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『風土』 まじ?


東洋と西洋を考察をしようと思って理論的道具を探っており、『風土』のことを思い出した。


日本を代表する哲学者、和辻哲郎の『風土』である。この本によると、日本などの「モンスーン型」の気候の地域では自然に従順に暮らし、ヨーロッパの「牧場型」の地域では人間が自然を従えるという。彼の説を踏まえて考えるならば、これら東西に加えてさらに「砂漠型」というものも加える必要があろう。

もう一度彼の主張を、自分なりの解釈でまとめる。細かいことを省いてざっくりすぎるほどにその骨組みを取り出すと、水の量で文化を分けている。


モンスーン型:水が多い。蒸す。それからは逃げようがない。他にも台風などがあり、人は自然に合わせる形で文化を発展させる。

牧場型:水がほどよくある。人が自然を支配できある。牧場が作られ、合理的な考えが発展する。

砂漠型:水が少ない。限られたそれは奪い取る対象である。厳しい自然は、人間と対立するものである。そこで作られる人工物は、ピラミッドのような自然にはあらぬものとなる。


さて最近、観光地となっている英国庭園を見に行ってきたのだが、なるほど日本庭園とは違う。だが、直線を多用して区切られているフランス庭園とも同じではない。同じヨーロッパでも、共通項を括るのが難しい。英国庭園は自然を飼いならしているとも言えるが、植物がわんさかと咲いていて自然を活かしてもいるので、そこはモンスーンー型と似ているとも言えないか。

また、和辻先生の本には、ヨーロッパには雑草がないと書かれていた。なるほどモンスーン型の地域では、潤いの中で雑草までもが生い茂ってしまう。牧場型ではそれがない、と。その理屈で行けば、日本に英国庭園を再現するのは少し無理があるのではないだろうか?私は疑問を持ち、庭園で作業をしている人に質問をしてみた。


「雑草取りの仕事はありますか?」

「ええ。まあありますよ」


やはりそうだろう。すると、目の前にあるのが本当に英国庭園なのか、あやしくなってくる。


そこで調べてみると、話はむしろ逆であった。

雑草はあった。そもそも雑草なんて言葉が日本のものであって、英国庭園では日本で雑草扱いされている草花が、そのままわんさか生えるままに生やされ愛でられている。英国人は「え?日本ではこれが雑草なの?こんなにかわいいのに?」と言うという。ヨーロッパには雑草がないのではなく、雑草と呼ばないのであった。「モンスーン型は自然に従う」が聞いてあきれる。



気候によって人が規定される、という和辻の主張は一見説得力もある。だが細かく読むとあやしいところや論理の飛躍も多い。厳密性がないのに秩序立っていて筆の勢いもあるものだから、つい騙されるのかもしれない。ただ難解なところもあって、素人がその真偽を判断するのが容易ではない。


そこでちょっと横着をして、直接『風土』のテクストから考えるのではなく『風土』について述べた資料から学ぶ。すると、『風土』には批判が多いのが分かった。『風土』、眉唾であった。



私は別の観点から考えてみた。風土が文化を考える上で重要なのは分かる。

ならばそれは一つの学問体系になっていないのか?そこを調べてみた。


すると「文化地理学」という学問が出てきた。これぞまさに、文化と地理に関する学問であった。広い対象を扱うが、和辻のやったことはその中でも

「文化生態」

というものについての考察に相当する。ならば彼は、「素人」とまでは言わずとも、門外漢だ。

「文化の環境的側面」を考察対象にしている以上、「文化地理学」という文脈で述べるのが、学問的には適切に思われる。


とはいえ、あらゆることを論じるのは哲学本来の姿なのかもしれない。実は「人間学」という哲学の一ジャンルがあり、まさに『風土』はその人間学の講義だ。こっちも学問とは呼べるようだ。

だけどその方法論は、ずいぶんいいかげんなように私には思われてしまう。机上で好きなことを言っていればいいのだから。たとえたまたま合っていることを言っていたとしても、飲み屋でおっさんが述べる持論と同レベルではないか。他の学問領域で解き明かされてきたこととの照らし合わせも実験も欠く言説は、たわごとでしかないのではないか?

数学者は紙と鉛筆と消しゴムしかいらないが、哲学者は消しゴムさえいらない、というジョークを思い出した。アリストテレスの実験・観察を欠いた発言にはずいぶんと騙されてきた。哲学者には要注意である。



文化地理学では「環境決定論」というものが、1920年代にはすでにアメリカで流行っていた。ダーウィンの進化論の影響を受け、人の行動や文化も暮らしている地理的環境に決定される、と考えられたのだ。日本では1934年にその言葉が文献に登場し、1943には『文化地理学』という本が刊行されている。

和辻先生は1928年には『風土』を書き始めているが、これを踏まえていない。また、文化地理学の本にも、和辻先生を引用するものはとりあえず見つけられなかった。『風土』はほとんど相手にされていないようだ。やはり『風土』は文化地理学的には価値がない、言ったもん勝ちの話をしただけであった。

さらには、フランスで環境決定論が修正的に発展し、フェーブルが「環境可能論」というものを提唱している。「環境がこうなら必ず人はこうなる」とまで人間のありかたは規定されないが、まったくされないというほどでもない。環境によって文化がこんな風になる場合もあるかもねー、くらいの理論である。

それを踏まえれば和辻は、たまたまそうなりえたというだけの一つの世界像を、もっともらしく言い切っただけ、と考えられる。



だがちょっと待とう。哲学者に厳しすぎることばかり述べてきたが、「文化地理学」なんて言葉、身近に聞いいたことはなかったじゃないか。それに対して、和辻先生の『風土』はベストセラーだ。うーん…



もう一度、和辻説をまとめてみよう。人は


水が多ければ自然に従う。

水が少なければ自然と戦う。

水がほどよければ自然を従える。


やっぱ美しいや、これ。

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