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猫への愛の覚え書き

 夜のしとねの中で、私は猫と親密な時間を過ごす。
 
 この文の中で〝猫〟という言葉を〝恋人〟とか〝彼氏〟とか〝男〟などと置き換えると途端にヤらしい感じになるのだろうが、慌てめされるな、あくまでも〝猫〟である。

 〝猫〟という言葉の、何という安心感よ。

 さて、昨晩のこと。私は猫と一緒に眠りに就くことの出来る幸せを改めて噛みしめた。噛みしめたついでに、忘れぬ内に文章にして残しておこうと思ったので、ここに書いている次第である。

 うちには雄の茶白猫がいて、これがまあ無類の甘えん坊猫である。猫ってこんなだったっけ? と思ってしまうほど、人に……特に母親と認識しているらしい私に昼も夜もついて回る。お風呂に入ろうという時には振り払うようにして浴室に入らなければならないくらいだ(これも上手くやらないと噛みつかれ引っ掻かれるという惨事を招くこともある)。
 こういうのを「分離不安症」と言って病気の一種と見ることもあるようだけれど、今のところ彼の身体には影響が出ていないようなので我が家ではそれについては静観している。猫というのは案外と融通ゆうづうがきく生き物で、例えば「今日はお留守番よ。お留守番しててね。いい子にしててね」とよく言い聞かせて出かけると、一日中ひとりでお留守番も、難なく出来る。初めての時には心配して早めに帰ったりしたものだが、別段家を荒らすわけでもなく、おとなしく立派に留守役を勤めていた。
 これほど柔軟性があるということは、愛着ある存在が自分から離れていく時に生じる精神的ストレスも、自分なりに上手く解消したり出来ているのかもしれない。

 以前、『猫のエスプリ』と題して猫についてのエッセイを書いたことがあったが、あれを書いた後も、つくづく〝エスプリ〟という言葉は猫に似合うな~と感じる(この時、私の目は細まり口尻は上がっている)。
 うちの猫の場合は、Cleverクレバーと言うよりはWatcherウォッチャーといった感じで、常に家の人間の動きを〝見て〟いる。特に彼にとって〝母親〟である私のことは、〝監視されている〟と言っても過言ではないほど、一挙手一投足を見張っている。私が立ち上がれば「どこに行くにゃ!?」とばかりに自分も首を伸ばして凝視する。私がトイレに行こうとでもすれば、直ちに後について走り寄ってくる。その日のテンションによっては室内にまで一緒に入ってきてしまうので注意が必要である。ただし、タイミング的に眠いとか何か自分の気が乗らない日は私が何をしていようがどこに立って行こうが完全スルーだ。
 まさに、自分の機嫌と気分次第。パリジェンヌなのである。

 猫がパリジェンヌだと思うのは、その誘惑上手な点においてでもある。
 パリジェンヌは、おそらく、自分の魅力や影響力を知りつくしていて、それを武器に相手を自分に引き寄せ、翻弄してしまう。いわゆる小悪魔的なコケティッシュ、ということですな。
 猫もまた同じようにやるのだが、その点についてもしかしたらパリジェンヌを超越しているのではないかと思うことがある。それは、彼らは自分の魅力や影響力といったことに、関心すら無い・・・・・・ように見えるからだ。
 彼らつまり猫族は、自分の容姿とか相手に対してどう映っているかなどといったことに注意を向けていない。ただただ、自分の「意志」と「要求」を相手に伝えたいのみ。その試みは至ってシンプルかつストレートだ。
 そしてそこに彼らの勝算がある。
 猫が「美しい」ということは万事に通ずる〝常識〟なのであって、って彼らはそのことに意識を向ける必要が無い。化粧をせずとも、お風呂に入らずとも歯を磨かずとも、彼らは健康である限り、人間を魅了するぐらいのことは軽~くやってのけられるほどの美と輝きをそなえているのである。
 いや、たまに痩せ衰えて体中をノミに浸食されていながら人間のハートをつかみ、保護される仔猫などもいる。となれば、猫は無条件に人を惹きつける抵抗不可の引力を持っていると言ってもいいだろう。

 そうすると、猫にはパリジェンヌもかなわないな……と思えてきた。

 ひと昔前、私の子供の頃などは、猫嫌いの大人がたくさんいた。そういう大人達は、どちらかというと犬の方を贔屓ひいきしている面があったように思うが、しかし総合的に〝どうぶつぎらい〟であった。
 それが昨今は、この〝どうぶつぎらい〟の人種が減ってきているようだ。全地球的に動物愛護の精神が叫ばれてきた成果と言えるのか、ペットクリーナーやアルコール不織布など色々な技術が発達してペット自体やペットの飼育設備などを以前よりも簡単に清潔に保てるようになったことが影響しているのだろうか。
 けれど、どうもそれだけではないのではないか、と私は思っていた。もしかすると、もともとある猫(や犬)達ペットの魅力に、人間の方が気づき始めたせいではないだろうかと。
 だとすれば、人間は随分と進歩した、と誉められていいかもしれない。これは言わば〝スピリチュアルな〟成長だ。愛を学ぶことにおいて、ペット達が果たしてくれる役割の大きさは測り知れない。

 なぜそのことに私が気づいたのかというと、うちの母親がうちの猫のことをベタ褒めするようになったからだ。若い頃は〝どうぶつぎらい〟というほどではなかったものの、さして動物好きというわけでもなかった母が、この猫がうちに来てから「美しいのう」「おりこうさんやのう」「おとなしいのう」と毎日のように褒め言葉を連発するのである。これは人類に何か起こっているに違いない、と気づかされる変化であった。

 母親には小さな一歩だが、人類には大きな一歩だ。 
      byニャニャーリン 

*ニャームストロングの間違いでした すみません😣💦⤵️


 と、いうわけで、ようやく冒頭書きかけていたことに戻る。
 
 夕べ私は、うちの猫の優しい愛撫に身を委ね、そのあたたかい体を抱いて眠った。しっかりと密着した短毛に覆われた筋肉質の体は、腹部のところだけが「これでいいのか?」と思うほどに柔らかい。
 猫は、その長い〝手〟をぬーっと伸ばして私の首に巻きつけてくる。皮膚に触れる、肉球の熱さと危険な爪の先っぽ。うっかり爪を切り忘れていると、朝になると顔にうっすら傷がついていることに気づくこともある。
 それでも、愛しい愛しい私の王子様、だ。
 噛みつかれようが、引っ掻かれて出血しようが、結局は腹が立たない。増してや、寒い夜の静寂しじま、お互いの体温を沁み込ませ合いながら眠りに落ちる時間のこの幸福よ。

 猫は頭を反らせて、顎の裏側を私の鼻先に乗せるようにする。柔らかい、薄い肉の感触が心地よい。顎の裏の薄い肉、そんなところまで猫はしっかりと温かい。思わず彼の口とマズルにキスをする。チュッ、チュッ、チュッ。私のしつこいほどのキスを、猫は満足そうに全部受けとめる。彼の深い眠りはますます深まり、私の幸せもまた深まっていくのだ。

 この尊い時間を決して忘れたくない。何度でも反芻して思い起こせるようにと、こうして文章に起こしてみた。

 なので、これは全く自分の為の、感動の覚え書きです。
 読んで下さった方、ありがとうございました。「あんた本当に猫が好きなんだね、バカだね」と笑ってくれたら嬉しいです。

 補足:犬も好きなんですがね。鳥もハムスターなどの小動物も、魚も…。生き物はたいてい好きです。いつか他の動物が好きな気持ちも書きたいと思っています。

 

 


 


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