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小説 神功皇后 2024.1.16

 神功皇后について、調べて居ますが、断定に必要な資料が不足して居ります。
其処で、小説と云う形で世に送り出します。御検討下さい。

 230年垂仁天皇は、突然出現した軍隊に戸惑った。船上の兵士が上陸して来たので、捕まえて問い質した。呉の孫権軍で、日本から兵隊を連れて来いとの命令でやって来たと云う。
 垂仁天皇は、後に日本武尊と呼ばれる、誉津別尊と共に闘って、孫権軍を追い出した。呉とは云っても、呉を乗っ取った越軍である。呉の太伯の子孫としては、許せなかったのである。
 垂仁天皇は、此のイクサが元で崩御した。後を景行が引き継いだ(232ー292年、60年間)

 次を、景行天皇と八坂入姫との子の成務天皇が、引き継いだ。(在位294ー354年、60年間)成務天皇は、地区の区域割を勢力的に行った。今、山脈や川、湖で区切られて居るのは、成務天皇の仕事である。

 朝鮮半島の新羅は、東鯷国出身の昔氏が紀元前に創設した。330年になると、王の訖解泥師今に、子が居ないと云う話が聞こえて来た。

 東鯷国や、但馬国、狗奴国、倭面上国では、徐々に其の話で、持ち切りとなって行った。
 現地人に明け渡す訳には、行か無い。対策を練る必要が生じた。

 東鯷国は、崇神天皇系が支配して居る。但馬国は、崇神天皇時代の四道将軍の一人丹波道主の国である、垂仁天皇の嫁となっており、成務天皇祖父の景行天皇は丹波道主の子日葉須媛の子である。倭面上国には、日本武尊の次男の仲哀天皇やその子の籠坂皇子や忍熊皇子が居た。

 東鯷国の神功皇后に目が付けられた。戦闘能力は高いと云って来た。
更に、其の上に、戦闘能力の高い、籠神社7代目のアマテラス系の武降熊を付ける事にした。
 名目は、日本武尊系の仲哀天皇が年老いた成務天皇を排斥し、天皇乗っ取りを図って居ると云う事にした。

 武内宿禰と籠坂皇子、忍熊皇子が、東鯷国迄迎えに行った。
 355年神功皇后軍は、東鯷国を出発した。武内宿禰が筑紫平野から態々出向いた。跡には、兄ちゃん百済が入り込んで居る。
 神功皇后軍は途中ウラを倒して居る。山口県に入った、既に、新羅の王子が島を乗っ取って居た。籠坂皇子が1対1の対決をして倒した。
 神功皇后軍は、洞海湾経由や遠賀湾に直接乗り入れ、北九州の倭面上国に、上陸した。何も知らない倭面上国の豪族が続々と帰順して来た。
 新羅軍が既に、倭の山口県に上陸して来て居るので、もたつく訳には行かなかった。
 行橋の海岸では既に、外航船が出来上がって居た。
 遠賀湾で、外航船と兵力を集めた。

萬葉集 巻一 8番歌 額田大王
 熟田津に 船乗りせむと 月待てば 潮もかないぬ 今は漕ぎ出でな

 北九州から朝鮮半島東側から新羅に、乗り入れたのである。
地震が有ったのか丁度、津波が発生したので、此の波に乗り、都に直付した。
 地球上では、約300年毎に大規模な天変地異が発生して居る。太陽黒点の影響である。
 2000年代も太陽黒点の影響で、天変地異や政治変動が続いて居る。
地球の歳差運動の影響で、今回は激しい物となりそうである。
 356年訖解泥師今崩御に伴って、籠坂の皇子が王に、皇后に神功皇后が着く事になった。忍熊皇子が護衛を担当した。
 人質として、訖解泥師今部下の金氏長男を預かって、神功皇后軍は、日本に帰国した。
 当然、予め歳を合わせて、毛野氏は男の子を誕生させた。

 364年奈勿麻立干は、神功皇后を嫁に迎えた。
神功皇后は、金氏長男ー誉田別尊の摂政として、5歳迄、執権を担当した。
5年以降、神功皇后の記録は極端に減って居る。
 崇神天皇系の毛野氏の誉田天皇が七歳以降、応神天皇となった。
 誉田別尊は、大善寺玉垂宮に移されて、桜桃沈輪として、武命宿禰が面倒を見た。五歳の端午の節句は武内宿禰と祝い、新羅の神功皇后に報告した。
 応神天皇は、半島から秦氏の入国を許可し、半島から人夫を入れて、近畿地方に巨大古墳が出現した。
 404年、仁徳天皇が現れて、世の中が騒がしくなったので、宇佐神宮に移した。
 経緯を知って居る地域住民は、今現在も、遠賀川での外航船による神功祭や、壱岐島ー宗方間の外航船祭り、大善寺玉垂宮の鬼夜祭を、派手ばてしく取り行って居る。
 新羅に何か有ったならば、即座に乗り込む用意が、今もして有る。

 戦闘能力が高いとは、こう云う事です。
過ぎ去って行った時間は、元には戻ら無いのです。

 だから、神功皇后記には、仲哀天皇が三人も四人も、出て来るのでしょう。

 少なくとも、小生ならば、必ず、こうします。
 
 武内宿禰が忍熊皇子を追いかけ回し、草薙剣を川底で発見するのは、ヤラセの可能性大です。
 


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