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国際政治同時進行世界史&日本史 朔2 百濟記 新羅記 高句麗記 追加 2024.4.16

 日本書紀に記載して有る日にちを、検討致します。
旧暦 干支                         西暦

允恭天皇 34年1月辛卯朔  445年1月24日
 允恭天皇34年の朔ーツイタチは、コヨミにより辛卯です。流石に、国の正式文書だけの事は有り、全ての朔は、コヨミに合致して居ます。

  元年太歳壬子   ⭕️412年・・・・・ 即位、墓碑年と相違、但し紀中一致
允恭42年正月乙亥朔戊子 453年1月26+24日👉2月19日 崩御・・墓碑一致、
 記甲午454年正月15日崩。魔の1年遅れ。

允恭42年12月己巳朔壬午 454年1月15+18日👉2月2日・・安康天皇即位、
 墓碑453年
安康元年2月戊辰朔     454年3月15日・・・・・ ・・・ 結婚申込
安康2年正月癸巳朔己酉   455年2月3+45日👉3月20日・・中帯姫立后
安康3年8月甲申朔壬辰  456年9月16+28日👉10月14日・・崩御、墓碑一致

安康3年10月癸未朔    456年11月14日・・・雄略天皇市辺押磐皇子を射殺す。
⭕️
安康3年11月癸子朔甲子  456年12月13+0日👉12月13日・・・雄略天皇即位
雄略元年3月庚戌朔壬子 457年4月10+48日👉5月28日・・・ 立后
雄略2年10月辛未朔癸酉 458年10月23+9日👉11月1日・・・  吉野宮に幸す
雄略4年2月       460年3月8日・・・・・ ・・・ ・・  葛城山に射猟カリす。長タキタカき人を見る。面貌容儀カホスガタ天皇に相似たり。神と思ったが、尋ねると、現人神アラヒトガミぞと応えた。🟡一言主神也。狩りを愉しみて、馬の口を並べて馳騁ハす。日暮れて、天皇を、来目川迄送る。
雄略4年8月辛卯朔戊申  460年9月2+44日👉10月16日・・・吉野宮に行幸

🟡460年12月、中国宋に、天皇名は無く、朝貢して居ます。👈非常に怪しく、興の業績を、雄略に、置き換えました。

雄略5年4月      461年4月26日以降。・・・・・ ・・・ 百済の加須利君ー蓋鹵王百済の池津姫の薨去の件を聞きて、「女性を貢タテマツるべからず」と云う。其の弟軍君イロドコニキシー昆支コニキ也ーに告げて曰く、「汝イマシ、倭に住マウでて、天皇に事ツカへまつれ。」軍君曰く「違えません。願わくは、君の婦を賜え。」妊婦を賜う。「妊月が来たら一艘の船で送り返せ。」と曰う。

雄略5年6月丙戌朔    461年6月24日・・・・・ ・・・・・ 加須利君の様に筑紫の各羅嶋にして児を産む。名付けて嶋君セマキシと云う。軍君コニキシ一隻の船にて嶋君を国に送る。是を武寧王とす。辞書には、462年とある。
雄略5年7月      461年7月23日以降。・・・・・ ・・ 軍君京ミヤコに入
 る。五人の子が有りました。此処に、わざとらしく、百濟新撰を引用して居ます。百濟新撰には、🟡天皇名は、記載して居ません。🟡

雄略6年2月壬子朔乙卯  462年3月17+51日👉6月7日・・・・ 天皇泊瀬ハツセの
 小野に遊びたまふ。小野を名付けて、道小野ミチノヲノと云う。
雄略6年3月辛巳朔丁亥 462年4月15+23日👉5月8日・・・・天皇、后妃キサキミ
 メに自ら桑を植えて、蚕を育てよと云う。蜾贏スガルに国内の蚕を集めさしむ。しかし、蜾贏間違えて、嬰児ワカゴを集めて、天皇に差し出す。天皇呆れて、蜾英に養えと云う。名付けて、少子部連チヒサコノムラジとす。

🟡462年3月宋の孝武帝は、興を、安東将軍倭国王とす。

雄略6年4月        462年5月15日以降。・・・・・🟡 呉国ー中国の南朝。
 此処では宋。使者を派遣して、貢献モノタテマツる。
見よ❣️やっぱり、興です、ネ⭕️

雄略7年7月甲戌朔丙子 463年8月1+12日👉8月13日・・・  少子部連蜾贏に曰く「三諸岳ミモロノヲカの神の形を見たい。捕らえて、見せよ。」
 此の山の神は大物主神です。通説では英彦山ですが、実際は、八千矛の神ですの
 で、鉄鉱石の産出する三連山の香春岳です。古過ぎますので、金剛山では無いで
 しょう。
 菟田の墨坂神ならば、御所ケ谷神籠石付近の住吉神社です。
 京は、近畿地方では無く、九州に在ったと云っているのと同様です。
大蛇を捕らえて見せる。天皇は、畏カシコみたまひて、見なかった。岳オカに離せと白す。依て改めて名を賜居て、雷イカヅチとす。
雄略7年8月       463年8月30日以降。
⭕️
雄略9年2月甲子朔   465年3月13日・・・凡河内直香賜オホシカフチノアタヒカタブと采女とを派遣し、宗像神を奉らしむ。事有りて、難波日鷹吉士を遣わして、処分しようとしたが、逃げ失せた。弓削連豊穂に捜索させて、三嶋郡藍原ー継体天皇出身地で処分した。

雄略9年3月      465年4月12日以降・・・🟡新羅を討たむ🟡と欲す。
 神曰、「な往ましそ。」天皇動かず。

 紀小弓ヲユミ宿禰、蘇我韓子カラコ宿禰、大伴談カタリ連、小鹿火ヲカヒ宿禰等に詔し、

 「🟡新羅🟡、自モトより西の土クニに居り。葉ヨを塁カサねて称臣シタガへり。朝騁違モウデキタガふ事無し。貢職允ミツキマコトに済ナれり。朕ワが天下アメノシタに王キミたるに逮オヨびて、🟡身を対馬の外に投オきて、跡を匝羅サフラ(対馬の北側の海峡)の表ホカに竄カクし、🟡高麗の貢を阻フセきて、百済の城サシを呑む。況イハむや復朝聘既マタマウデキスデに闕カけて、貢職儕ミツキオサむる事莫ナし。狼の子の野アラき心有りて、飽きては飛サり、飢ゑては附ツく。汝イマシ四ヨタリの卿マヘツキミを以モて、拝コトヨサして大将オホキイクサノキミとす。王師ミイクサを以モて薄セめて(攻めて)伐ウちて、天罪アマツツミをも襲ツツシみ行オコナへ」と曰う。

 紀小弓宿禰と大伴室屋大連白さく「・・・婦メ、命過ミマカりたる也。・・・」
 大伴室屋大連天皇に陳マウスコトをす。天皇、聞キコしめし悲び頽歎ナゲきたまひて、吉備上道采女大海キビカミツミチノウネメオホシアマを紀小弓宿禰に賜う。
 遂に推轂アヒタス(天子が将軍を遣わす時に、車のコシキを以てする事)けて遣わす。

 紀小弓宿禰等、新羅に入る利、行傍ユクユクカタハラ(並び行きて、並び撃つ事)の郡コホリを屠ホフリトる。㖨ロク(㖨国、海の軍事要衝)を奪いて、新羅王数百騎と共に逃げる。紀小弓宿禰敵将を斬る。
 大伴談連及び紀岡前来目連キノヲカザキノクメノムラジ戦死。談連の従人トモビト同姓の津麻呂大伴公を軍中には探せず。戦死済み。聞きて敵将を襲い相討ちして戦死した。残兵退く。大将紀小弓宿禰戦病死。

雄略9年5月      465年6月10日以降・・・・・ ・・・  紀大磐宿禰父の死を聞いて、新羅に行き、小鹿火宿禰の馬や船、兵士を借りて、大いに専用威命コロタちぬ。これで、小鹿火宿禰は、 紀大磐宿禰を大いに憎みます。
 小鹿火宿禰が蘇我韓子宿禰に曰く、「 紀大磐宿禰は僕に『我、当マサに復韓子宿禰の掌ツカサドれる官ツカサを執トらむ事有らじ。』と云り。願わくは固カタく守れ」と云う。
 韓子宿禰と紀大磐宿禰との間に隙間が生じた。百濟王韓子宿禰等に使者を遣わし、「国境を見せる。」と云う。
 依て、韓子宿禰等ついて行き、川に差し掛かると、紀大磐宿禰は馬に水を飲ました。後ろから、韓子宿禰が紀大磐宿禰の馬の鞍を射った。紀大磐宿禰驚きて、振り返り様に、韓子宿禰を射り、水中に落とし殺した。三人の将軍百済王の城には行かず、引き返した。
 吉備上道采女大海、倭に帰り、紀小弓宿禰の喪に服した。大伴室屋大連に白して、「葬ヲサむる所を知らず、良き所をご紹介して下さい。」と。天皇の許可を得て、土師連小鳥ハジノムラジヲトリをして、冢墓ハカを田身輪邑タムワノムラに葬った。
 韓奴室、兄麻呂エマロ、弟麻呂オトマロ、御倉ミクラ、小倉ヲクラ、針ハリに六口ムユタリを以て大連に送る。吉備上道の蚊嶋田邑カシマダノムラの家人部ヤケヒトチは是也。
 是とは別に、小鹿火宿禰は、独ヒトリ角国ツノノクニで紀小弓宿禰の喪に服す。
八咫鏡ヤタノカガミ(親指の先端から小指の先端迄が1咫)を大伴大連に奉りて白さく、「僕ヤッコ紀卿と共に天朝ミカドに奉事ツカヘマツるに堪えじ。故請ユエニコふ、角国に留任ハベらむ。」大連天皇の許可を得て、角国に留ハベり居スましむ。角臣と名付けられる事此れより始まりました。

雄略9年7月壬辰朔      465年8月8日・・・赤駿アカウマの話。
              結局、埴輪の馬の事。      
雄略10年9月乙酉朔戊子  466年9月25+24日👉10月19日・・・身狭村主青ミサのスグリアヲ等呉献上品の二つの鵝(雁鴨の家禽類)水沼君(筑紫の豪族、和名抄に、筑紫郡三□郡美無万。宗像神社の神官で胸肩氏は左座、水沼氏は右座)の狗に喰われる。水沼君は鴻10隻と養鳥人トリカヒを献上して許される。

雄略10年10月乙卯朔辛酉466年10月25+57日👉12月21日水沼君献上の養鳥人を
 軽村カルノフレ、磐余村イワレノフレに置く。  
雄略11年5月辛亥朔     467年6月18日・・・・・・・・・・ 淡海国栗太郡から
 白い鵜が居ますとの報告を受ける。拠って、川瀬舎人を設置す。
雄略11年7月      467年8月16日・・・百済国より貴信が逃げて来る。
🟡呉人也と云う。磐余の呉の琴弾堰手屋形麻呂等は、此の流れ也。
雄略11年10月鳥宮の禽狗に喰われて死ぬ。顔を刻みて鳥養部トリカイべとす。
雄略12年4月丙子朔己卯 468年5月8+15日👉5月23日・・・身狭村主青ミサのスグリアヲと檜隈民使博徳ヒノクマタミノツカヒハカトコを🟡呉ー宋に遣わす。
雄略12年10月癸酉朔壬午 468年11月1+18日👉11月19日以降。・・楼閣を造る。采女(所領の小領以上の一族から、容姿端麗な女性を貢上して、後宮に仕えさせた。大化以前から、国造等の地方豪族が仕えさせた様です。)見て倒れる。許す。
 
雄略13年3月      469年3月29日以降。餌香エカの長野邑を物部目連に賜
 ふ。
雄略13年8月      469年8月23日以降 播磨国御井隈の人文石小麻呂退治
 に春日小野臣大樹を以て征伐す。
雄略13年9月      469年9月22日以降 木工韋那部真根道具を壊し処分さ
 れる所を、巧者の歌に救われる。
雄略14年正月丙寅朔戊寅 470年2月17+14日👉3月3日身狭村主青ミサのスグリアヲ等、🟡呉ー宋の使と共に呉の奉れる手末タナスゑの才伎テヒト、漢織アヤハトリ、呉織クレハトリ、及、衣縫キヌヌヒの兄媛エヒメ、弟媛オトヒメ等を連れて住吉津に泊まる。摂津国兎原郡住吉か。同国住吉郡。現大阪市住吉区。住吉神社有り。住吉は元、墨江之三前大神(神代記)、墨江大神(仲哀紀)。釈紀六所引摂津風土記逸文に、住吉は、元、真住吉住吉国と云う。今略之直称須美乃叡、後、スミヨシと云い、和名抄に須三与之と書く。

雄略14年3月呉使を迎えた。檜隈野ヒノクマノノに住まわせる。此処を呉原と名付く。衣縫キヌヌヒの兄媛を大三輪神に奉る。弟媛を漢衣縫部アヤノキヌヌヒべとする。漢織アヤハトリ、呉織クレハトリは、飛鳥衣縫部、伊勢衣縫の先オヤ也。

雄略14年4月甲午朔    470年5月16日・・・・根使主ネノオミ呉人に会わせる。舎人に下見をさせ、報告に因ると豪奢で有ると云う。面会す。皇后の品を持って居たので、殺されて、坂本臣となった。

雄略15年        471年2月6日以降秦氏に庸調し、姓禹豆麻佐ウツマサを
 賜う。
雄略16年7月      472年7月22日以降 桑を植林せよ。秦氏を分けよ。
雄略17年3月丁丑朔戊寅 473年4月13+14日👉4月27日諸行事
雄略18年8月己亥朔戊申 474年8月28+44日👉10月11日物部菟代宿禰、物部目連
 が伊勢の朝日郎を討たしむ。
雄略19年3月丙寅朔戊寅 475年3月23+14日👉4月6日・・・  穴穂部を置く。

 475年9月高句麗の長寿王は、兵3万を率いて百済を侵略し、百済の王都漢城を
 陥落させる。百済王扶余慶を殺害。男女8千人を連行す。 高句麗本記

 475年秋9月高句麗王の巨(王編に連)が兵3万で、王都漢城を包囲。
 長寿王は姦計を巡らし、囲碁に強い僧道琳は、蓋鹵王と囲碁をして、城修理を勧めた。蓋鹵王は修理して、資産を殆ど使った。此処に襲撃され、殺害された物です
  百濟本記

 日本の8世紀や、戦国時代に、同様な事が有りました。歴史の勉強が必要と云う事です。 
 賢人は、本能的に悟り、行動します。

雄略20年冬        476年2月11日以降。・・・高麗王大戦を起こして、百済を尽す。倉下ヘスオト(百済語)に居た。百済記に有る。蓋鹵王の乙丑年冬狛の大軍來りて、大城コニシキを7日7夜攻撃。食糧が尽きる。百済国の王は倭の宮家で、天皇に仕えて居る。拠って、王城コニシキのサシ降陥。尉礼ゐレ漢城を失う。国王、大后、王子没す。

雄略21年3月        477年4月天皇が百済高麗に破れると聞いて、久麻那利コムナリを汶洲王モンスオウ(三国史記には、蓋鹵王子。紀蓋鹵王母の弟、日本旧記に、末多王に賜う、是は誤と有る。久麻那利は、任那国の下[口+多]呼璃[口+利]県の別邑也)
⭕️興ー安康天皇崩御⭕️

🟡477年11月・・・是より先🟡興🟡没して⭕️弟⭕️の武立つ。武自ら、「使持節都督倭・百濟・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事安東大将軍倭国王」と称する。(宋書夷蛮伝)

雄略22年正月己酉朔  478年2月18日・・・・・・・・・・  白髪皇子を皇太子
 とす。

🟡478年・宋の順帝は、武を「使持節都督倭・百濟・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事安東大将軍倭国王」と称する。(宋書夷蛮伝)
 武と初めて明記。

雄略23年         479年2月7日以降。・・・百済の調賦、常の例より益れり。🟠筑紫の安到臣、馬飼臣等🟠船師を率いて🟡高麗コマ🟡を討つ。

       479年春2月3日  479年3月11日 新羅の慈悲麻立干 崩御
       478年秋9月     478年9月10月12日以降。百濟の兵官佐平の
                解仇が、盗賊を使い、文周王を、殺害
       479年秋11月    479年11月30日以降。百濟の三斤王 崩御 
⭕️⇅入れ替え⭕️
雄略23年4月     479年5月7日以降。・・百済の文斤王モンコンオウ薨る。次は、昆支王の五人の子の第二の子の末多王マタオウ東城王トウセイオウに、🟠筑紫国(倭国最強軍団の狗奴国ー後に、蒙古軍を二度潰す。)から500人の兵士🟠を送る。

🟡479年5月29日以降。・・南斉の高帝、王朝樹立に伴い、倭王武を、鎮東大将軍に🔵進号。(南斉書東南夷伝)
 ⭕️事実は、大勝利です❣️⭕️

🔴雄略23年7月辛丑朔    479年8月4日・・・・寝疾不預ミヤマ👈詭弁🔴
🔴雄略23年8月庚午朔丙子  479年9月2+12日👉9月14日・・崩御👈詭弁🔴

⭕️新しい事実が判明しました。これに依り、継体天皇を、雄略天皇と、断定致します。⭕️

 事情が有りまして、途中段階で公開致します。

 日本と云う語は、天智天皇により発明された語で有り、天智天皇以前では、ヤマトと云う意味でも、使用されませんでした。
 墓碑も、古事記、日本書紀の期日も、徹底的に、交換して居ます。
流石に、外国人の仕業、其の物です。
 勝者は、敗者の国の歴史を壊す権利が有ると、昔から身に染み付いて居ます。日本人とは、決定的に相違して居ます。
記紀にも、歩く姿にも嘘が有ると記載されて居ます。
 力付くで、やり込めるのですね。

 以前から申し上げて居る様に、小生は大陸出身で有り、ハンムラビ法典の信奉者です。今後、如何なるのか体が覚えて居ますよね。
 もう、已に、西暦700年以降今迄、日本を仕切って居たトップは、身の危険を感じ、日本国外に、脱出して居ます。家臣にも、脱出を御勧め致します。

 小生には、許す気は、毛頭御座いません。

 倭言葉が、徹底的に拒絶されて居ます。即ち、此れは、ワザと行なって居る物と思えます。則ち、倭言葉を使用して居る人々、乃ち、天皇の在位年特集の❶~❽
コソ、外国人と、断定出来ると考えます。
 因みに、記銘鉄拳も、埼玉県のサキタマ古墳群内から、出土して居ます。
同国出身者は、既定の地域に集めると云う、今迄の国の方針により、集まった物です。孫子の兵法です。

 此方も、徹底的に、対抗し、疑いの目を、向けて居ます。




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