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アニメーターになった時の話

1979年の夏。会社にアパートの大家さんが来て、「深谷くん、いまウチに電話あったんだけど、すぐ警察行きな」と言われ、教えてもらった千川通りの派出所に向かった。

1979年5月、紹介してもらった豊島区南長崎にあるアニメ会社スタジオエイトに入った。3ヶ月やってみて、アニメーターに向いてなかったら名古屋に強制送還という条件なので、上京時は生活に必要な最低限の荷物だけ宅急便で送ってもらって東京暮らしがスタートした。

アパートはやぶ恵っていう中華料理屋の2階の1室。紹介してくれた人が見つけてくれた。4畳半を2人でシェアしたので月18000円の家賃は折半。やぶ恵はスタジオエイトの前身である朝日フィルム時代から夜食を出前してたそうだ。スタジオエイトから徒歩45秒にあるので出前は早い。『宇宙戦艦ヤマト 新たなる旅たち』の追い込みで全員が徹夜したときの夜食もここの出前だった。やぶ恵の大将はアパートの大家でもある。親切でいい方だったが、その後副業絡みのトラブルで刺殺されたと聞く。

4畳半の部屋

3ヶ月がんばった甲斐あって、引き続きスタジオエイトにおいてもらえることになり、実家から私物を送ってもらうことにした。資料本やよく聞くカセットテープなど細かいもの、個人的に思い入れのあるものたち。

しかし荷物は届かなかった。2〜3日後、仕事してたらやぶ恵の大将がエイトにやって来て、警察に行くように言われたんだった。

派出所に行くと、机の上に割けた段ボールの片割れが置いてあった。幸い、伝票が貼ってある側だったのでやぶ恵に連絡があった。横浜の路上で配送業者が落としたと思われる荷物を親切なドライバーが回収し、送付先の最寄りの派出所に届けてくれたそうだ。半分になった段ボールの中にはタイヤ痕がついた冬物の衣類が少し。食品や思い入れのある私物類はなかった。本人確認をし、半分になった段ボールを引き取った。

荷物を紛失した宅配会社からは何の連絡もなかった。通常なら実家からの荷物はヤマトなんだが、このときは違った。実家には半分だけ届いたと連絡した。そして思い入れのあった私物はすべてなくなってたことも。謝罪どころか紛失報告さえなかったのでクレームしたかったが、実家からやめてくれと言われた。クレームすれば何らかの賠償もあるだろうけど、父親の会社の得意先なので、問題にしたくないとのことだった。この腹立たしさ、悔しさはしばらく残った。

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