中川正子『IMMIGRANTS』によせてSTUDIOVOICEに書いた文章

※noteはじめたのでためしにアップしてみる。

写真家・中川正子にとって、そしてその作品世界にとっての大いなる転機はふたつあった。ひとつは出産、もうひとつは東日本大震災、そしてその後の原発事故による世相の変化。それまで当然のことのように享受し、また称揚もしてきた「この世界のうつくしさ」が実はそのうちに孕んでいた諸相ーー生命の輝き、驚きに満ちた新しい日々、そして光とともにある影の濃さに強烈に感応し、自分自身をアンテナの塊のようにしてこの世界を再発見していった軌跡が一冊になったのが前作写真集『新世界』であったと思う。この世界を一から経験し直すように、自分を取り巻くすべてとともにいる喜びをどうどうとほとばしらせながら作られた一編。それはまさに、彼女自身の産声のような作品であった。

それから2年弱。青山・HADEN BOOKSで開催されている新作写真集『IMMIGRANTS』の写真展で、久しぶりに会った彼女と少し話し込んだ。分け隔てのないフランクな人柄はもともと変わりようがないのだが、写真そのものはまた新しいフェイズに移行していると感じた。その感想をぶつけてみると、返ってきたのは「新世界はいつしか『ふつう世界』になった」という言葉。これで得心がいった。

『IMMIGRANTS』を構成するのは震災後に岡山へと移住した彼女が、同じように日本の各地から集まってきた「移民たち」と出会い、その生き方をとらえた日々の断片の数々。先の言葉は、決してその輝きが薄れたという意味ではない。

はじめは新しく見えたものに、人はやがて慣れる。多くの人にとって、あらゆる新しい感動や愛はいずれ必ず日常へと変わっていく。そういう意味では、確かに我々は少々効率の悪い熱機関だ。そして、今の彼女の本領は、我々は一瞬の熱量によってのみ生きるのではなく、じわりとした平熱の世界で「続いていく」ものだということを静かにとらえている点だろう。

『新世界』は自らを取り巻くすべてをまっさらな目で見て、本人の言葉を借りれば「新しく、名前をつけ直す」ような写真集だった。『IMMIGRANTS』はいわば、それらの居場所を確かめる作業だ。「ふつう世界」だろうがなんだろうが、ただここに在ることによって我々は肯定されているのだと。あらゆる場所であらゆる偶然が何世代にもわたって起こってきた結果、我々は今この場所にいる。そのこと自体がすでに奇跡であるということへの改めての気づき、驚き。

ひとつひとつの光景、事象、瞬間に対する受容はより丁寧に、解像度はより高くなっていると思う。隣人たちがとうもろこしを持つ手の、真鍮を打つ所作の、畑を耕すよろこびのすべてに日々出会い、心を震わせる。採れたての穴子に、さばかれる鶏に、その度に生かされていることの感謝を捧げる。その真摯な態度はこれまでと何ひとつ変わりはしない。変わったことがあるとすれば、出会いがしらの感動を切り取るというよりは、流れゆく日々から大切なものをすくい上げる落ち着いた手さばきが加わったところか。そのことが、写真家である前に人であり母である中川正子にとってこの2年間がいかに実り多いものだったかを示している。

そして、本作にもっとも特徴的なのは「これはみんなの物語だ」という思いであろう。いくつかの作品タイトルには「水田順子が繕う」「能登大次が鶏をさばく」といったように、隣人たちの名前がついている。彼らは「ふつう世界」に生きる我々すべての姿だ。もちろん被写体となった人々の日々の営みは必然的なファクターではあるのだが、「別に田舎暮らしを勧めたいわけじゃないし、これが東京にいる人であってもいいと思う」と中川本人が語るように、舞台が忙しい東京で「○○がレジ打ちをする」「△△がコードを書く」であってもおかしくはない。すべての生は肯定され得る。そこにあるはずの光に自覚的であるならば。いや、今はまだ光など見えなくても。

もう1点、『新世界』を経たこの作品世界を貫くのは、日々当然のように接している物事もすべては再び新しく出会っているのであり、すべては2度と同じ貌をしないということへの理解ではないか。意識してか無意識にか、波のきらめく瀬戸内海や神代の鬼清水、藍染めの用水など「水」の諸相をとらえた作品が多いこともそれを端的に表しているように思う。

水は融通無碍に形を変え、すべてを受け入れながら転変を続け、それでいてどこまでも水であり続ける。それは中川自身の心のありようのメタファーにも見えるし、今日まで当たり前に存在してきたものが明日も当たり前にあるとは限らない、そのもっとも凶暴な告知を受けてしまった世界に生きていることを陰翳のように意識しながら、だからこそこの日々のすべてをまっすぐに生きるという意思の表明ともとれる。そういえば人間だってほぼ水分でできているのだし、これも「みんなの物語」のひとつといえるのかもしれない。ともかく、ここからどのような物語を読み取るかはすべて観るものに委ねられている。それもまた、『新世界』以降の大きな変化だろう。

生きるものの数だけ、それぞれに唯一の物語がある「ふつう世界」。我々はみな、いま、この場所で許されている。その祝福として『IMMIGRANTS』はある。

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