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白い髭の深い声を持つ顔の若い老人

「人には誰しも消したい過去がある」「人には誰しも言えない過去がある」「そういうものですか?」

風の気持ちよい草原のなかで、僕はその老人に尋ねた。髭は見ごとに白く、しわが目立だっていた。遠くから見たら、あるいは仙人に見えるような人だった。しかし彼の顔は意外なほど若かった。少なくとも僕はそういう印象を受けたはずだった。その白い髭と薄くなった髪の毛が似合わないと思えるくらい。

「そうだな」「たいていの人は」と彼は言った。落ち着きのある声だった。それはしばらく聴いていたいと思うくらい心地のいい声で、どこか深い泉から届いてくるような感じだった。

僕は、そのとき初めて彼に会ったから少し緊張していた。その緊張は当時の記憶を頭に残しておくためにちょうどよかった。彼に会いにいったのは当時の僕が精神的な問題を抱えていたことと関係していたが、白い髭の深い声を持つ顔の若い老人に興味を持った僕は、彼のもとを訪れた目的をまったく忘れていた。

そのとき彼は動物の世話をしていた。それは子牛だった。人間になれているらしく、彼が毛づくろいしているあいだは落ち着いていた。自分より小さい子牛の毛づくろいをするために屈んでいた状態から顔をあげ、「ここはきれいなんだ」と言った老人の目の先には自然があった。そしてまた毛づくろいに戻った。たしかにそこはきれい場所だったし、今でもそう思う。たしか向こうの方には山羊なんかがいたっけ。目にやさしい一面緑の草原と、散在する動物、そして白い髭を持つ動物と親しい老人。その風景はモネの「印象・日の出」にあるようなぼんやりとした光を受け、僕の記憶のなかに絵画として残っている。


あとがき:

「精神に問題を抱えていた青年」、と「なんだかすごそうな老人」を書きました。これはフィクションでして、この文章を書いた僕のことではありません。友人でも顔見知りでもなく、ただのフィクションなんですよ。こういう風景ってよくないですか。草原。動物。無口な老人、それも髭の白い仙人みたいな、この人はいったい何を考えて過ごしているんだろうと考えさせられるような人。実際に見たことはないけれど、ちゃんと想像できるんです。あぁ、いい風景。

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