「圧倒的かつ完全無欠な侵略行為を前にしてバグったのか”ロシアは侵略をやめろ”ではなくて”ウクライナ(ゼレンスキー)は抵抗をやめろ”と言い始めてる」一部の人たちが、日本にとってはむしろバグではなくスタンダードである可能性とその危険性、及び対処法について

(注意:この記事はぱらみりさんのツイートに宛てた一連のリプライを訂正・補足したものです。)

先の記事で「日本の近代化は上滑りの近代化だ」と夏目漱石が指摘したことに触れましたが、晩年の彼と交流のあった哲学者・和辻哲郎はその著書『風土』で「モンスーン型性格」として専制体制を肯定してしまう東アジアの文化的精神性を定義しました。簡単に言うと台風などの暴力的な自然現象にひたすら耐え忍び続けるメンタルということですが、「なぜ過剰に耐えてしまうのか」という点が要点です。
 確かに自然の猛威は人々にとって脅威ですが、その自然現象から豊富な雨などの恵みも得ているので受容せざるを得ない。だから専制君主も同様に、一種の「大いなる自然」として受容されている、という理屈です。ここでは専制側と民衆の(精神的)癒着が前提とされています。【注1】

 「自然現象・気候風土によって直接その精神性が形成された」という和辻の議論は、その根幹の部分で具体的には何の根拠も提示できておらず、全く信用できないものですが、起きている現象を説明する比喩としては非常にわかり易く、民衆の心が専制主義に結びつくメカニズムを簡潔に示しています。

 そして、洋の東西の社会史や宗教・民俗史の研究を比較してみると、この精神性【注2】は比喩としてだけでなく現実に存在し、実際には日本固有の歴史的文脈の上に形成されたものだったということがわかります。日本固有の政治文化を、近代に残存した自然崇拝の一種・アニミズムの変奏であると解釈する見方です。

 ぱらみりさんが指摘されているような「バグった人々」に対しては、以前の記事でも触れましたが、本来有効であるはずの「近代以降の社会が前提とする信念」に基づく批判を行っても通用しないことが多く、それは彼らが別の信念の体系、つまり身分制とその前提になる「信仰」に基づいて自我なども確立させているからだと私は分析しています。【注3】

 それゆえ通常の議論をベースとした説得や批判で臨むと、むしろ彼らを利することになるとも想定しています。そうさせないために、私がこの記事などで行っているような、「彼らはその拠って立つ前提が間違っているので説得できない人々である」という見解を我々の側で共有し、「民主主義への敵対者」と言うラベリング【注4】を行い、それを人々の間に拡散するという対抗策で対処するべきかと思います。

 なぜなら日本人的メンタルは我々の側にも存在し、そこに潜んでいるものの正体は橋下氏において顕在化している「近代の常識に反する精神」だからです。そのため日本の文化の中で生活している我々は彼の言説に影響を受けやすいわけで、万一橋下氏の言説を受容している人間が我々の近親者であったりした場合などにも、共感してしまえる部分があるためにそれを突き付けられた側としてはより大きなショックを受けてしまったりする可能性が考えられる、と言うことです。そのため、むしろ橋下氏やその賛同者によって、我々の側の「民主主義的信念とその共有による連帯」が崩されないようにすることの方に注意を向けることが重要だと考えます。国際世論のウクライナ支持という圧力がある限り、我々の側が崩れさえしなければ橋下氏らの言説が優位に立つことは、この日本社会においても不可能であると思います。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー【注1】ただし和辻本人は「欧州の方が東アジアよりも気候が穏やかだから人々は単に自然に従うのではなくそれをコントロールする発想を得た」などという話もしてしまい、そのため「アジアの暴風雨はその激しさからそもそも人間にはコントロールできないので、強大な暴力のようなものに慣れてしまい人々は単に耐え忍ぶこと以外の選択肢を発想できなくなった」という単純な議論に回収してしまいました。
そのため、最も重要な「権力者と支配される側の癒着」というメカニズムに原因があるという点が彼の著作においては曖昧にされてしまいました。
【注2】精神性とは「そこにいる人たちすべてが同じ性格だ」ということではなく、「何をOKだとみなすのか」についての固有の文脈が共有されているのか、ということです。

【注3】例として私のツイートから、橋下氏のような日本型デマゴーグがどのような信念の体系下に自らにとってのメリットを見出そうとしているのかを示した文章を上げておきます。
簡単に言ってしまえば、橋下のような人々がやっていることはポピュリズムですらなく、「主人(強い者≒ロシア)」に対して「分際をわきまえた奴隷の身振りをする」ことで同様の「精神的に奴隷な人々」の間で自分の有能さを誇示し奴隷頭(奴隷の管理職)にのし上がるという手法だということです。
【注4】
悪く言えば「レッテル張り」のことだが、橋下氏に類するような人々の意味不明な言動(ロシアに雇われているわけでもなく、また実際に戦っているウクライナ国民の殆どが自らの意志で戦い続けることを選択しているのにもかかわらず、何故か外野の橋下氏が戦いを止めるように、ロシア側でなくわざわざウクライナ側を説得しようとするなど。橋本氏が彼らの親であるなら、その命などを心配するというのも分かるが、当然ウクライナの人たちは橋下氏とはそのような関係には無く、お互いに独立した個人である。)を合理的に説明できるほぼ唯一の方法なので、この「レッテル張り」をとりあえず正しいとしても構わないと言うのが私の態度である。人間の思想信条はその根拠について科学的に即物的証拠を取り出して証明することができないが、重要な判断の際に思想信条を無視することもできない。切羽詰まった政治判断などに関しては「科学的でない」という理由で保留や判断を放棄することができない以上、私が行ったような手順で「何が真か、もしくは偽か」を決定する以外に方法が無い。この態度は現代アメリカプラグマティズムや科学哲学が主張する、「真とは何か」を決定する際の我々の態度・前提条件に関する研究の成果を反映させたものである。


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