起きたことすべてを覚えていたら疲れちゃうよ
僕たちの前を通る電車のせいで彼女の言ったことが聞きとれなかった。彼女は僕が聞きとれていないことを察したらしく、途中で喋るのをやめたようだった。電車が通り過ぎてしまうと踏切のバーが上がり、僕たちは歩き出した。「何て言ったの?」僕が聞くと「さぁ?忘れちゃったわ」と自分が言いかけたことに関して少しも興味を持っていないような顔つきでそう答えた。
「早いんだね、忘れるの」
「忘れようと思えばすぐに忘れられるの、これわたしの特技よ」いかにも得意そうな顔で彼女は答えた。
時刻は午後4時を回り、空は夕陽でなんとも言えない鮮やかなグラデーションになっていた。ただ、小雨が降っていた。
「いいね、その特技」と僕が言うと、黙ったまままぁねという顔をした。
彼女がその顔をするときはまともな話をするときだ。自分の特技の話ではあるが、とりたてて自慢の色が出ているわけでもない。
「これは生きていくための手段よ、有効な手段」「これがあるおかげでわたしはだいぶ長生きしてるわ、これ本当よ。あなた信じる?」ちらと僕の方を見ながらそう言った。落ち着きのあるトーンだったが目には一瞬力が宿っていた。
信じると言うと彼女は先ほどのトーンで「嘘だ」と言った。
嘘ではなかったが、それには直接答えなかった。嘘ではないと答えたところで話はおもしろくもならないだろう。何と答えよう。
「少なくとも起きたことすべてを覚えていたら疲れちゃうよ」と僕は言ってみた。
僕たちは踏切を渡り終わった。
「ほんと、そうなのよ」「わかってるじゃない」
「ああ、わかってるよ」「忘れることで回復できるし、忘れることで悲しいことってないと思うからね」
「そう、忘れても悲しいことはないわ。だって忘れてしまえば悲しみの対象自体を忘れられるんだものね」
「ああ」
まったくその通りだ。忘れることは精神の痛みを消し去る手段かつ根本的な治療法なのではないかと。
「君はその特技で長生きしている」
「そうよ、断言できるわ」
「忘れなきゃやってられない事がそれだけあるってことかな?」
「そうね」
僕は彼女のように何でもかんでも自由自在に忘れることができるけじゃない。それでも今までやってこれた。それにまだ若い。忘れないと死んでしまいそうなくらい辛いことなんてそんなに経験していない。
「まだ僕たちは若いのに、そんな事あるんだ」
「まぁ、積み重ねよね」
一瞬意味がわからなかったが、少し間をおいて彼女が説明した。
「それなりにイヤなことが積み重なるととてつもなくイヤなことになるのよ」「泣きっ面にハチみたいな」「わかるでしょ?」
たぶんわかると答えた。海で泳いでいると波を受け、しばらく水に顔がつかる。息をしようと顔を上げたとたんにまた次の波に襲われる。そんな感覚を思い出した。あれは苦しい。ハチとは関係ないが、あれはすごく苦しい。
「これを身に着けるしかなかったの。この真っ暗で残酷な世界を、わたしが生き残るためには」
彼女の目は孤独だったが、それは決して悲しさを感させるものではなかった。
あとがき:
闇を抱えていそうな女性を描いてみました。なんだか暗い感じがしなくもないですが、案外こんなもんじゃないかなと思うんです。ただ、読み手としては、この女性に大いなる闇を抱えていてほしいと思ってしまうんじゃないかなと。もしこの続きを書くとしたら(たぶん書かないとは思いますが)、それはもう悲しい過去を書きたいですけどね、すごいつらいやつを(笑)。
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