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4月の日記-確かに整ったハーモニー、春が過ぎる

4.16
ようやく風邪が少しなおった感じがする。久しぶりに弾き語りの曲を作ろうとするも、とっかかりが掴めなかった。自分が思う技巧的なもの、格好いいもの、幻想的なものを作ることはできない(気持ちが結局は乗らないし、それは隣の芝青し現象なので)という諦めは持っていて、作り始めてしまえばこねくり回さずにいけるはずだけれど、テーマが掴めないとそもそものエンジンがかからない。いつかかけたらいいなあ。諦め。

4.17
ベランダのニューアルバム。学生のころとは違い、ベランダの方々が働き続けながらもこのバンドを手放さずにアルバム発売までたどり着いたことが奇跡のようだしほんともう圧倒的絶対的なな感謝。一曲目の「生きることしか能がないけれど何かしなくちゃな」という言葉にさっそく胸を打たれる。遅れ気味の通勤路を早足で歩きながら、全身を通り抜ける感情の濁流に下唇を噛む。

4.18
アニメserial experiments lainを観ている。なんで観ることにしたのかわからない。なんだか自分の今の心情を共鳴しすぎて辛くなるので、毎日10分くらい見たらとじて、中和するようにほのぼの系のアニメ(ゆゆ式とか)をみている。助かる〜と言いながら。でもちょっと落ち着いたらまたlainに戻る。

4.19
仕事で大学に行った。案内してくれたのが仕事とは関係ない友達で、「ちょうどサークル勧誘やってるから観て行こうよ」と一緒に階段に座って踊り場で合唱部が「瑠璃色の地球」を歌っているのを聞いた。風が強くって、キーボードのスピーカーに手持ちマイクを近づけて音量を調節している係の青年が、風の音を拾わないように申し訳程度に手をマイクにかぶせていた。本当に効果があるかわからないけれど、なんかやんなきゃいけないよな、っていう、戸惑いの末の動作。「ここの合唱部はすごいんだよ」隣の友人の声、確かに整ったハーモニー、春が過ぎる。

4.20
初対面の人と夜の下北沢を歩いた。その人が駅をぼうっとみて「江ノ島行きたいなあ」と呟いていたとき、一瞬、じゃあこのまま行って朝まで浜辺でなんかぼうっとしましょうよ、と本気で言おうと思ったし、なんか言ったら一緒に行ってくれそうな人だったし夜だった。でもなんか、今の自分がそれをいうのは嘘になってしまうのも同時にわかった。実家で夕食を作ってくれている両親がいるし、明日は明日の用事があるしなあ、など考えていて、それがちゃんと「歯止め」になっている。そんなんどうでもいいから行こうよ、って話なのに。
「江ノ島行きたいなあ」の返答に沈黙を選んだその瞬間にふたつのことを思う。一つは、こんな風にわたしは人生の自由みたいなものを失っていくのかもしれない(あるいは既に失ったのかもしれない)、ということ。もう一つは、「まあ、いっか」で現実では選ばなかったその「もしかしたら」が、歌になったり、物語になったり、つまり、世界を愛するための可能性として残り続けるのかもしれないということ。

4.21
実家で祖母が(うちは二世帯住宅である)「90になるんだもん。こんな生きるだなんて思わなかった」と言っていた。わたしは会うたびに祖母に近づいてくる終わりの近さのことを確かに感じているが、元気そうでよかったとそればかりを繰り返している。思いやりや優しさというよりも、それしか引き出しが開かないがために。

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