第一巻 第四章 卑弥呼と邪馬台国

〇畿内と九州の邪馬台国比定位置
N「二世紀から三世紀にかけて、『邪馬台国』が日本で大きな勢力を持っていたことが、中国の歴史書『魏志倭人伝』からわかるが、その位置については諸説あり、未だ判然としない」

〇邪馬台国・王宮
弥生時代とは一線を画した、大きな木造の建物が建ち並んでいる王宮。周囲は濠と柵で防衛されている。敷地内で立ち働く大勢の男女。馬も何頭かいる。その中でも一際大きな建

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【偉人調べてみた】卑弥呼【一人目】

卑弥呼(ひみこ、生年不明 - 242年~248年)は、『魏志倭人伝』等の中華の史書に記されている倭国の王(女王)。邪馬台国に都をおいていたとされる。封号は親魏倭王。 ――引用元:Wikipedia

【卑弥呼が生きていたとされる時代】

時代は”弥生時代”~”古墳時代”。稲作が始まり、人々が米を主食にし始めた頃。米を大量に作るには、当然土地が必要となります。その土地を求め、人々が争いを始めます。い

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ぼーっと古代史<邪馬台国雑感>

今、私、古代史脳になっています(笑)。
で、邪馬台国に関して、ちょっと閃いてしまったので、ここにメモします。

今までほとんどの研究者やマスコミは、「魏志倭人伝」に即して、
2〜3世紀に最も栄えていた国(権力のある国)が邪馬台国であり、
そこに卑弥呼がいる、と解釈してきました。
そのため、大きな遺跡が出るたびに、邪馬台国は北九州だ、大和だとか報道されてきたのです。
が、それは日本列島から見た視点に

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感謝です!
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5月12日 卑弥呼ってアイドルだったのかもなぁ

卑弥呼って、あの時代のアイドルだったのかな?
 みんなでサイリウムを(松明)振って、コール&レスポンス(祝詞)をやったりして。
 って、今風に考えたけど、当時は当時なりのやり方みたいなのがきっとあったんでしょう。

 ところで、卑弥呼について、昔読んだ本に、「卑弥呼」は『魏志倭人伝』に記されていた魏側の言葉であって、これを正しく日本文字に照らし合わせると「日巫女」(「陽巫女」)になるんじゃないの、

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【発想の仕入れ】音声日記
その35
邪馬台国はどっちだ?

遅くなりました。
今晩は、うちの息子(高校生)と奥様の会話から
発想のヒント(仕入)を。

テーマは邪馬台国!(ヒミコっていえばわかるかな~)

やったぁ~
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アラセルバ王国のティオフェル2

○アラセルバ宮殿・地下階段
­

健司「姉さん、ここは一体何処なんだ?」

千里「これって本物のお城なんだよね?」

麻衣「古代みたい」 ­

エステリア「あなた方は違う国から来られた方な­のですね。ここはアラセルバと言う王国で­す」

三人「アラセルバぁ!?」 ­

   ***

   地下部屋。 ­

エステリア「王子様いらっしゃい­ますか?」

ティオフェルの声「いま取り込み中で

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アラセルバ王国のティオフェル1

○アラセルバ王国王室。 ­

アナスターシャN「時は紀元前5000年、アラセルバ王­国と言う莫大な資産と領地を持った王国が存在­しました。アラセルバは100年ほど続いている都で、未だに創始の時代と変わらずに王子の頃から厳しく凛とし­た教育を受けた立派な聖君の元、平和な国が成続いています。よってこの国は創立以来、戦をしたことがありません」

アナスターシャN「初代国王のギルデンバッハが死ぬと、その

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ぼーっと古代史3<邪馬台国 粉飾された距離>

昨日にひき続き、邪馬台国のお話です。
昨日は、方角が「魏志倭人伝」の筆者(陳寿)をはじめ古代中国人の勘違いだったんじゃないか、と書きましたが、今回は距離について。

当時の中国の距離は、1里=435メートルって決まっていました。(秦の始皇帝が定めたものです)じゃあ普通に考えれば、ちゃんと里数が書かれているし、そのまま辿れば目的地まで着くじゃん、と思いますよね? 実はそこがくせ者。
倭人伝の距離はど

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やった〜!
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『Tokyo発シガ行き➡︎』 第4回 "灯台もと暗し"【2019年2月号アーカイヴ】

(※アナログ形式で読みたい方のために記事の一番下⬇︎に 原稿を画像として貼り付けてあります。解像度も十分あるかと思いますのでそちらが良い方はこちらをプリントなさってくださいませ!)

       ✴︎ ✴︎ 以下、アーカイヴ ✴︎ ✴︎

「守山は昔、森山って書いたらしいよ。けれどある時から“守山”になったんだって。どんな秘密を守っているのかな」
そう言ったのはわたしが毎週月曜にFBで更新してい

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ありがとうございます!
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【歴史雑記】邪馬台国と夏王朝

歴史雑記003

 この記事を書くにあたって、はじめに僕の基本的な立場というものを記しておきたい。
 それは、「文献の記述と考古的成果は、必ずしも整合的に理解される必要はない」というものである。
 この点を念頭に置いて、本記事をお読みいただけるとありがたく思う。

 さて、邪馬台国論争について、主に畿内説(大和説)と九州説があることは、広く知られるところである。
 この論争(?)は、古くは

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ありがとうございます。
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