。下手すると江戸時代であるわけで、その中でこのような温和を旨とした躾を実行した福澤先生というのはすごいなと。まさに、フロンティアであります。今、やったとしても、最先端の子育てかもしれず、今であれば、子育てする親のための学校をやられたとしても、繁盛したことでしょう。

古今東西、物事の本質というのはあまり代わりが無く、違いアプローチで独立に考え抜いた末、同じような結論に至るということは良くある訳です。アドラー心理学が本質をついているかなと私は思いました。ただ、私自身、慶応義塾の出身ということで、アドラー心理学をすんなり受け入れられるのは、過去に受けた教育とコンセプトが似ているからかもしれませんが。

というわけで、私は、アドラー心理学的な子育てを続けてみようと思います。そんな読書をして、ますます、アドラー心理学を信じて、子育てしてみようと思っております。

※分かりやすさのために、タイトルをさんづけにしています。

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