脱毛圧力への加担と内在化した社会との付き合い方

ヒゲ脱毛を始めた。
ヒゲはあまり生えてこない方だと思っていた私だが、社会人になるころに骨格が一段階ごつくなり、ヒゲも濃くなったように思う。

コロナウイルスの流行真っ盛りだったのもあり、ヒゲは普段は剃らなくても隠れるし問題はなかった。むしろ少しヒゲが蓄えられるようになったのが楽しいくらいだった。

マスクを外すようになると、気を使いある程度毎日ヒゲを剃るようになった。そして気づいたけれど、剃ってもなんだか黒いものが見えるし、完全にツルツルにはならなくなっていた。

普段過ごしている分に支障はないのだけど、自分のヒゲの剃り残しに自覚的になる瞬間が2回だけある。会社のトイレの鏡の前にいるときと、写真に写った自分を見るときだ。
会社のトイレに配置されたライトは、この明るさが一流企業の証だとでも言うかのように、私の顔を照らしてくる。その行き過ぎた輝きと手入れの行き届いた鏡は、私の顔の至らない点を見せつけてくる。このトイレは少し気味が悪い。(もしかすると、一流企業の社員たるもの、身だしなみには常に気を払えというメッセージなのか?ゲロゲロ~)
写真は後から見返して楽しいし、出来るだけ撮るようにしている。ただ、見返して自分の顎に無精ひげが生えているとなんだか気に入らない写真になってしまう。自撮りなんかした日には写真を見られない。

金を稼ぐために人々の不安を煽るような、あるいは行き過ぎたスタンダードを設定するようなビジネスは軽蔑している。
電車やSNSで出てくる脱毛の広告なんてその代名詞だと思うが、世の中ではもう完全に脱毛に追い風が吹いている。そして、私自身も自分の無精ひげが気に入らなくてしょうがないのだ。

体毛のように遺伝子レベルで決まっていてアンコントローラブルなものについて、少ない方が良いと社会で合意形成されているのは異常だ。あまりにも配慮がない。
元々私はヒゲに対してネガティブイメージはないし、ほかの人のヒゲを見てもなんとも思わない。それでも、これだけ自分のヒゲが気に入らないのは、社会を内在化してしまったからなのだろう。
私が脱毛を始めれば、社会の合意を強化し、歪んだ価値観の広がりに加担することになる。これが嫌で、気に入らないながらも自分のヒゲを愛そうとし、脱毛には加担しないように努めていた。

でも、どうしても気になるのだ。会社のトイレに入ったとき、写真を見返すとき。自分の顔を見るのが嫌になってしまった。

良くない状況だなと思い、脱毛を決めた。そしてヒゲは薄くなりはじめ、自分の写真を気持ちよく見られるようになった。脱毛をして良かったなと思っている。

内在化した社会に意思決定を奪われるのが嫌で闘っていたが、まあゼロ百の議論ではない。舵まで奪われてはいけないが、もう少し柔軟に自分の中の社会と付き合っても良いかなと思った。

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