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つげ義春を読み返す

 先日仲間うちの映画鑑賞界に映画版『ねじ式』を持って行ってしまい、微妙な空気にしてしまった私である。驚いたことに原作をほとんどの人が読んでいたのだが、主催者のわれらがボス夫妻だけが読んでいなかった。いかん。
 お詫びというわけでもないが、つげ漫画への誤解は解いておきたいので、次の映画鑑賞界にはボスに原作をプレゼントすることにした。

 どこでも手に入るというわけではないのがつげ漫画である。とはいえ、いつの時代においてもどこかで手に入れられるのもつげ漫画である。市内でいちばん大きな書店に行ってみたところ、つげ作品が『つげ義春大全』なる形でまとまっていることを知った。
 しかも十六巻には、『ねじ式』『もっきり屋の少女』『やなぎ屋主人』と、映画に使用されたもののうち3作品もが収められている。他にもつげ義春の代表的な作品がこの巻に収まっているのでお得である。この一冊をボスに贈ることに決めた。

 私はというと、つげの作品は全集のほうで揃えているから、この『つげ義春大全』を買う必要もないかと思ったが、抜けはあるようだ。とくに別巻三には『ねじ式』のガロに初出の作品が掲載されている。作者のこだわりで、主人公の顔をほんの数箇所だけ手直ししたらしい。読み比べてみた。

 とくに気になったのが、

「目をとじなさい そうすれば 後へ走っているような気持になるでしょう
 こういう法則は小学校でちゃんと教えているではありませんか」

 と狐の面を被った子が汽車を運転するコマの後である。手直し版では主人公は目を開けていたのだが、初出版では言われた通りに目を閉じていた。
 つげは描き直しをした理由はあまり語りたがらなかったようだが、「ベターッ」っとした感じが気に入らなかったそうだ。ただそのようにタッチを修正しただけではなく、このコマについては表現を変えているわけで、つげマニアとしてはその意図を深読みしたくなる。

『ねじ式』は極めてシュールな作品である。文学的な解釈を深く深くしたくなる魅力に溢れるが、種明かしをすれば、つげがみた夢を漫画にしただけである。「まさかこんな所にメメクラゲがいるとは思わなかった」という書き出しにある「メメクラゲ」という謎の言葉も、作者が「××クラゲ」と書いたものを編集「メメクラゲ」と誤読したというだけである。
 だから作者の「裏の意図」だとか「真意」などというものはあまりないとみたほうがよい。
(ただ精神分析家ならば、夢をそのまま漫画にしたと言われても引き下がらないどころか、むしろ我らが出番であるとばかりに解釈に走ってしまうかもしれないが)

 私はこの作品から、カフカや安部公房の作品を連想する。描かれている世界が非現実的だとかそういうことはどうでもいい。特定の雰囲気がありあまるほどに描かれていることが重要なのだ。それには主人公の心情が、見事なまでに反映している。難しい解釈をするより、その雰囲気を味わうほうが素直な楽しみかただ。

 腕から出血して死の危険が迫る『ねじ式』の主人公の抱く感情は、「焦り」である。さらに、怒り、孤独、絶望と感情が変遷していく。主人公の目にする街や人々がどんなに奇妙奇天烈で了解不能なものであれ、それらに抱く感情については、我々はわかりすぎるほどに主人公に共感できるのだ。それがすべてだ。

 さて先ほど挙げた、主人公が目を閉じているのと開けているのとの違いである。
 その次のコマに注目しよう。大きめのコマである。そこで主人公は、窓の外の景色の中に風鈴を発見する。
「おや風鈴だ」
 風鈴は暗がりの中に小さく浮かび上がるように描かれる。
 漫画が視覚重視のメディアだということを鑑みると、「主人公が音で風鈴の存在に気づいたのだとしても、視覚的に描く必要があった」という説は成り立つ。
 だが私は、絵の大きさとコマの割りかたから、やはり目で見て気づいたのだと考える。
 また、その次のコマで主人公は目をつぶる。
 そこで、おそらくつげは、主人公が風鈴を視覚的に発見するために、また下のコマで目をつぶるのと重複させないために、その前のコマでは目を開けているのがふさわしいと考えたのではないだろうか。私はそう考える。

 いずれにせよ、『ねじ式』が細部までこだわりぬかれて描かれた作品であることは明白だ。つげの漫画は絵がきれいだとは評されないかもしれない。だがそこにはムンクの『叫び』のような、このタッチでしか描けない、いじりようのないおそろしいまでの完成度がある。

 生涯でこの短編を何度読むであろう。『ねじ式』おそるべし。

 

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