見出し画像

日本古代史暗闘1 2022.7.23

 北九州を支配して居た面垂の処に、紀元前200年代に青銅製造設備の有る淡路島辺りから伊奘諾尊伊奘冉尊が乗り込んで、乗っ取りました。
 更に、スサノウノミコトが奪いました。伊奘冉尊や娘は妥協しましたが、伊奘諾尊は妥協せず、淡路島に幽閉されました。
 此処に、満州から、天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊が押し寄せ支配しました。
 大国主命が大陸から上陸しました。大国主命は、ユダヤ系で有り、オオナムチとして、180人の子を作りました。大物主系統では有りません。
 さらに、レビ族の秦系統の正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊が大陸から北九州に上陸し、支配しました。饒速日は、東征し、愛知県名古屋市に熱田神宮に収まりました。
 此様子を見て居た狗奴国の卑弥弓呼1ー神武天皇は、第一次東征を、始西回りで二回目日を背にした東回りで福岡県田川市に向けて行い、人皇第一代として即位しました。
 戦時対策として、ユダヤ系の事代主の子のヒメタタライズヒメを皇后としました。ユダヤ系再興を狙う、綏靖天皇は、手研耳尊を射り、即位しました。
朝鮮半島の馬韓、弁韓、辰韓の辰韓は、秦韓です。日本人の赫居世居西干が但馬辺りから半島に上陸し、レビ族と思われる中国人を皇后としました。
 孝霊天皇子のヤマトトトヒモモソヒメノミコトは辰韓に嫁入りしました。
179年噴火に伴う飢餓で日本の農民が辰韓に避難して居ます。崇神天皇が辰韓から上陸し、即位しました。和風諡号には入彦と付いて居ます。
 又再び、狗奴国の卑弥弓呼ー垂仁天皇が第二次東征をして追い散らし、即位しました。
 又再び政略結婚して生まれた開化天皇系の狭穂姫命との間の子の誉津別尊は、垂仁天皇、卑弥呼を殺害しました。
 公孫氏と戦って居た司馬懿は、張政を派遣しました。
 張政は、トヨーイヨを教育し、トヨーイヨは、誉津別尊ー日本武尊を打ち破り、266年張政を魏に送り届けて居ます。
 垂仁天皇子の景行天皇は邪馬台国のトヨーイヨを皇后とし、成務天皇が生まれ、国を整備しました。
 垂仁天皇に出雲国に追い出された、崇神天皇ー都怒我阿羅斯等ー天火槍ー天火矛の子孫の神功皇后が征西をし、荷持日ー野鳥の成務天皇ー脚白熊鷲ー熊鷹を滅しました。福永晋三によると仲哀天皇は数人居ます。伊都の五十手が倭国東朝 応神天皇(和風諡号に誉田天皇と誉田別天皇と有ります)の父親と思われます。武内宿禰が作った倭国本朝は、武内宿禰と神功皇后との子供の可能性が有ります。
 倭国本朝の倭の五王の済興武は半島勢力に敗北し、半島人が日本に雪崩れ込みました。
 又再び、狗奴国の卑弥弓呼ー継体天皇が物部アラガイと共に、倭国本朝と倭国東朝を破り、494即位しました。ユダヤ系統の物部アラガイが倭国本朝を統治しました。
 517年倭年号継体を24年の詔勅で設定しました。
 522年其継体天皇の勢力の淡海上毛野君が敗れ、欽明天皇が即位しました。
 この時に半島から侵入して来たのが、蘇我氏です。
 蘇我氏は、倭国東朝の崇峻天皇、倭国本朝の天タリシヒコを殺害し、蘇我氏系の推古天皇は邪馬台国を、上毛野君形名に命じて滅ぼしました。
 蘇我氏は、645年乙巳の変で滅亡しました。
 ユダヤ系統物部氏の天武天皇天皇が、壬申の乱で政権を奪りました。
 天智天皇系統の光仁天皇の皇后となったユダヤ系の天武天皇子孫の井上内親王は、廃皇となり、子の他戸親王も廃皇太子となり、日本3大呪いの神となって今に至って居ます。
 反乱を恐れた桓武天皇は、781年頃福岡県桂川町から近畿地方の奈良県に遷都しました。
 
 ユダヤ人と倭国ー邪馬台国を代表して菊池氏との、壮絶なる戦いの歴史を描き出しました。
 1336年後醍醐天皇で天皇は終了したと考えられます。
此の後は、足利王朝です。

 明治天皇も、摺り替えです。
 残存する写真から判断して、長州藩の大室寅之助や、徳川幕府の蓑作奎吾では有りません。
 多分、佐賀藩藩主の関係者です。

 奈良時代は、有ったとしても、最長781ー794年です。
もしかしたら、奈良時代は無く、直接平安京に遷都かも知れません。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?