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繰り返す毎日の中で、文化的な体験を通して何かが変わる

この記事は、ポッドキャスト「たるいといつかのとりあえずまあ」の2月下旬のラジオで朗読したものです。パーソナリティのよしきが兵庫で開催した「山本佳輝・北村明日人 DUO Concert」についての感想文を書きました。最高でした。


✳︎目の前の人たちを喜ばせるところから

 だからオードリーの東京ドームの配信観てたのね。春日みたいな圧倒的なスターと行ったデュオリサイタルで、よしきは完全な「じゃない方芸人」だった。私の周りに座っていた同い年くらいの男女が、明日人くんの話をして、明日人くんのMCで笑っていた。

 演奏会が始まって、よしきが舞台に出た時、顔を上げて全体をゆっくりと見回していていた。「ここにきているお客さんに向けてこの演奏会をやるんだ」という目的をはっきりと持っているのだと思った。開始前に会場に置かれた2台のヴァイオリン、モーツァルトの数あるソナタからAdagioから始まるソナタを選んだこと。それがG durであること。ルチアーノ・ベリオの演奏前のMC。
 ここにふらっときたお客さん、自分の地元の友達、クラシックが好きで聴きにきた人、全ての客をとりこぼさずに、少しでも楽しんでいってもらおうという創意工夫に溢れていた。青松輝さんの短歌の会で、「わかる人にだけわかればいいという姿勢は傲慢だと思う」と口にしていたけれど、その信念に真摯であることが、演奏会を通して愚直に表現されていた。そしてそれは、「ただ目の前の人たちを喜ばせるところからだろう」という、この、画面越しの鑑賞が資本主義や効率性とともに推奨されていく現代に対する、最も美しい反抗の形だと思った。


✳︎ジンベイザメの水槽と水族館

 演奏会の中で、思い出した記憶がある。自分が演奏会を企画した時、親が終演後のロビーで「〇〇君がとっても良かったね」「〇〇役の人が良かった」と自分じゃない人たちを褒めるのだ。「そうなのよ」と僕は言いながら、心のどこかで、「自分の息子に誉めるところはないんかい」とちょっと思っていたと思う。ただ、その時、母はちゃんと私を褒めていたのではないかと思った。
 わたしもこの演奏会が終わった後、よしきに「明日人くん、キラキラしてた」と伝えるだろう。けれど、それはただ、例えば美ら海水族館に行った一発目の感想として「ジンベイザメがすごかった」って言う、みたいな、そういう類のものなのだ。

 明日人くんような存在を最も客が集まり、水族館のメインとなるジンベイザメの水槽だというのなら、よしきが行っていたのは、そのジンベイザメの水槽をメインとした一人でも多くの人が楽しめる水族館づくりだ。ジンベイザメの水槽に行く前にはまず小さな熱帯魚たちと出会える小さな水槽があり、ジンベイザメの水槽の横には、サメの生態系がわかるフロアがあり、深海のフロアがあり、水族館の人たちがこだわって作った特設展示があり、クラゲがいてチンアナゴがいてカメがいてペンギンがいる。よしきは、そうした一つ一つの引き出しを、地道に集め続けてきたのだと思う。自らの得意、不得意を自覚しながら、それでも少しずつ、オーケストラを仕事にしながら、現代音楽にも、17世紀の音楽にも深く取り組んでいくことで。
 もし、よしきもまた「ジンベイザメの水槽」だったとしたら、明日人くんと同じ立ち位置だったら、わたしは明日人くんではなくよしきを誉めるだろう。ちょっと気を遣って。
 でも、わたしは明日人くんを誉めることを通して、彼のきらめきをここまで美しく見せてくれたよしきも褒めているのだ。だとしたら、親が他の人を褒めていた時だって、もしかしたらそういったつもりだったんじゃないだろうか。

 年明け、美ら海水族館に行った時、確かにジンベイザメの水槽はすごくって、わたしはそこの写真を何枚も撮った。けれど、足を一番長い間とめたのは、小さな深海の生き物がいる水槽。水槽の上から落ちるわずかな光に照らされた小さな赤い魚が揺蕩っている。わたしの少し後にきた一人の小学生くらいの少年と、時間を忘れたようにずっとそれを眺めていた。
 そう。「ちゃんと伝わっている」。演奏会の最中、そのことを、心の奥底でずっと思った。よしきが行っていることは、決してみんなと感想を共有しあえるような分かりやすいものではない。それは表面に現れにくく、口にするのも野暮なほど真っ直ぐな「伝える」のための手練手管だから。
 けれどそれは伝わっている。そしてそれに気がついているのは、きっと、わたしだけじゃない。深海の水槽を眺めていたのが、わたしだけではなかったように。


✳︎繰り返す毎日の中で、文化的な体験を通して何かが変わる

 最後のMCでよしきが「繰り返す毎日の中で、文化的な体験を通して何かが変わる」と言っていたけれど、漠然と、もしかしたら、変わっているのは受け取った人の過去なのかもしれないと思った。例えばこの演奏会で、わたしは母の発言の捉え方を変えることができた。もしかしたらそんな風に、文化的な体験が自らにつながることで、過去を異なった角度から照らしてくれる、未来の可能性を、新たな形で開いていくのかもしれない。
 そんなふうに、繰り返される毎日の円が、思ってもいなかったところへと、少しずつ、少しずつずれていくのかもしれない。(おわり)


ポットキャスト「たるいといつかのとりあえずまあ」
作家の垂井真とオーケストラ奏者(Vn)の山本佳輝(ラジオネーム:いつかのコシヒカリ)。東京藝術大学で出会った1997年1月31日生まれのふたりが、お互いの活動の近況や面白かったコンテンツの紹介などを通して、今世をとりあえずまあ楽しもうとしてる番組


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