見出し画像

でも、おまえ、ラウンジ嬢にもてないだろ?(山田詠美「僕は勉強ができない」の読書感想文)

中学の時に読んでから年に1回は読み返している山田詠美「僕は勉強ができない」。今秋も一度読み返し、いい機会だったのでなぜ好きなのかを一度文章にして振り返ります。

自分に刺さったこの本のテーマは「モテる(人間の魅力)」を一つのフックにして

  • 自分で考える

  • 他者を尊重する

  • 「正解」の生き方に逃げない

について強いメッセージがあるところで、自分が大切にしている考え方や行動習慣と共通するところが、毎年読み返すほど刺さっている要因かなと考えています

本の概要(新潮社より)

ぼくは確かに成績が悪いよ。でも、勉強よりも素敵で大切なことがいっぱいあると思うんだ――。17歳の時田秀美くんは、サッカー好きの高校生。勉強はできないが、女性にはよくもてる。ショット・バーで働く年上の桃子さんと熱愛中だ。母親と祖父は秀美に理解があるけれど、学校はどこか居心地が悪い。この窮屈さはいったい何なんだ! 凛々しくてクールな秀美くんが時には悩みつつ活躍する高校生小説。

https://www.shinchosha.co.jp/book/103616/

「でも、おまえ、女にもてないだろ」

私の大好きなシーンの一つが、勉強のできるクラスメートが勉強のできない主人公に嫌味を言って来たところを反撃するシーン。

「でも、大学行かないとろくな人間になれないぜ」
「ろくな人間て、おまえみたいな奴のこと?」
「そうまでは言ってないけどさ」
 脇山は、含み笑いをしながら、ぼくを見詰めた。嫌な顔だと思った。
「脇山、おまえはすごい人間だ。認めるよ。その成績の良さは尋常ではない」
「・・・・・・そうか」
「でも、おまえ、女にもてないだろ」
脇山は、顔を真っ赤にして絶句した。

それは

○勉強ができる
≒高校生でやりたいと思っている人はいないけれど、大人が評価してくれる勉強
≒自分はやりたくないけれど、他者が評価してくれる能力
≒他人の価値尺度に依存

○女にもてる
≒高校生の最大の関心事だけど、大人の評価は高くない恋愛
≒自分はやりたいけれど、他者からの評価が高くない能力
≒自分の価値尺度に正直

の対比と後者に華を持たせる演出に救われた気持ちになるから。
この自分の価値尺度と他者の価値尺度について、重なる場面もあれば衝突する場面もあって、特に後者の場面にて自分の価値尺度を優先できる意思決定や人間性にかっこよさや美しさを感じます。


先日会社を辞めました。
新卒で選べる選択肢の中ではスーパーエリートな分類で、社格・給料・やりがいの観点で申し分のない職場だったと思います。同僚・上司・親からは当然「なんで?」の声が上がりました。

これは自分の人生の中で自分の価値尺度と他者の価値尺度が衝突した出来事の最たるものでした。また「でも、お前、ラウンジ嬢にモテないだろ?」の自問自答の結果でした。

良くも悪くも自分の周りには起業で一発当てたやつや親ガチャ大当てしたやつが多く、飲み会やSNSで交流する度に強い劣等感を抱かされていました。そのようなある種特殊でマイノリティな環境に身を置く中で、自分で事業をする・大金を稼ぐキャリアに対して強い憧れを持つようになり、それが自分にとってのあるべき姿や目指すべき姿に変わっていきました。そのような馬力の求められる生き方が素敵だと思うようになっていました。

サラリーマンがラウンジ嬢を口説くことはできません。口説けるのは事業家など自分の腕っぷしで勝負している生命力あふれる人だけなのでは?と限られた経験と知識から考えたゆえの結論でした。人としての魅力の測り方は種々あれど、自分が強く惹かれる魅力は「ラウンジ嬢にモテるか」で測れるものでした。たぶんそれは経済的成功と異性に対する魅力と馬力に基づく面白さがポイントのように思います。

くどくどと理由を考えましたが、そのようにいくつかの理由を考えなくてもしっくり来る説得力が「おまえ、モテないだろ」には詰まっています。その意味でこの言葉は自分を戒めたり、意思決定をする上でごちゃごちゃ考えずにまず自問自答できる一つの問いとして有用だと思います。「今からすることってモテそうかな?」は後悔しない意思決定かどうかを端的に心に問うための完璧な質問だと思います

しかしね。ぼくは思うのだ。どんなに成績が良くて、りっぱなことを言えるような人物でも、その人が変な顔で女にもてなかったらずい分と虚しいような気がする。女にもてないという事実の前には、どんなごたいそうな台詞も色あせるように思うのだ。変な顔をしたりつぱな人物に、でも、きみは女にもてないじゃないか、と呟くのは痛快なことに違いない。


その他好きな場面引用

待っててもいい。その言いまわしが、ぼくの好みではないのだ。ぼくは、待つ女など嫌いなのだ。

主体性のある女性に強く惹かれる。その主体性の言い換えとして、待つ女性か待たない女性かは重要なシグナル。

これなら、どんな男も夢中になるだろうと、ぼくは思った。彼女のすべては、無垢な美しさに満ちている。けれど、この世の中に、本当の無垢など存在するだろうか。人々に無垢だと思われているものは、たいてい、無垢であるための加工をほどこされているのだ。白いシャツは、白い色を塗られているから白いのだ。澄んだ水は、消毒されているから飲むことが 出来るのだ。純情な少女は、そこに価値があると仕込まれているから純情でいられるのだ。

全ては何がしかの目的や用途のためにデザインされているという前提に立って考えているタイプとそんなこと考えたこともないタイプがいる。その境は「何かを作ったことがあるか」な気がしていて、生産者側の気づきや悩みを経験した人かどうかがその壁をうんでいる気がする。

ぼくは、人に好かれようと姑息に努力をする人を見ると困っちゃうたちなんだ。香水よりも石鹸の香りが好きな男の方が多いから、そういう香りを漂わせようと目論む女より、自分の好みの強い香水を付けている女の人の方が好きなんだ。

メイクの濃さは意志の強さ。だから私は乃木坂(清楚)ではなくE-GIRLS(ギャル)が好き。

好きな女と寝るのは本当に楽しい。けれど、世の中には、この喜びに目を向けない人々が沢山いるのだ。なんと不幸なことだろう。

セックスすることは快楽や幸せに直結する行為なので、ここから目を背けていたり言い訳をしている人を見ると信用できない気持ちになる。また一方でここにコミットしている人は、その品性ややり口の是非は置いておいて、波長があう確率が高い気がする

ぼくは、昨日のテレビ番組を思い出した。子どもを殺すなんて鬼だ、とある出演者は言った。でも、そう言い切れるのか。彼女は子どもを殺した。それは事実だ。けれど、その行為が鬼のようだ、というのは第三者が付けたばつ印の見解だ。もしかしたら、他人には計り知れない色々な要素が絡み合って、そのような結果になったのかもしれない。明らかになっているのは、子どもを殺したということだけで、そこに付随するあらゆるものは、何ひとつ明白ではないのだ。ぼくたちは、感想を述べることはできる。けれど、それ以外のことに関しては権利を持たないのだ。

感想や評論を述べるよりも、尊重してただ受け止めるコミュニケーションをしたほうが一緒にいて居心地がいいし、自分もそうあれるように心がけてきた

父親の不在に意味を持たせたがるのは、たいてい、完璧な家族の一員だと自覚している第三者だ。ぼくたちには、それぞれ事情があるのだし、それを一生嘆き続ける人間などいやしない。そこまで人は親に執着しないものだ。だって、親は、いつかはいなくなる。それどころか、自分だって、その内、この世から、おさらばしてしまうのだ。父親がいない子供は不幸になるに決まっている、というのは、人々が何かを考える時の基盤のひとつにしか過ぎない。そして、それは、きわめてワイドショウ的で無責任な好奇心をあおる。良いことをすれば、父親がいないのにすごいと言い、悪いことをすれば、やはり父親がいないからだということになる。すべては、そのことから始まるが、それは、事実であって定義ではないのだ。事実は、本当は、何も呼び起こしたりしない。そこに、丸印、ばつ印を付けるのは間違っていると、ぼくは思うのだ。父親がいないという事実に、白黒は付けられないし、そぐわない。何故なら、それは、ただの絶対でしかないからだ。
大多数の人々の言う倫理とは、一体、何なのだろう。それは、規則のことなのか?それに従わない者は、出来の悪い異端者として片付けられるだけなのか?人殺しはいけない。そうだそうだと皆が叫ぶ。しかし、そうするしかない人殺しだって、もしかしたら、あるのではないのか。ぼくは、もちろん、人なんか殺したくはない。しかし、絶対にそうしないとは言い切れないだろう。その時になってみなければ解らない。その人になってみなければ明言出来ないことは、いくらでもあるのだ。倫理が裁けない事柄は、世の中に、沢山あるように思うのだが。

完璧な家族=正解の価値観で、それを絶対的なものと考えているタイプとは波長が合わない。また事実と解釈を分けて話せないタイプが多い気がする。

ぼくは、ぼくなりの価値判断の基準を作って行かなくてはならない。その基準に、世間一般の定義を持ち込むようなちゃちなことを、ぼくは、決して、したくないのだから。ぼくは、自分の心にこう言う。すべてに、丸をつけよ。とりあえずは、そこから始めるのだ。そこからやがて生まれて行く沢山のばつを、ぼくは、ゆっくりと選び取って行くのだ。

一旦相手のことをあるがままに受け止めて、そこから会話をはじめる。その対話のスタイルってあるグループ(考えるタイプやマイノリティ)にぐう刺さる。ポイントとして、傾聴する姿勢・話してやろうと思ってもらえる信頼関係の構築力・理解力が求められて、かつ相手側も伝える力や返信を受け止める体力が前提条件になる。

「私は、したり顔で物を言うってのに我慢が出来ないの。個人の事情なんて誰にもわかんないんだから。それなのに、皆、○とか×とかつけて決めようとする。不倫が不道徳なんて言うやつは大人じゃないわ」

冗談や必要とされている場合を除いて、○×をつけるタイプとは波長が合わない。

私は、秀美を、素敵な男性に育てたい。大人の女の立場から言わせてもらうと、社会から外れないように外れないように怯えて、自分自身の価値観をそこにゆだねてる男って、ちっとも魅力ないわ。そそられないわ。・・・自分は、自分であるってことを解っている人間にしたいの。

自分の価値観を確立し、自信をもって行動できる人はいいおとこ。日和ってるやつは何やってもだめ。

ぼくは、他の何者でもなく、ぼく自身であると言うこと。このことを常に意識しなくては、生活出来なかったぼくの幼ない時代。悩んでいるどころではなかった。虚無なんていう贅沢品で遊べるような環境に、ぼくは身を置いて来なかったのだ。

正解ではないタイプの思春期あるあるで、病むか揺るぎない自己肯定をするかの二択が問われる

 「でも、植草みたいに、深刻さをもてあそんでいる奴も、はっきり言って、ぼくには羨しいよ」「あんなのいんちきよ」「こむずかしいことで頭を悩ませてるのは、どこも痛くないからだろ。黒川さんみたいに、貧血症でもなく、ぼくんちみたいに貧乏でもない。実際に不幸が降りかかって来ていない証拠みたいなもんじゃないか」

考える習慣って一方で暇のシグナルでもある

この人が死んだら嫌だなあと思った。彼も、多分、ぼくを残して死ぬのは嫌だろうなあ、と、そこまで思うと、なんだかやるせなくなった。それは、大きな悲しみというより、ひとり分の空間が出来ることへの虚しさを呼び覚ます。人間そのものよりも、その人間が作り上げていた空気の方が、ぼくの体には馴染み深い笑いや怒りやそれの作り出す空気の流れは、どれ程、他人の皮膚に実感を与えることか。多くの人は、それを失うことを惜しんで死を悼む。

 生きていることは錯覚ばかり、とぼくは病院に来る途中に思ったけれども、残す空気は、形を持たずして、実感を作り上げるのだ。しかし、その空気により他人に記憶を残せなかった人間は虚しい。やがて灰になるなら、重みのある空気で火を燃やしたい。

その人がいないことの寂しさや虚しさ、いることで生まれる価値のある空気。そういう好き嫌いとか愛してる悲しいとかのような大味の感情で表現される価値ではなく、よりさりげなくささやかな感情で表現されるような価値を出せる人間でありたいと強く思う。

これは高校時代から心がけている「あいつ呼ぼうぜ」キャラの概念に近い

なんだか知らないけれど「いたほうがいいやつ」、
「あいつがいたら楽しいだろうな」と思わせるやつ、
そういうやつこそが、ぼくの考える人間の理想なのだ。

取り柄で、みんなに大事にされるとしたら、
みんなは自分でなくて、その取り柄のほうを愛している。
それは、さみしいことなのだと思うのだ。
そんなんじゃなくて、なんの取り柄もいらなくて、
ただ「おまえが来ないから、さみしかったよ」と
言われるような、そんな関係をつくれるやつ。

https://www.1101.com/darling_column/2005-11-28.html

Appendix

女を抱くために大金持ちになった男

「いいおんなにモテる」をゴールにして突っ走った野崎さん。

「お前の目標はなんだっけ?」
「はい。カネを稼いでいい女とエッチをすることです」

野崎幸助「紀州のドン・ファン。美女4000人に30億円を貢いだ男」

この本が面白いのは

  • やる気がでる目標を設定

  • 目標をやりきる

について、「美女を抱く」ことにコミットした人の半生を追体験する中で、教訓として伝わってくるところ。

またこの野崎さんが女性に殺される?最後なのもおもろい


#推薦図書


この記事が参加している募集

読書感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?