ハマギク(小説)

[1]
今日も暑い。テレビでは連日、観測史上1番の・・・と耳にする。外からは今日も蝉の鳴き声が聞こえる。たしか、地上に姿を現してたった1週間の命だったかな。しかし、力強く、懸命に大きな声を出している。必死に生きた証を何かに伝えようとしているのだろうか?だとしたら尊敬に値するな。それに比べて・・・。「ごめんね七海。」そう愛娘の顔を見て静かに呟いた。最後にかける言葉はそれしか思い付かなかった。使い古した安物の扇風機が、弱の風量でカタカタと力なく回っている。力強さの全く無い、弱々しい動きだ。まるで今の私だな。横に寝ている娘に視線を移す。自分の娘ながら可愛いなと思う。本当に可愛い。大好きだよ。七海。ごめんね。・・・本当に・・・ごめん。
この子は、七海は可哀想だ。こんな母親の娘に産まれてしまって。たった3年という短い人生が今終わろうとしている。この許しがたい、無能な母親の手によって。七海にとってはいつものお昼寝の時間なのだ。すやすや眠っている。可愛らしい寝顔だ。よくこの子は大きくなったら美人になるねと言われた。全てではないだろうが、お世辞ではないと思ってしまう。この整ったまだあどけない顔を見ていると。この可愛い顔をずっと見ていると、ためらってしまう。七海・・・七海・・・。駄目だ。早く実行に移そう。・・・大丈夫。大丈夫だよ七海。すぐにお母さんも逝くからね。・・・なんで・・・。本当ならこの子をなに不自由なく楽しい生活で幸せに育ててあげたかった。なのに・・・なのに。あいつが・・・あんな働きもしない、浮気性な夫を持ってしまったばかりに。生活保護さえ受けれない。役所では五体満足の夫がいる為なのが理由で門前払い。あいつが働くわけないのに。私のレジ打ちのパートの給料じゃ家賃と生活費で消えていく。もっと私が強ければ打開策も考えれたかもしれないけれど、夫の浮気と暴力で、気持ちが途切れた。机の上に置いたあの男への恨み辛みがこもった遺書をこの世へ残して、私と七海は天国へと旅立つんだ。
じっと七海の顔を見て、首に両手を回した。これで七海ともお別れだ。両目を閉じ、心を決めた。1つ大きく深呼吸をした。一気に力を入れようとした。しかし、そのときだった。
ドンドンドン。玄関のドアが力強く叩かれた。
誰だ。ドアを開けようと一瞬立ち上がろうとして止めた。七海と旅立つ決意が、誰かと話をしたら揺らいでしまうかもしれない。静かにドアをたたく人物が去っていくのを待とうとした。しかし直ぐにもう一度、ドンドンドンと強い力でドアをたたかれた。今度はその後、声が聞こえてきた。
「おい、いるんだろ。わかってんだ。開けな」その声を聞いて、ハッとした。声の主はすぐにわかった。女性なのにドスのきいた太い声。大分年はいっているはずだが迫力は若い男性を遥かにしのぐ。
「開けないんだったら、扉、叩き壊すよ。」ゆっくりと低い声で脅迫ともとれる言葉を発し、ドアの前から離れない。なんだこの人は。・・・怖い。その感情のみがわたしの心に浮かんだ。はったりではないんだろう。そう感じた。開けるしかない。七海との旅立ちはとりあえずの中断を余儀なくされた。
[2]
「全く暑すぎるだろ。夏といったって今年は半端ないね。地球の気候はどうなっちまってるんだよ。昔はこんなんじゃなかったよ。嫌だね。地球温暖化ってのは。テレビをつけてもたいして面白い番組やってねーしな。まだ夕方の練習まで時間ありすぎだ。やることない高齢未亡人ってのは暇で仕方ないね。」
ってまたいつもと同じような愚痴を吐きながらアパートの二階から下の道を行き交う人の観察をして時間を潰してる。
「おーい。明代さんよ~、今日も暇そうだな。」宅配業者の健二がでかい声で下から話しかけてきた。こいつはいつもテンションが高い。
「うるさいよ。暇じゃないんだよ。休憩中だ。」私を見上げてニヤニヤしながら、「何の休憩だよ。まだこの時間は暇だろ?」こいつはいつも私をからかう。悪気はなくていい奴だから本気で怒る気にはならないが、こうも暑いと鬱陶しくなってくる。
「うるさいね。お前は。人のことからかう暇あったら若者なんだから一生懸命働きな。」健二の周りを歩く人達は私達が喧嘩してると思っているのか、ヒソヒソ話を横の人としながら歩いている。
「はいよ。じゃあまたね。」と言って小走りでトラックに乗り込んだ。無駄話をするくせにいつも忙しそうだ。
それにしても暑い。今日は何度あるんだい。窓をあけ首から上を外に出し、団扇で扇ぐ。冷房が効けば窓を閉めて、涼しい部屋でゆっくり過ごせるのに、我が家のエアコンはポンコツな年期入りだ。私の住むマンションも大分年期が入ってきた。築30年は経ってるね。新築の時に入ってそんなに経つんだね。時の流れは早いというが、本当にそうだよ。やれやれ。嫌になっちゃうね。
そんなことを考えながら道向かえに建つマンションにふと目をやる。このマンションはここよりもちょっと新しいか。ここよりは新しいがけっこう古くなってきたね。建築工事の時はやかましかったな。懐かしいねえ。
どこからともなく蝉の強く鳴く声が耳を刺激する。こいつらの鳴き声ときたら鬱陶しさをさらに強くする。まあ夏を感じさせる1つの風物詩でもあるといえば聞こえはいいが、まー鬱陶しい。全く暑いったらありぁあしないよ。
心のなかでまた、暑さへの愚痴を唱えていると、ふと、向かえのマンションの一室に目が行った。一組の親子。たまに見かける母親と娘。この二人はいつも仲良が良さそうな雰囲気だ。娘の方はいつもニコニコしていて可愛らしい笑顔が印象的なんだよな。その傍らではそんな愛娘を微笑みながら見つめて歩いている母親。この前は近くの道ですれ違ったときに、娘は元気に挨拶をしてきて、母親の方はいつもの感じで、微笑みながら会釈をしてきたな。こちらの気分を和ませてくれる良い親子だよ。最近じゃああいう癒しを与えてくれるような親子はあまり見かけなくなったもんだよ。今日も仲良く何か話でもしてるのかねぇ・・・・・違うね。違う。
「こうしちゃいれねえ。」急いで向かいのマンションへ駆け出した。
[3]
「はい。どちら様でしょう?」誰なのか、それは知っていた。この辺りの人ならほとんどがその存在を認識している。
「開けてくれって言ってんだよ。別に怪しいもんじゃないよ。迎えのマンションに住んでる本田だよ。ちょっと用事があるんだ。」そう話す、その言葉1つ1つに力強さを感じる。何の用事なんだろうか?もしかして、私のしようとしてたことがわかっているのだろうか。まさか。誰にも口外していない。誰にも気付かれていることは絶対にないはず。何とかしてこの場をしのいで実行に移したい。でも開けなければこの人は納得しない。本当にドアを叩き壊されるかもしれない。蛇口からゆっくりと落ちる水滴を見ながら、額に滲んでいる汗を右手で拭った。
「はい。何のご用でしょうか?」そう言いながら恐る恐るドアを開けた。扉の前に立っていたのは勿論あの人だ。話した事はない。交流といえば、軽く挨拶をする程度だ。でもよく知っている。大きな存在感をこの町に与えている人物だ。
彼女はゆっくりと口を開いた。
「別に大した用はないんだけどさ、さっき迎えのマンションから家の中にいるあんたたち親子が見えたんだよ。別に覗いてたわけじゃないよ。窓が開いてたから見えたんだけね・・・・・あんた、何をしようとしてたんだい?」そう言って、ギロッと私を鋭い眼で見上げた。ビクッとして背筋に何か、電流の用な物が走った感覚におそわれた。
「何をって、言われましても、べ、別・・・、に何もしようとは・・・。」上手く言葉を発する事が出来ない。上手く話せる心理状態ではないことは自分でよくわかっている。どうしよう。どうやって切り抜けよう。今まで感じたことがない心理状況だ。背後から聞こえる七海の寝息と、前方から発せられる視線を通してのオーラに挟まれ、心が押し潰されそうだ。
「ちょっと邪魔するよ。」そう言って、急に中へと上がってきた。
「待ってください。あの・・・。」私がそう言葉を何とか絞り出した時にはすでにテーブルの横にいた。
「何だい?これは?」彼女が指差した先にあったのは遺書だった。焦りの気持ちが増した。足の震えと、心臓の強い鼓動がしっかりと感じられているのが分かる。どうしよう。遺書を見られたら全て気付かれてしまう。しかし、封筒には何も書いてない。普通に見たら遺書だとはわからない。
「なんでもないです。ただの通知ですよ。」何とかそう冷静を装い、返した。
「あぁ、そうかい。」と言った次の瞬間、遺書を持ち上げ、封筒の口を破き出した。
「ちょっと、なにするんです。」
「やかましい。動くんじゃないよ。」その言葉が耳に入ったと同時に、体は自由が奪われ、その場から一歩も動くことが出来なかった。
彼女が遺書の内容を読んでいるとき、ただ黙って待っていることしか出来なかった。何分、何秒が過ぎていったかわからない。全く時間の過ぎていく感覚が私の中で皆無となっていた。ただ目の前の女性が、紙に認めた文字に目を通している。私は黙って斜め下に目をやり、部屋の床を見ているだけだった。何とも言えない感情だ。私のしようとしていたことが知れてしまった不安、罪悪感もあるが、とりあえずの死への恐怖から解き放たれた安心感も多少ある。静かな時間が過ぎ、彼女は遺書から私に視線を移した。そして1つ、静かにため息和をついた。そのため息は、静寂から一転する合図のようだ。もう何も考えることは出来なかった。しかし、「なんじゃこりゃ?」と予想だにしていなかった言葉を彼女は軽く一言言っただけだった。彼女は玄関へ向かい、「邪魔したね。」と言いながら靴を履ぎ、「ちょっとついてきな。」と言った。
[4]
やや年期の入った建物の前に来ると彼女は黙ってドアを開けた。七海はまだ私の背中で寝息をたてている。
「入んな。」私たちに背を向けたままそう言うと、彼女は靴を脱ぎ、中へと入っていった。
この建物は私たちの住むアパートの道向かいにある。だからここはどこなのか、勿論知っている。そして地元では有名な場所だ。この町の人間ならほとんどわかるはずだ。
「お、お邪魔します。」初めてここに入る。私たちの生活の場から目と鼻の先にある場所に入るのは何か不思議な感じだった。
建物の奥にある椅子にどかっと腰を下ろし、彼女は下から私をジロッと睨んだ。かと思うと、直後に、ニコッと笑った。
「あんた、毎日ここに娘預けな。」そう軽く話し出した。勿論私は困惑した。
「え、どういうことでしょうか?」何もわからない。
「どういうことでしょうか?そういうことだよ。」全くわからない。どうしていいかわからず、何を言っていいかわからず、ただ黙っていると、彼女はゆっくり話し出した。
「あんた、パートの仕事だけじゃ、生活出来ないんだろ?さっきの安っぽい遺書に書いてあったなぁ。娘いるし。色々弊害あんだろ?だったらここで1日見てあげるからもっと稼いで来いってことだ。365日いつでも見てあげるよ。飯だって食わしてやるから心配するな。あ、大丈夫だよ。金は1銭も取らないよ。そういうことだ。こんなばばあだから娘預けるの心配だろうが、死ぬよりましだろ?なはははは。」
ただただ唖然とするだけだった。口は悪く、嫌みを含ませながらそう言われたが、別にイラッとはしない。というか、この人は急に何を言っているのだろうか。あんなことをした私を罵倒するものとばかり思っていた。訳がわからないまま、返答した。
「いや、そんな。そこまでお世話になるわけにいきません。そこまでしてもらうなんて。」
「あ、何言ってんだよ。遠慮すんなって。つーかよ、また元の通りに戻ったら、死のうとするんだろ?じゃあ駄目だ。あんたが死ぬのは勝手だけどよ、この子可哀想だろ?何も知らずに殺されちまう。こんなにかわいいのによ!」その言葉を聞き、呼吸が乱れるのがわかった。殺される。そのフレーズを聞いてどきっとした。聞き慣れない言葉だ。普段ニュースやドラマでしか聞かない。殺される?私は別に殺したくて一緒に死のうとしたわけじゃない。反論しようとして一瞬顔を上げた。しかし、言葉を発するのを直ぐに止めた。確かにそうだからだ。この子は何も悪くない。ただ、大人たちの、汚い大人たちの勝手な都合で命を落とすところだったんだ。そんなことを考えていたら、とてつもない罪悪感が私の心に流れ込んできた。真っ白なキャンパスに真っ黒な絵の具を撒き散らすが如く。気が付くと、号泣していた。涙が止めどなく流れてくる。もう涙なんか渇れ果てたと思っていたのに。自然と両膝を床につけ、力なく、ただただ泣き続けた。寝ている七海を抱えたまま。
どれくらい泣いただろうか。まだ七海は寝ている。この空間に私の泣き声と、嗚咽のみがしばらく聞こえていた。
少し落ち着いて、静かに呼吸を整えた。その時、左の肩に強い衝撃を感じた。肩を見ると、彼女の右手だった。そして、私の顔の直ぐ近くで少し微笑みながら声を発した。
「あんた、こんなに力強く泣くこと出来るんじゃないか。まだ、力余ってるよ。」そう言って立ち上がり、背伸びをした後、大きくあくびをした。
建物の事務所のソファーに座り、彼女と向かい合い座った時、七海は目を覚ました。
「おー、お嬢ちゃん、起きたかい。おはよう。はは、やっぱり可愛い顔してんじゃないの。ちょっと待ってな。今ジュース持ってきてあげるよ。」そう言って、部屋を出て行った。先程とうって変わって優しい口調だ。少しして御盆に乗ったコーヒーとオレンジジュースを持ち、部屋に戻ってきた。
「さて・・・じぁあ明日からこの子ここに預けな。おい、お嬢ちゃん。七海ちゃんと言ったね。明日からここでお母さん帰ってくるまでおばちゃんと待っていような。大丈夫。おばちゃんけっこう優しいんだぞ。ちょっと恐そうに見えるかもしんないけどな。なはははは。」そう話しかける彼女を見て、七海は不思議そうな顔をしていた。当然だろう。我が家で眠っていて、目を覚ましたら知らない所で、母親と知らない人が一緒にいて、理解出来ないであろうことを話し掛けてくるのだから。
「あんた、それでいいよな?」こちらに向き直り、七海に話し掛ける時の優しさはなく、彼女は力強い口調でそう言った。
「はい。よろしくお願いします。」そう言うしかなかった。しかし、この時、何か吹っ切れた様な感覚にとらわれ、清々しい心境に変わっていた。冷静に考えると、明日からの生活のことを考えると不安になるのだろうが。とりあえず、この人についていこう。今はそんな考えになっていた。
[5]

「七海。行ってくるね。じゃあ明代さん、よろしくお願いします。」

「はいよ。しっかり働いてきな。」

「お母さん、行ってらっしゃい。」

この老舗のボクシングジムに七海を預けるようになって、3週間が経った。南信ボクシングジム。昔からこの地域に存在している、唯一のボクシングジム。地元の人なら誰もが知っているだろう。地元のテレビの取材を何度も受けている。私もテレビで見た記憶がある。

ボクシングジムに娘を預けるというのは若干の抵抗が心の中にあった。七海も最初は戸惑ってウジウジして無口になってしまい、心配したけど、それも少しの間だけだった。ここは明代さんだけではなく、近所の方たちや、明代さんの同世代の仲間が幾人か来てくれて、七海の面倒を見てくれる。特に、青田良恵さんは毎日の様に来てくれる。明代さんの40年来の友人で、子供が大好きらしく、とても七海のことを親身に見てくれている。

私は仕事をパートから正社員に変えた。店長に相談したところ、元々正社員を募集していたこともあって、歓迎してくれた。多少労働時間が増え、業務内容もレジ打ちだけでなく様々なことをこなさなくてはならなくて、初めの頃は戸惑いもあったが、その分提示された給料は以前より勿論増えていた。生活に余裕が出来るだろうからやりがいも感じる。生活が一変した。

この生活に変わってから1日があっという間に過ぎていく。それだけ充実しているということなのだろうか。今日も気付くとお昼休憩。まだ正社員になり日も浅い為、多少疲れがたまり、この時間は少しだけぐったりしてしまう。でも、同僚からは疲れている様子とは真逆の事を言われる。今日も、「梢ってさ、本当最近なんか様子変わったよね。生き生きしてるっていうかさ、急に正社員になるし、何かいいことあった?もしかして、彼氏出来たとか?旦那がいるのにこいつー。」今日は涼子が最近の私の様子を茶化してくる。旦那の悪事は周りには話していない。私はごく一般的な妻と思われているのだろう。

「そんなんじゃないよ。別に今までと変わらない。七海の為にもっと頑張んなきゃって思って、やってるだけだよ。」私がそう言うと、ふーんとだけ返し、弁当の唐揚げを美味しそうに食べながら、涼子は全く違う話をしだした。本当に涼子はよく喋る。


西の空に広がるオレンジ色の空を眺めながらジムへと向かう。両手を空に突き上げ伸びをする。最近この動作が癖になってきたのかな。仕事帰りに思わずやってしまう。でもこの動作をすると、なんか仕事やったぞーという、充実感が込み上げてくる。・・・やっと吹っ切れた気持ちに成れてきた。少し前まで、まだ心の中に存在していた罪悪感。いや、まだある。そして、決して忘れてはならないのだろう。七海の命を奪おうとしてしまった愚かな自分。もう過去の事だと開き直ることは絶対に駄目だ。

「お母さーん、おかえり。」ジムに着くとここの愛犬のアリと戯れながら、七海が大きく手を振っている。ジムでは今日も、幾人かの人達が、汗を流していた。スリッパに履き替え、中へと入って行った。

「ただいま。いい子にしてた?みんなに迷惑かけてない?」七海の頭を撫でながらそう聞くと、「うん。大丈夫だよ。」そう笑顔で返してくる。この笑顔を見ると、まだ心が若干痛む様な気持ちに苛まれる。

「とってもいい子にしてたな。なぁ七海。」ジムの奥からゆっくりと明代さんが姿を現した。

「はい、お疲れさん。」そう言って定期購入している青汁をコップについで渡してくれた。明代さんは健康にかなり気を使っている。だから、常に元気なのも納得出来る。

「で、どうだい?梢。仕事の方は順調か?」明代さんは知り合ってからすぐ私のことを梢と呼んでいる。私を近い距離に感じさせてくれているんだと、暖かい気持ちになる。

「大分、正社員の仕事、慣れてきました。これも、明代さん達のおかげです。ありがとうございます。」

「やめなよ、そういうの。あたしゃね、人に改めてお礼言われるのが苦手なんだよ。」そう言って顔を赤くしている。豪快さの中に、照れ屋なところがある。本当、変わった人だ。初めて会ったときのあの恐怖の女性と、こうして接しているなんて、なんか不思議な感じだ。

「あはは。わかりました。でも本当に感謝です。あ、あんまり言わない方がいいですね。それじゃあそろそろ行きます。」

「そうだよ。あんまり言わなくていいんだ。よし、帰って七海としっかりご飯食べて明日も気張りな。じゃあ七海、また明日な。」そう言って七海の頭を撫でた。七海ももうすっかり慣れた笑顔を見せて、「うん」と頷いた。

「じゃあまた明日よろしくお願いします。」

「ばいばーい。」私と七海がそう挨拶すると、明代さんと練習している数名がこちらを見て、手を振ってくれた。

「はいよー。また明日な。」

七海と手を繋いで向かいの我が家へ歩を進める。

[6]

「明代おばちゃん、どう?かっこいい?」七海がボクサーの真似をしてサンドバッグを叩いている。3歳のこんな無邪気な女の子が1人いると、男臭いジムにも華ってものを感じるね。

「かっこいいよ。なあ!明代。七海ちゃんは才能があるんじゃないか?」そう言って近所の腐れ縁のばばあどもがワイワイ騒いでいる。

「ああ、かっこいいよ。でも、七海は可愛いからな。ボクシングして、顔殴られて、目でも腫れちまったら大変だ。ははははは。」そんなたわいもない会話をいつもしている。平和ってーもんだ。

ガチャッ。ゆっくりとドアが開いた。「お願いします。」静かに挨拶をして入ってくる男。龍二だ。このジム唯一のプロ。入ってくるなり鋭い視線で周りを見回す。殺気立つ雰囲気が一気にジムを覆う。

「おい。お前さ、入ってくる時いつも何か恐いんだよ。もっとスポーツマンぽく元気に入ってこれないのかい?」そう言うと、「あ、はい。」とだけぼそっと呟いた。

愛想はないけど、こいつは、ザ、ボクサーだ。古き時代の熱い拳闘家像を思わせる。ストイック。その言葉が当てはまる。昔はわんさかプロがいたけど今はこいつだけだ。昨今は根性ある若者ってのが随分いなくなっちまった。少し前までは眼をぎらつかせて、強さに貪欲な奴等ばっかだったのにな。そんな時代ってことか。その点こいつはハングリー精神の塊みたいな男だ。まあ、色々あるんだが。しかし、いつもいつも愛想が無いんだよな。

「なんだい、なんだい龍二、いつも元気無いような声で入ってくるね。もっとシャキッとしな。お前、あと3ヶ月したらデビュー戦だよ。わかってるのか?勝てないよ。そんなんじゃ。」いつもの様に発破をかけてやるが、こいつといったら、「いや、大丈夫ですよ。勝ちます。」と素っ気ない返しをしやがる。こんな感じでマイペース。でも、内に秘めた闘志は感じてるから大丈夫だろう。

「お兄ちゃん、頑張ってね。」

「・・・。」

「おいおいおい、何も言わんのかい。何か言っておやりよ。こんな小さな子が応援してくれてんだぞ。」

「練習始めます。」・・・、本当、愛想がないね。まあいいか。

「七海、愛想がないお兄ちゃんだね。まあ悪い人じゃないんだよ。」そう言って頭をポンポンといつもの様に撫でるとニコッと可愛い笑顔を見せてくれる。この笑顔には癒されるね。私だけじゃなくここに来ているみんな同じなんじゃないかな。この癒しは金じゃあ買えないね。

「なあ七海。ここはどうだい?楽しいか?」そう七海に聞くと

「うん。」とこれまた金じゃあ買えない笑顔でそう返してきた。

「すごーく楽しい。」そう言って愛犬のアリをぎゅっと抱きしめた。

「家とこことどっちが楽しい?」何気なくそう聞いてみると、うーんと言って子供ながらに真剣そうに考えだした。

「どっちも。どっちも楽しいよ。」またニコッと笑う。

「そうか。そうか。」そう言って頭を撫でていると、「おーう。元気かー?」

いつものように良恵がやって来た。

「元気かーってあんた2日前に会ったばかりだろ。」

「あれー、そうだったか?まあいいじゃねえか。明代、何か冷たいものはないかい?」

「あるよ。ジムの前に自動販売機あんだろ。」

「何だよ何だよ。金払えってか。ケチだねー。」たわいもない会話を挟み、ジムのソファーに座り休んでいくのが良恵のいつものパターンだ。

「お、七海元気かい?」良恵は大の子供好きだ。七海の顔を見るとすぐニコニコした顔になる。私と喋っているときとは大違いだ。

「おはよー。」そう挨拶する七海の横へ座り、話し出す。

「ここはどうだい?楽しい?」

「うん。楽しい。」そう七海の返事を聞くと、良恵はにこーっと笑った。

「そうかい。そうかい。あ、これあげる。美味しいよ。」とポケットから飴を2つ取り出し、七海に渡した。

「ありがとー。」そう言って受け取る。

「おいおい、何あげてんだい。勝手なことするんじゃないよ。」そう注意すると、今まで七海に見せていた笑顔とは全く違う表情で、「うるさいばばあだね。飴くらいいいだろ。お前、この子の親か?なぁ七海。」そう言って七海の肩を抱く。

「親代わりだ。このジムで預かっている時は私が保護者みたいなもんなんだよ。全く。変なもんあげて、虫歯になったらどうすんだい。あとね、ばばあだの何だのって言葉を使うんじゃないよ。七海が覚えちまうだろ。」そう捲し立ててやると、「おー怖っ。七海、怖いねー。」と言って七海に向かって舌を出しておどけて見せている。七海は笑って私たちの会話を聞いている。まだ3歳だ。あまり意味は理解できていないだろうけど、こんなばばあどもの会話でも、楽しい雰囲気をこの子には与えてあげたい。もう少しでこの子はこの世からいなくなるところだった。梢を責めることは出来ないが、あそこまでいくには悲しい思いや、辛い思いを子供なりにしたんじゃないかね。

「ハイハイ。ごめんなさいね。」そう良恵が言って、一通りのやり取りは終了した。

「そう言えば七海、お父さんって何してんだい?」何気なく聞いた良恵の言葉に、あ、と心の中で思わず呟く。良恵は知らない。話していなかった。七海の父親のことを。確かに何も知らなかったら思い付くであろう当然の疑問だ。良恵は悪くはないが、七海にとっては聞かれたくないことだろう。何て誤魔化そうか考えたが、何と言っていいか、瞬時に言葉が出ない。心の中で焦りを感じていると、「わかんない。だってずっとおうちに帰って来てないもん。んー。お母さん、もうじき帰ってくるかなー?」そう言って軽く答えた?そうか。この子はあまり父親に対して、興味を持っていないのかもしれない。長い間父親が帰って来てないというのは本当なんだろうな。数ヵ月前に見た、梢の遺書が頭に浮かんだ。

「さあ、もうじきお母さん帰ってくるよ。もう少しおばちゃんと待っていような。」そう言って七海を抱き上げると、「うん」と言って笑顔を見せた。世の中は全てが恵まれた環境で生活出来てる子供ばかりじゃあないのはわかる。仕方がないことだ。でもこんな小さな子たちには全て両親の愛ってもんを与えられてほしいもんだ。っていうか、この子の父親と梢はこれからどうしていくんだろうね。ちょっと梢には聞いてみるか。大きなお世話かもしれないが、ここまで関わってんだ。ちょっとぐらい聞いてもバチは当たらないだろう。

「おーい。おーい。」外から誰かが叫んでいる。

「誰だい?うるさいね。」

「明代。春夫だよ。」そう言って良恵が、やれやれといった顔をしている。なんだよ。春夫か。近所に住む柳沢春夫だ。私とは幼なじみ。もう何十年もの付き合いだ。良い奴だが少し前から認知症の症状が出てきちまっている。

「何だよ春夫。うるさいね。」ジムの窓を開け、注意すると、

「おーう。明代。俺だよ。春夫だよ。」

「わかってるよ。今春夫って呼んだじゃねえか。このボケジジイが。」いつもこんな感じのやり取りで私と春夫の会話は始まる。

「で、春夫。さっき何か言おうとしてただろ?」ジムの窓越しに何気ない会話は続いた。

「ん、何だったっけな?あれ・・・。」やっぱりこんな返しか。最近はいつもこうだ。

「わかった、わかった。春夫、もういいよ。」そう言うと、思い出したのだろう。斜め上に顔を持ち上げ、あー、と大きな声を出した。

「そうだ。そうだ。さっき怪しい奴見たんだった。」わざとらしく右拳で開いた左手を打った。

「ん、怪しい奴?何だい?どういうことだ?どこで見たんだよ?」

「えーと、どこだっけ?あ、そこだそこだ。ジュース売ってる機械の影から見てたんだ。ガキんちょだ。じーっとここを見てたから、何してんだって言ったら、何でもないって言ってどっかへ行っちまった。」

たまにここを見て、時間潰ししている奴はいる。春夫が言ってるのもそういう奴の中の1人だろう。

「そうかい。わかった。でも春夫。どんな奴かもわかんないのに声かけるんじゃないよ。何されるかわかんないからね。」

「大丈夫だ。俺は1番偉いんだからどんな奴でも土下座して去ってくよ。土下座。」また訳の分からないことを言い出した。これが始まると話が長くなる。

「わかった。わかった。春夫、早く帰りな。家族が心配するだろ。」そう言うと、ジムの中を見回し、

「あ、まだいる。人殺しの息子。明代、まだ世話してんのか?いやいや、お人好しだね。」こいつはここに来るとちょくちょくその言葉を口にする。龍二にはあまり聞かせたくない。昔の話だ。

「春夫。この前もその話しはするなって言っただろ。」

「だって人殺しの息子だろー。なー、なー。」

「だから止めろよ。春夫、いい加減にしないとぶん殴るよ。」こいつは昔からお調子者だ。認知症を発症してからそこが更に強くなった気がする。

「おー、怖いですねー。退散、退散。」ぶつぶつ言いながら春夫は帰って言った。

[7]

人殺しの息子?あの龍二君という選手が?・・・、別に盗み聞きするつもりはなかった。仕事を終えて、七海を迎えに来たら、明代さんが、春夫さんと話していた。自然と耳に入ってしまった。春夫さんは明代さんにきつく言われ、とぼとぼ帰っていくところだった。夕焼け空を背景にして帰る春夫さんからは、哀愁の雰囲気が見てとれる。春夫さんが明代さんに怒られているところはたまに目にする。それにしても、どういうことなんだろう。あまり、詮索しない方が良いのだろうけど、七海を預けている身だ。聞いておいた方が良い。聞いておくべきだ。

「只今帰りました。ありがとうございます。」

「おー、梢。お疲れさん。」いつものように、明るく迎え入れてくれた。ちょっと今の会話の内容を聞くには、あまり適さない雰囲気だ。

「お母さんお帰り。」そう言って七海が私の右足に嬉しそうにしがみついてきた。ますます聞きづらい。

「七海、ただいま。・・・あの・・・、明代さん、ちょっとお聞きしたいことがあるんですが。」そう切り出すと、「なんだい?改まって。どうした?何かあったのか?」といつも話している感じそのままに返してきた。

「ちょっとここでは。」

「なんだいなんだい。わかった。ちょっと事務室入んな。七海、ちょっとここでアリと遊んでな。」そう言われ、はーいと言って七海はアリの所へ走って行った。

「で、なんだい?話ってのは?」事務室の椅子に腰掛けた明代さんは言った。

「ちょっと気になったことがあって、あの・・・、さっきジムに着いたとき、耳にしてしまいまして。」私の話を聞いた明代さんはちょっと考えている様子だったが、少しして、「ああ、さっきの春夫と私の会話かい?あいつが物騒な事を口にしてたことだろ?」と、私が聞く前に答えてくれた。

「はい。・・・、一体どういうことなんだろうと思って。」明代さんは表情1つ変えずに、「あんな話しは気にすることじゃないよ。あのボケジジイが、よく訳のわかんないこと言ってるだけだ。ははははは。」そう言って白い歯を出して笑った。本当にそれだけなのだろうか?春夫さんは確かに認知症だが、全て実際と違うことを言っている様には感じない。でもあんまり詮索し過ぎてもしつこいだけかな。まだ知り合って間もないし、それに私は明代さんのことを信頼してる。その時ふと思い出した。春夫さんが言っていたもう1つのこと。

「あの、明代さん。今の話しとは別ので、春夫さんが言っていたジムを見ていた怪しい人って・・・。そういうことはよくあるんですか?」それを聞くと、明代さんは両腕を組み、うーんと考えた後、「あんまりないねえ。通りすがりに見ていく奴はいるけど、ここをまじまじ見ていく奴は稀だ。やっぱ七海預けてるから心配かい?」私ははい、と答えると、明代さんは私の左肩をぽんと叩き、「大丈夫だ。心配するな。私がしっかり見ててあげるからよ。」そう言ってニコッと笑った。

[8]

「毎度。ありがとうございました。また御待ちしてます。」いつも来てくれる近所の保険会社に勤める3人組のサラリーマンのお客さんが帰っていく。そして交互に新しいお客さんが2名。

「いらっしゃいませ。すぐご案内しますね。少々お待ち下さい。」昼食の時間帯は、めまいがするほど忙しい。後、30分くらいは続くだろう。有難いことだ。外は今日も晴天で暑い。雨の日と比べると客足は雲泥の差だ。

しばらくして、先程までのあわただしさからうって変わった様に店内は静かになった。相変わらず、外からはギラギラと照り付ける太陽によって生まれる熱気がドアが開く度に、店内に入り込んでくる。そういえば、あの日もこんな天気だったな。

もう大分前のことになってしまった。父と無言の再会となったあの日。墓石には父の名前。知人から連絡をもらったときはまだ信じられなかった。ただただ、嘘であってほしい。しかし墓石に刻まれた父の名前があった。その時はまだ現実を受け入れることが出来なかった。あの場にどのくらいの時間いたのだろう。ただ父の名前をじっと見ていた。気が付くと、涙が頬を伝った。それをかわきりに、次から次へと、ダムが決壊したかの如く、涙が溢れ出てきた。後悔と自責の念が心の中全体に押し寄せてきた。もう父には会うことが出来ない。謝ることも、一緒に笑い合うことも出来ない。全ては私のせいだった。強がって家を出た時はそんな感情はなかった。でも、時が経つにつれて、どんどん両親への申し訳ない気持ちが沸き上がってきた。どれくらいお墓の前にいただろうか。私は立ち上がり、父の名前をしっかり目に焼き付け、涙を拭った。そして、父に一礼してお墓を後にした。

あれから5年程経つな。2人の前から姿を消してから産まれた優一も、もう17歳か。時の流れの早さを感じる。父と母にとって唯一の孫。彼には数日前、2人の存在の話をした。話すべきか少し躊躇したが、やはり話すべきだと思った。

優一は初めは驚いていた。そんな話は今までしたことがなかった。優一からも聞かれたことはなかった。心の中では気になってはいたんだろうけど。あの子は無口なくせに、色々考える子だから。でも、その2日後に自分からジムに行ったと聞かされた時は少し驚いた。何しに行ったのか聞いても、どんな人か見てみたかったとしか言わなかった。ただジムから少し離れた所で様子を見ていただけだと。それだけでいいのだろうか?話したりしたくはないのかな?もし、孫だと告げて、家族としてつきあっていきたいと思っているのなら・・・。

ガラガラ。店のドアが開く。

「いらっしゃ、あ、優一。」額に若干の汗をかき、優一が帰って来た。

「おかえり。暑かったでしょ?」うんと言いながら、鞄を置き、うでまくりをして流しへと移動してきた。いつも学校から帰ると、店を手伝ってくれる。友達と遊んでくればいいのにと思う時もあるけど、物静かな性格だし、そういうのはあまり好きではないのだろう。別に友達がいないというよりはことはないのだろう。たまにここに友達を連れてくる。でも、大勢でわいわい遊ぶのはあまり好きなタイプではない。

黙々と皿洗いをする優一は、段々父親に似てきた。優一の父親で、私の夫の信一は5年前、他界した。膵臓癌で、病気が見つかった時には末期で、もう手遅れだった。優一が小学校6年生で私が31歳。あれからもう5年か。父の他界した時期と近かったこともあり、けっこう精神的に辛かった。でも優一もいるし、私がしっかりしなきゃと強気で乗り越えた。散々泣いていた小学生の優一も、今は高校2年生で、私は信一の年を越えた。5年間、優一にとっての家族は私だけだった。祖父と祖母の話を聞いて、優一は何を考えたんだろう。初めて聞く、私以外の家族の話を聞いて。

「優一、ちょっと。」皿洗いも一段落付いたタイミングで、優一を呼んだ。オレンジ色の夕焼けの光が射し込む店のテーブルに腰掛けた。優一も手を拭き、私の前に腰掛けた。

「ねえ、あれからおばあちゃんのジムには行った?」何となく聞いてみた。すると、少しの間をおいて、うん、とだけ呟いた。斜め下を向いて、若干申し訳なさそうに。私は特に責める気はなかった。この子はこの子なりに何か心に思うところがあるのだろう。

「そうか・・・。別にいいんだよ。実の家族を見たいっていうのは悪いことじゃない。私はただ、、、優一がどうしたいかが知りたいんだ。孫だと打ち明けて、家族としてつきあっていきたいのか・・・。」そこまで言うと急に優一が、私の話を寸断し、「違うよ、違う。ただ・・・、ただちょっと見てみたかっただけ。」大きな声でそう答えた。

「そうか。ごめん。わかった。」自然と「ごめん」という言葉が出た。どういう意味のごめんなのだろう。自分でもはっきりわからない。急にこんなことを聞いてのごめんなのか。血の繋がった家族がいることを長い間黙っていたことへのごめんなのか。母との今のこの状況をつくってしまったことへのごめんなのか。優一はどのように受け止めたのだろうか。

「ちょっと部屋行ってくる。」そう言って2階の自室へと上がって行った。おそらく自分でもどうしていきたいか決まっていないのだろう。まだ母の存在を話してから数日だ。あの子なりに色々考えているのか。

あの子に対しての罪悪感は前からずっと抱き続けてきた。両親とだけの生活より、近くに祖父、祖母という存在がいた方が、楽しかったんじゃないか。19であの子を身籠り、父に大目玉をくらって家を出ていなかったらどうなっていたんだろう。あの時はとっくに反抗期は終わっていたのに、なんだかむきになってしまって、そのまま家を出て、信一の家で過ごすようになった。信一は許しをもらおうと言ったか、私は拒み続けた。もしあの時、私が考えを改めていたら。そして父が許してくれて、今と全く違う生活をしていたら・・・。

自然と首を大きく振りながら立ち上がった。今さら過ぎたことを考えても仕方ない。家を出てから私と信一はがむしゃらに働いた。何とか店を軌道に載せ、生活を楽にするために。子育てと店。遊んでる暇は全くなかった。本当によく働いたな。時折信一は私の前で涙を流した。ごめん、ごめんと何度も言った。その度に私は、謝らないで。今幸せよと、彼に伝えた。本心だった。最高に優しい彼と、可愛い息子に囲まれて、こんな幸せはないと思った。優雅に生活して、遊んで、贅沢をするだけが幸せじゃない。幸せの指標は自分の心の中にあると私は思っている。彼が私の心情をくみ取ってくれていたかは今となっては確かめようがないのだけど。そうしてきたことで、生活は何とかやっていけるようになったが、あの子には寂しい思いも何度もさせたと思う。愛情は注いできたつもりだけど、忙しい日々のなかで寂しい思いはきっと沢山させた。父と母がいたらそんな思いはさせただろうか?静まりかえった店内でそんなことを1人で考えた。

[9]

1週間ぶりだ。またここへ来てしまった。毎回体調が悪いと嘘をついて、学校を早退してまで来てしまう。ボクシングジムから数十メートル離れた少し高台のこの場所に。何だか馴染みが出てきたのは、何回か来ていて、それが長時間だからだろう。

何度かすぐ近くの販売機の所に行って見ていたけど、人通りがあるし、流石にあやしまれると思う。今日はあの人の姿はない。あの・・・人。僕の、おばあちゃん。まだ実感が湧かない。そりゃそうだよな。少し前にお母さんから告げられて、こうして姿だけ見ていても話したこともないし。今までここで見てきて、けっこう元気で、気の強そうな人だというのはわかった。いつも、大きな声で指導している。でも怒鳴り散らしたりしているわけじゃなく、嫌な感じは受けない。それに、いつも何人かの小学生達が楽しそうに遊んでいる。何故だかはわからないけど、ちょくちょくあの人は笑顔で話し掛けてる。僕のおばあちゃんは優しい人なのだろうか。そして・・・、あの子は誰なんだ?あの女の子。まだ2歳か3歳なんじゃないのだろうか?いつもいて、あの人の友達みたいな人達や、練習している人達に世話してもらっている。誰かの子供かな?お母さんは1人っ子みたいだから僕の従兄弟ではないはずだ。

ここに来てあのジムを見ていると、あの中の事が気になる。僕のおばあちゃんはどんな人で、どういう雰囲気の中で周りの人と、時を過ごしているのか?色々気になるけど、結局は僕のおばあちゃんがどんな人なのか、1番はそこが気になるんだろうな。

今日はあの人がまだ帰って来てないみたいだから、もう少し見てから帰ろう。そう思った、その時だった。

「おい、何してんだい?」その声がした瞬間、首に強い力を感じた。あっという間に後方へ引っ張られた。

「うわっ。」気が付くと、天を見上げて、倒れていた。目の前に晴天の青空が広がり、青空と僕の間に、ゆっくりと1人の人物の顔が現れた。あの・・・人・・・お、おばあちゃんだ。

「何してんだい?あんた誰だ?」いつの間にか僕に馬乗りで乗っかりながらそう言った。そしてすぐ僕の襟首を掴んだまま立ち上がり、僕も強引に立たされた。どうしよう。何て言えば良いのだろうか。自分が誰か正直に言うべきなのだろうか。頭がパニック状態だ。何にも思い付かない。どうしよう。心臓がバクバクしているのがしっかり分かる。おどおどしていると、また引っ張られた。

「ちょっとこっち来な。」そう言って歩きだした。今質問したのに、答えは求めてないのか?

「入んな。」そう言って、ジムの戸を明け、中に入っていく。襟首は掴んだままだから、入れと指示したけど、僕に行動の選択肢は無い。

そしてソファーに強引に座らされた。ジムの中の人達は何事かという表情でみんなこっちを見てくる。いつも少し離れて見ていた風景の中に急に入り込んだ。何か不思議な感じがする。おばあちゃんは僕の前に立ち、見下ろしながら話し出した。

「あんたか?最近春夫の奴が言ってたあやしい奴ってのは?」そういきなり切り出した。誰かに見られていたんだろう。確かにあやしいと思う。

「あんた、何者だい?何でこそこそここを監視してんだよ?」腕を組み、睨みながらそう聞いてきた。実の祖母に何者だと聞かれるとは。なかなかあることではないだろうな。どうしよう。さっきよりは大分落ち着いてきたがまだ若干困惑している。

「別に・・・名乗るほどの者ではありません。」思わずそんな言葉が出た。すると、おばあちゃんは立ち上がり、僕の前に来て、襟首を掴み、顔を僕の目の前まで持ってきた。今日はよく首回りを掴まれる。

「おい、おい、おい。あんたが名乗らないと、こっちがよくないんだよ。誰だか知らねー奴に、ジムの中じろじろ見られるのはあんまり気分の良いもんじゃないからね。」そう言って首から手を離した。誰だか知らないか。・・・、孫なんだけどな。そう心の中で思いながら、何て答えようか考えた。名字を言ったら分かってしまうのかな。おばあちゃんはお父さんの名字は知っているのだろうか。だとしたら、僕が孫ということが分かってしまうかもしれない。どうしよう。何て答えればいいのだろうか?

「何で答えないんだよ。早く答えな。」恐い顔で急かしてくる。

「ゆ、優一です。」おもわずそう答えた。

「優一か。上は?名字は何て言うんだ?」そうだよな。やっぱ聞かれるよな。でも・・・、そんなことを考えながら出た返事が、「優一で、、、す。」仮の名字を名乗ればこの場を凌げたかもしれないけど、何も思い付かない。それを聞いて、おばあちゃんは僕の顔の前に、自分の顔を近付け、「それだけかい?」と、ぼそっと言った。このまま問い詰められるのだろうか。おばあちゃんの鋭い目を見ていると、ますます同様してしまう。しかし、意外にもそれほど問い詰めてはこなかった。

「まあいいや。優一って言うのか。はいよ。お前さ、学校は?」と聞いてきた。

「少し、早めに学校切り上げて見に来てました。」ここは素直に答えた。

「ふーん。そうかい。で、目的は?」目的?・・・まあそうか。それは聞かれるよな。それが1番聞きたいことだよな。どうしよう。どうしよう。

「えーと・・・。目的は特にありません。ただ、ボクシングジムってどういう感じなんだろうっていう好奇心で見に来てました。本当それだけです。すみません。」何とかそう言葉を絞り出した。するとおばあちゃんは、両腕を組みながら、

「ほおー。そうか。ボクシングを始めたいってことだね。」真剣な顔で、そう答え、2、3度頷いた。ちょ、ちょ、ちょ、え、何でそうとらえる。冗談じゃないよ。僕はボクシングに興味はないよ。お母さんからおばあちゃんと亡くなったおじいちゃんの話は聞いたことがある。何かのチャンピオンだったおじいちゃんと、ボクシングジムを経営しているおばあちゃん。その血を引く僕なら、ボクシングに興味を持ちそうだけど、そんな気持ちは一切無い。テレビで格闘技を見ても興味も何も湧かない。

「すみません。すみません。そういうことではないんです。」慌てて何とかそう答えた。

「何でだよ?今好奇心でボクシングジム見に来たって言ったろ?」腑に落ちないと言った表情で頭上高く、僕に強い言葉を落とし込んでくる。ジムにいる人達はチラチラ僕たちのやり取りを伺い、見てくるのがわかる。さあ、どうすればいい?どう乗り切ろう?無事帰れるのかな?ソファーの横に寝そべっている犬が大きくあくびをした。今、この場であくびが出来るこの犬を羨ましいと思った。人生で犬を羨むのは初めてのことだろう。

「ちょっとどういう所か、見てみたかっただけなんです。やりたいとかじゃなくて、ええと、ちょっと上手く説明出来ないんですけど。」体の所々から汗が滲み出てくるのが分かる。

「おい。」急にまた僕の襟首を掴み、おばあちゃんは顔を近付けた。

「あんた、本当にそれだけの理由何だろうね?」そう言うと、ぐっと、手に力が入れられた。

「・・・、はい。ほ、本当です。」そう返すと、力の入った手から、解放された。

「よーし、わかった。あんた、学校が終わってからここのジムを見学してたってことは、その時間は暇なのか?それとも時間があるときだけ来てたのかい?」とおばあちゃんは僕の学校が終わってからのことを聞いてきた。何でだろうか。

「・・・、毎日時間があるわけではないのですが、特に部活とかをしているわけではないので、けっこう時間はあります。」訳もわからずそう答えた。

「そうか。じゃあ、学校終わってからここへ来な。何か用事あるときはいいからさ。」そう軽い口調で言った。え、どういうこと?何も理解出来ず、目を開き返事もしないままおばあちゃんの顔を見た。おばあちゃんは直ぐ話を続けた。

「何不思議そうな顔で見てんだい。学校終わって時間があるんならここへ来いって言ってるだけだろ。」言ってるだけって、何も理解出来ない。さっき、ボクシングしようという気持ちはないと伝えたはずだけど、何をしにここへ来いっていうんだ。まさか強引にボクシングを教えられるのか?

それから数秒して、僕の気持ちを見透かしたかの様に、おばあちゃんは話を続けた。

「あんた、ここへ呼ばれて何されるかって今考えてんだろ?」その通りですと心の中で呟いた。

「心配するんじゃないよ。へんなことをさせるために来いって言ってるんじゃないよ。」じゃあ、何のために?さっきまで怪しんでいた存在にここに来るようにと言い出したおばあちゃんの考えが全く理解出来ない。安心していいのか、それともそうではないのか。見当が付かないまま、さっきから今まで感じたことのない空気の中で、時間だけが過ぎていた。そしておばあちゃんは何事もない用な軽い感じで言葉を繋いだ。

「ここへ来て、子守の手伝いだ。ほら、この子だ。七海。3歳だ。可愛いだろ。」

「子守・・・、ですか。」そう言うしか言葉が出てこなかった。

「そうだよ。色々あって日中この子預かってんだ。私や、ツレ達で見てんだけど、手薄になるときもあっからあんた居てくれれば、都合がいい。給料払う余裕はねえけど、そのうち飯でもご馳走してやっからよ。七海。このお兄ちゃん、手伝いに来てくれるってさ。」そう言って女の子の頭を撫でた。

「さあ、挨拶しな。七海。」

「こんにちわ。」女の子は笑顔でそう言ってきた。

「こんにちわ。」僕はそう言った後、もう決まったかの様に話すおばあちゃんに、気になることを聞いてみた。

「あのー。ちょっと待って下さい。信じて、だ、大丈夫なんですか?」

「は?何を?」

「さっき会ったばかりなのに、こ、こんな小さなお嬢さんのお世話を僕にさせるって。僕がどん、、、な人間か、まだわからないと思うんですけど。」と上手く言葉も出ない中で、控え目に聞いてみた。当然の質問だ。どう考えてもまだ怪しまれていると思っていた。いや、まだ怪しんでいるかもしれない。おばあちゃんには何かあっての考えなのだろうか。すると、直ぐに返事が返ってきた。

「確かにさっき会ったばかりで、どこの馬の骨ともわかんないガキんちょだが、まあ悪いやつには見えねえ。こちとら伊達に長い間人間やってきた訳じゃねえからよ、少しぐらいは人を見る目くらい養われてるよ。大丈夫だな。ということでよろしく。」とさらっと言われた。どうやら決定事項らしい。

「よ、よろしくお願いします。」と言うしかなかった。

[10]

「おいおい、お前たち、もっと動くんだよ。前後左右に。龍二、ボディから上への返しの後は直ぐに立ち位置変えるか、連打かだよ。めちゃくちゃ接近してんだからつった立ってんじゃないよ。スパーリングと思わず、試合だと思ってやるんだよ。もうじき試合なんだよ。わかってんのかい?」

「・・・はい。」ビーーー。

「はーい、終了。龍二、1ラウンド後にミットだ。準備しな。」今日も相変わらず明代さんの元気のいい声がジムに響き渡っている。今日は俺を入れて5人か。今日も何人か小学生のガキんちょが遊んでるけど、いつもの風景だ。全く気にならない。ちょっと前から来ている女の子もなんだか大分ここが慣れてきた様だな。いつも元気に挨拶してくるけど、俺は素っ気ない返事しか返さない。あまり和気あいあいってのが得意じゃない。それでもいつも変わらず挨拶してきやがる。俺は、ああっていう返事しかしないからいつも明代さんに注意を受ける。俺が笑顔で挨拶交わすキャラでもないって明代さんもわかってんだろうけど、いつも口うるさいんだよな。まあいいか。

そして、もう1人。あいつは誰なんだ?ここ2、3日いつも来てるあの男。信濃西高校の制服着ていつもここへ来ているから勿論高校生なのだろう。ジムのこと色々手伝って、手際よく掃除して、あの女の子の面倒見てやがる。で、暇な時は、じろじろジムの中見回したり、じーっと明代さん見たりしている。何か変な奴だな。全然、ボクシングやる支度せず、ずっと制服でいるから選手希望や、練習生としてここへ来てるわけでもなさそうだ。明代さんが雇った手伝い人か?高校生を?その可能性は低いか。じゃあ、ただのボクシングマニアか、明代さんの知り合い?孫?でも孫がいるなんて聞いたことないな。それどころか子供いるってのも聞いたことないぞ。一体誰だ?あいつは。

「おい、龍二。何ボーっとしてんだよ。早くリング上がりな。」

「・・・はい。」まあどうでもいいか。集中しなきゃな。


ビーー。

「はい、オッケー。さっきはボーっとしてたけどなかなかいい出来じゃないか。きれてるよ。」

「はい。どーも。」珍しく明代さんから誉められた。コンディションは良い感じなのかもな。この調子で試合まで行ければいいんだけど。

ガラガラガラ。インターバル中に窓が開く音と共に、嫌な顔が俺の目に入った。

「おー、若人達よ。本日も頑張ってらっしゃるのー。」窓の縁に両肘を突き、上から目線でそう言うと、ニヤニヤしながらジムの中を見回した。

「おい、春夫。何の用事だい?今練習で忙しいんだよ。」明代さんが本当に迷惑そうな顔で言うと、「別によろしいじゃあ、ありませんか。皆さんの調子を見てあげてんだよ。」

「やかましいわ。素人が見たって分かるもんじゃないんだよ。早く帰んな。ボケジジイ。」相変わらず明代さんは口調がキツいな。今に始まったことじゃないけど。知り合った時からこうだ。俺が産まれる前からそうなんだろう。俺や、周りの人間は慣れっこだけど、初めて会う人はちょっと引いてしまう奴もいるかもな。そしてこのおっさんもその慣れっこの内の1人だ。幼なじみみたいだから、俺なんかよりも付き合いはずっと長い。まだ帰ろうとせずに、またジムの中をじろじろ見てる。またいつものセリフを言うんだろうな。

「あ、あー、まだいる。まだいやがる。人殺しの息子。このやろう。まだいやがったか。・・・、ん、あー、この前の不審者のガキ。何してやがる。このやろー。」やっぱりだ。また言ってくれたよ。もう何度言われているんだろう。・・・人殺しの息子かぁ。まぁその通りなんだけど。このおっさんもその事はわかってんだな。別にいいや。何とでも言ってくれれば。

「コラー、春夫。いつもいつも、余計なことばかりぬかしやがって、うるさいんだよ。帰んな。」またこのやり取りだ。毎回これやってんだけど、おっさんは直ぐに忘れちまうんだろうな。仕方ないことなんだろうけど。ここに来なければ、それにこしたことはないんだけど、何かいつも来るんだよな。ここは人が集まる。あの人もその内の1人ってことか。というか、あいつ。何だ?不審者って?あいつのことか?あのおっさんの目線の方向からして、不審者呼ばわりしてたのはあいつのことだろう。あいつは何者何だ?というかおっさんの声聞いてから、向こうも俺のことじろじろ見てやがる。そうか。そうだよな。不審者呼ばわりされるよりも、人殺しの息子って呼ばれる方が、よっぽど疑問に感じるだろう。

俺が数秒あいつの顔を見ると目があった。その瞬間、俺から目を背けた。そして掃除用具を持ち、トイレへ入っていった。いつも掃除をしたり、あの女の子の世話をしたり、明代さんがそうさせてるだろうけど、あいつは何がしたいんだ。

[11]

ここに来るようになって早くも1週間が過ぎようとしている。大分ここの雰囲気にも慣れてきた。初日や2日目なんて、何をどうしていいか全く分からず、あたふたしていたら、おばあちゃんに、「ボランティアなんだから、適当に掃除やったり、七海の世話してりゃいい。」とか、「ゆっくり休んでてもいいぞ。」とか言われて少し気が楽になった。というか、別にここに来なくてもいいわけだけど、毎日来てしまうのは、やはりおばあちゃんの存在がそうさせているんだろう。まだ不思議な感じだ。僕は孫という立場でおばあちゃんを認識していて、おばあちゃんは僕の存在を孫として認識していないだろう。

「ねえ、お兄ちゃん。遊ぼうよ。」

「え、ああそうだね七海ちゃん。何して遊ぶ?」

「これ読んでー。」そう言って絵本を僕に手渡してきた。七海ちゃんも大分僕に慣れてきてくれた。最初は全く近づこうともしてくれなかったし、僕も子供の世話というものが、何をしていいか全然わからなかった。といってもまだここへ来て1週間だ。七海ちゃんが話し掛けてきてくれたのは一昨日くらいからだけど。

ジャー。トイレの水が流れる音がして、トイレのドアが開き、選手が1人出てきた。額からじんわりと汗を流し、ゆっくりとした歩調で進み、フーっと1つ息を吐いた。チラッとこちらを見てきて、一瞬目があい、僕はとっさに視線を反らした。鋭い眼光だ。サバンナでの弱肉強食関係にある、獲物を捕獲して、食する強き動物と、悲しいかなその動物に食べられ、命朽ち果てる動物の映像を思い出した。昔テレビで見た映像だ。ここへ来てまだ僅かだけど、彼の印象は僕の心の中で直ぐに強いものになって刻まれていた。存在感が強すぎる。外見の怖さもだけど、何か周りの人とは違う、異質なものを感じずにはいられなかった。目があったことなど、気にする素振りも見せず、ビーという、ラウンド開始の音が鳴ると同時に、彼はサンドバッグを叩き出した。いつも見入ってしまう。練習中の彼は集中していて、まず目が合うことはないので、じーっと見ても大丈夫という自己判断が僕の中にあった。万が一目が合ったら当然反射的に僕は目を反らすだろう。彼が力強くパンチを打ち込み、サンドバッグがグラングランと、上下左右に音をたてて揺れる。「すごいな。」僕とは正反対な雰囲気と力強さを持ち合わせた彼を見て、小さく呟いた。ここへ来て、幾度となく自然に出てしまう言葉だ。

「今日も迫力満点の練習してるね。龍二は。」彼の姿を見て微笑みながら良恵さんがそう言った。どっこいしょと小さく呟き、ゆっくりした歩調で本棚の絵本を取りに行く。この1週間で何度も見た。人差し指で並べられている絵本のタイトルをなぞり、今日読む本を、笑顔で選んでいる。あまり、こういう場所で絵本が並べられている本棚って似つかわしくない気がする。小学生が幾人かいつもいるからその為だろう。絵本の状態を見ると、どれも年期が入っている。おそらく、大分前からここに置かれているんじゃないかな。

「さあ、七海。今日はこの本にしよう。」絵本を選び、七海ちゃんの元へ移動し、膝に彼女を乗せ、慣れた口調で読み出した。七海ちゃんも絵本に興味津々といった感じで、じっと見ている。本棚にしてもそうだけど、こういう場所で小さな女の子が年配の女性に絵本を読んでもらっている風景も似つかわしくないのだろう。そしていつもいる小学生の男の子達。練習している人達は慣れた感じで、気にすることなく過ごしているけど。誰でも構わずこの場所を提供しているのだろうか?おばあちゃんの意思でそうしているのだろうか?ここ数日で感じたおばあちゃんの人柄だと、そういうことなのかなと思わせる。今現在の世の中とは少し違った雰囲気を漂わせる場所だ。ストイックに競技に打ち込む男の人達の横で、下校後の時間を過ごしに来る小学生や、母親が帰ってくるまで生活している少女と、その世話をする年配の女性達。いや、時代を比べるとすれば、昔も今も、あまりこういう所は無いんじゃないだろうか。おばあちゃんって人間的にはどんな人なんだろう。ここへ来て1週間か。まだまだわかんないな。あと、まだ気になることはある。あの龍二というボクサーの人はどんな人なんだろう。この前、僕が春夫さんという人に、あやしい奴呼ばわりされてる時に言われていた〈人殺しの息子〉。あれはどんな意味なんだろう。本当だとしたらあの人の親は人殺し。勿論、僕には関係ないことで、詮索する権利などない。でも日常であまり聞かないフレーズで、どうにも気になってしまう。

「さあ、七海。終わったよ。面白いお話だったね。」良恵さんが絵本を読み終わった。ゆっくり立ち上がり、本棚に本を返して、お茶を飲みながら一息ついている。七海ちゃんはその横で落書きノートに絵を描き出した。いつもこういう風に絵を描いたり、積木で1人遊びをしたり、愛犬のアリと遊んだりしている。周りにいる良恵さんたちはその合間を見て、絵本を読んだり、外に散歩に行ったりして面倒を見ている。今の時代では珍しい子育てなのではと思う。ゲーム機で遊ばせたり、動画を見せて楽をしながらの子育てではない。好感の持てる光景だと思うけど、明代さんや、良恵さん達の年代からすると、そういう接し方になるんだろうな。

「あの・・・、良恵さん。」やはり気になる。ふと、良恵さんに聞いてみようと思った。僕にはやはり関係の無い事なんだけど、ここにいる人たちと、同じ場所で、同じ時を過ごす者として、聞いてもいいのではないか。椅子に座って練習している様子を見ていた良恵さんは、急に声を掛けられ少し驚いた顔をしてこちらを見た。僕は口数があまり多くないし、こちらから話し掛けたことが、おそらく意外なのだろう。

「・・・、どうしたんだい?優一君。」話し掛ける前よりも大きな目になっている良恵さんは立っている僕を見上げ、そう聞いてきた。僕は、良恵さんの座っている直ぐ横に椅子を持っていき、座った。あまり、大きな声では聞けない質問だ。

「どうしたの?何か大事な話?」何を聞かれるんだろうという、その表情から不安そうな感じも受けるし、好奇心を持って耳を傾けているようにも見える。僕は軽く深呼吸をして、両手を組み、少し猫背になって良恵さんに近づき、小さな声で話し始めた。

「ちょっと聞きたいんですが・・・、ええと、春夫さんという方が前に口にしていたことなんですけど。」

「ん、春夫?春夫がどうしたんだい?」想像していたこととは違うことだったのか、少し拍子抜けしたような返答の仕方だ。

「いや、春夫さんという方のことじゃないんです。この前、ジムの窓で、僕と、あの・・・、あそこの龍二さんという方に発した言葉が気になっていて。」サンドバッグを叩く、龍二さんに聞こえない様に、声のボリュームに気を付けながら慎重に聞いた。良恵さんが大きな声で返事をしたらヤバイということが頭をよぎり、焦りが生じたが、良恵さんは察してくれたのだろう。小さな声に切り替え、言葉を返してくれた。

「ああ、ちょっと前にあのボケジジイの春夫が何か言ってたね。」良恵さんはしかめっ面した表情でそう返した。明代さんや良恵さんは春夫さんと昔からの付き合いみたいだけど、今はけっこう迷惑被っているのだろうな。お茶を一口飲んでから、話の続きを促した。

「で、何て言ってたんだっけね?言われた事が気になるのかい?」そう聞かれ、再び声のボリュームに気を付けて、次の言葉を発した。チラッと彼の方を見た。変わらず激しい音をたててサンドバッグを揺らしている。この音が貴重で頼もしく感じる。

「・・・、そうですね。あのー、僕は怪しい奴みたいにいわれて、んー、別にそれはいいんですけど、あそこで練習している方・・・。」僕の言葉を聞き、良恵さんは彼の方に目線を移し、「ああ、龍二かい?あいつがどうしたんだ?」そう言って、手にしているお茶を一口啜った。

「あの・・・、おそらく聞き間違いではないと思うんですけど、春夫さんは彼のことを、その・・・、人殺しの息子って言ってた様な気がするんですけど、どういうことなのかなと思いまして。」僕がそう聞くと、良恵さんは数秒間、表情の動きを止めて、こちらをじっと見つめた。その後、ニコッと笑い、

「まあ・・・、ね。」そう言ってふうーっとため息をつき、ゆっくりした口調で、

「人生色々よ。色んな事がおこるのよ。」それだけ言った後、立ち上がり、ジムの外へ出ていき、ハマギクの花壇に水をあげている。その姿を見ながら、これ以上は聞かない方がいいなと思った。

[12]

今日は久しぶりに豪華な夕飯にしようかな。そう昼休憩の時に何となく思いつき、帰り道スーパーに立ち寄った。

すき焼きにしよう。七海もきっと喜ぶはずだ。豪華と言っても2人だけだし、まだ七海はそんなにガツガツ食べれる訳じゃないから、量も少しでいい。家計にはあまり支障無いから助かる。

肉や野菜を選んだ後、七海のジュースを選ぶ。あの子は断然オレンジジュースが好きだ。籠にジュースを入れ、アルコールコーナーへ。久しぶりにビールでも飲んでみようという気になった。豪華な食事にビールか。別に何か特別良いことがあったわけではないけど、何となく今日は豪勢にいきたい気分だ。まあ、体調とか、気分とか色々なものがそういう気持ちにさせるのかな。そんなことを考えながら支払いを済ませ、スーパーを出て、ジムへ向かう。途中の道では数人のお年寄りと、1組の小学生とすれ違った。少し歩いて出会う人を見ると、何だか今の時代の少子高齢化を表している日本の問題の数字の指標の図式を感じる。ここ南信州もそういった問題を抱えてるんだなと何となく思う。こういった田舎は特に過疎化が進んで、都市部よりも深刻な事情を抱えているのだろうな。ふとそんなことを考えて、あ、いけないと思う。今日は気分が良く、夜は豪華な夕飯を準備するのに、難しいことを考えてはせっかくの楽しさに水を指す。って何か1人で色々思っている。ニヤニヤしてしまう。

ジムの建物が見えてきた。今日も迫力ある音が聞こえる。ここは活気が失くなっていく地域とは真逆の雰囲気を醸し出している。こういう所はどこもそうだとは思うけど、近付くと何か一段と元気を貰える気がする。

ふと歩く足を止めた。ジムから少し離れた所、ほんの数十メートルの所で、身を隠す様に、1人の女性が、じっとジムを見ている。どう見ても怪しいけど、そんな辺な人という訳ではない。何をしてるんだろう。練習に来ている人の保護者とかかな。いや、だったら何もこんなところで覗いてないで、中に入ればいい。

「あの・・・。」私が声をかけた瞬間、パッとこちらを振り返り、驚いた表情を見せた。可愛らしい顔の人だ。年は私と同じくらいか、やや上かな。こそこそ覗きをするような感じの人ではないけど。驚いた表情のまま、何か言おうとしている。

「い、いや、別に・・・、失礼します。」そう言って立ち去ろうとした。

「あの、ちょっと。」私がそう言葉を発したとき、彼女の姿は、もう曲がり角を曲がるところだった。


「行って来ました。」いつものようにジムへ入ると、七海は

「ママ~、お帰りなさ~い。」と良恵さんの膝の上から私を歓迎してくれている。ジムのスリッパに履き替え、中へと進む。練習している人達の邪魔になら無いように、端を歩くと、「お疲れ様です」とか「こんばんは」といった元気の良い挨拶で迎えられる。礼儀作法を重んじる明代さんに皆教育されているのか、いつもしっかり挨拶してくれる。龍二くんは軽く会釈してくれるだけだけど、クールな感じの子だから周りとは少し違う感じになるのだろう。「どーも、こんばんは」と何度かお辞儀をしながら七海のところへ行くと、いつものように飛び付いて来た。

「お帰りママ。」

「ただいま。本読んでもらってたのね。良恵さん、ありがとうございます。」どっこいしょと言いながらゆっくり立ち上がり、「お帰り梢。今日も七海は良い子だったよ。本を読んでいると、これは何?とか、どーしてとか色々聞いてくる様になってね。大分慣性が豊かになってきているよ。成長してるね、七海は。」と嬉しそうに七海の変化をよく教えてくれる。子供好きなことは、すごくわかる。でもそれ以上に良恵さんや明代さんは七海を本当の孫の様に可愛がってくれる。ここに来ている小学生達もそうなんだろう。私みたいに、時間になると保護者の人達が迎えに来る。ここへ来てから何人かの保護者の人と世間話程度だが会話するくらいの間柄になった。明代さんは私と同じように、それぞれ気軽にいつも話している。きっとみなさん、助かっているはずだ。

「おーい、梢。お帰り。」そこへ明代さんがやって来た。

「行って来ました。今日もありがとうございます。」明代さんは私が手にしているスーパーの袋を見て、ニコッとした表情で七海を抱え上げながら、

「お、七海。今日は豪華な夕飯じゃないかな。沢山色々入ってるぞ。」と、優しく七海に呟いた。

「はい。そうなんです。たまにはいいかなと思って奮発してみました。七海今日はすき焼きよ。オレンジジュースもあるからね。」そう私が言うと、七海は満面の笑みを作り、明代さんの体にぎゅーっと抱き付いて、「やったー。すき焼き、すき焼きー。」と喜んでいる。確か、すき焼きを七海は食べたことがないはずだけど、私と明代さんの会話を聞いて、何か美味しい料理だと思っているんだろう。

「何かめでたいことでもあったのかい?」そう明代さんは聞いてきた。いつもよりも大分豪華な夕飯の具材を買ってくればそう思われるだろうな。

「いえ、特にそういう訳ではないんですけど、何となく思い付いて。」

「そうかい。そうかい。いいじゃないか。たまには贅沢しないとな。」明代さんと話していると、ふと今さっき見た女性のことが頭をよぎった。

「あの、明代さん。私がジムについたとき、覗いている女性がいたんですけど。」そう言うと、心当たりがないのか、

「覗いてた?ここを?どんな物好きなんだい。どんな奴だ?入門したい奴かな?」あまり関心はなさそうだ。七海を抱っこして、頭を撫でながら話している。

「入門とか、そういう感じではないと思いますよ。女性で、年齢は私と同じくらいか、少し上だと思います。可愛らしい人でした。どうですか?心当たりあります?」明代さんはふふっと笑った。

「何か、優一といい、そいつといい、ここは人気の覗きスポットなのかね。特に覗いて楽しい場所じゃないと思うんだけど、なあ七海。あ、心当たりか。ないない。まあ、何か用がありゃそのうち訪ねて来るだろ。」と、他人事の様に話すその表情は、いつも通りの小さなことは気にしない明代さんらしい。

話も一段落ついたところで、ジムを後にした。さあ、楽しい夕飯だ。七海も楽しみらしく、笑顔で、すき焼きーと連呼している。今日も生かされた、充実した1日が終わろうとしていた。

[13]

ここへ来て、2週間目に入ろうとしていた。今日はテスト期間中で学校が半日だから早めにジムに来た。クラスの友達に喫茶店でお茶でもどうと言われたけど、用事があると断った。やっぱり来てしまう。別に来なくても何も言われることはないと思うけど。ジムが見えてきた。まだ距離はあるけど、勢いのある音が聞こえてくる。あ、と思う。こんなにいい音をさせるのは彼だ。案の定曲がり角を曲がってジムが見える位置まで来ると、窓際のサンドバッグの横に見えるコントラストは彼だった。龍二さんだ。

こんにちわ。そう言って中へ入る。練習生の人達はお願いしますという大きな声で入ってこないと、明代さんに叱られる。でも僕はお手伝いだからいつもこう言って入ってくる。僕の挨拶に特に反応することなく、彼は黙々とサンドバッグを叩いている。やはり迫力満点だな。

「あ、お兄ちゃん。こんにちわ。」七海ちゃんがジムの奥からそう声を掛けてきた。1人で絵本を読んでいたみたいだった。「こんにちは。あれ、今日は1人で遊んでたの?」そう聞くと、少し小さな声で、うんと返してきた。

「おばちゃんすぐ帰って来るって言ってどこか行っちゃった。」きっと買い物とかのちょっとした用事だろう。

「そうか。じゃあお兄ちゃんが絵本読んであげるよ。」椅子に座っている七海ちゃんの前で、絵本を読み出す。僕は照れ屋な性格だから明代さんや、良恵さんがいるときは絵本を読んだことがない。でも今日はジムにいたのは七海ちゃんと龍二さんだけだ。それに龍二さんは練習に集中しているだろうからこちらのことを気にすることはないだろう。

絵本を読んでいると、七海ちゃんは椅子から降りて、マットに座った。椅子よりも座りやすいんだろうな。

絵本を読み続けて、ふと七海ちゃんを見ると、横になっていた。毛布を被ってこちらを見ている。さっきまでの縦でこちらを見ていた顔が横になっても相変わらず可愛い顔にはかわりない。ニコニコしてこちらを見てくれている。ん、何だろう。なんだか違和感が僕の心に生じた。何だろう。絵本を読んでいた僕の口の動きが自然に止まった。一旦読むのを止め、七海ちゃんに近づいた。よく見てみると、呼吸が荒い。顔も赤くなっている。

「ねえ、七海ちゃん。大丈夫?」そう言うと、七海ちゃんは「ん、何?」と理解出来てない様子だ。僕は額に手を当てた。熱い。相当熱い。そして先程よりもぐったりしている。

「大丈夫?大丈夫?」急に焦りが出てきて七海ちゃんに問い掛けた。

「おい、どうした?」急に背後から声がして、瞬時に振り返ると、龍二さんが見下ろしていた。

「あ、・・・七海ちゃんが、凄い熱で、あとぐったりしてきちゃって。」それを聞くと、龍二さんはすぐに七海ちゃんの額に手をおき、「おい、病院行くぞ。準備しろ。」そう言って更衣室へ走っていった。僕は慌てて準備しようとしたけど、特に準備するようなことはなかったから、そのまま彼を待った。彼が来るまでは、おそらく1分もかからなかった。めちゃくちゃ早く準備を済ませたかと思うと、すぐに七海ちゃんを抱き上げた。

「おい、七海に毛布掛けろ。」言われるままに毛布を持ってくると、「外出て、タクシー拾え。」そう言われ、慌てて外へ出て、タクシーを探した。彼が七海ちゃんの様子を見に来てからおそらく5分と掛かっていないだろう。

幸運にもタクシーはすぐに来た。中からタクシーの姿を確認すると、龍二さんは直ぐに出てきた。行き先を運転手さんに伝え、病院へと向かった。タクシーの中では皆無言だった。龍二さんはタオルを手にしていて、七海ちゃんの額の汗を拭いている。この人は優しい人なんだと直感した。普段の険しい表情で練習している姿からは想像出来ない。何か変な感じだ。

病院へ着き、支払いを済ませていると、すでに龍二さんと七海ちゃんは病院の中だった。慌てて病院の中へ向かう。


すやすや眠る七海ちゃんをおぶって歩く龍二さんの横で僕は言葉を発せずにいた。何か話し掛けてみたいけど何を話してていいのかわからない。

「ありがとな。」急にそう龍二さんが話し掛けてきた。急なことでなんて答えたらいいかわからず「えっ、」としか言えなかった。

「いや、色々やってくれてありがと。」前を見て歩きながら、そう話してきた。今日は龍二さんの意外な一面が見れた日だ。

「いえ、別に大したことはしてないんで・・・、それより七海ちゃん、ただの風邪で良かったですよね。凄い心配でした。」

「ああ、そうだな。」病院からジムまではさほど距離はなく、診察後は急ぎではないので歩いて帰っていた。この後まだ龍二さんは練習をするらしい。僕は七海ちゃんの異変に気付いてから今までおそらくずっと緊張している。七海ちゃんのことを心配していたこと、そして龍二さんとこんなに色々話すこと。今まで怖い存在、近寄りがたい存在というイメージを持ち合わせていた。そのイメージはこの短時間で大分軽減されたが、そんなに直ぐに緊張せず、気軽に話せるというものではない。あと、ジムまで歩いて20分は掛かるだろう。何か話してみたいけど何を話せばいいんだろう。そんなことを考えていると、龍二さんの方から話し掛けてきた。

「なあ、お前、名前は?」龍二さんはそう聞いてきた。そうだ。普段、僕は軽く挨拶するくらいで、龍二さんは、「ああ」とうい感じで返してくるだけだ。明代さんや良恵さんは僕を名前で呼ぶけど、龍二さんは練習に集中しているからおそらく耳に入ってなかったんだろう。

「優一です。優しいに漢数字の一です。」

「そうか。俺の名前は知ってるよな?」

「はい。知ってます。」そう言うと、それからまた沈黙が続いた。しかしまた龍二さんの方から話し掛けてきた。

「お前さ、何でジムに来てるんだ?」え、っと思う。急にそんな質問されたらスムーズに直ぐに返せない。

「何ででしょうね。」焦って出した返答だった。

「何だそりゃ。」そう言った後、龍二さんは笑った。めちゃくちゃ意外だ。龍二さんは笑う時もあるんだな。彼が笑ったところを見たのは初めてだ。一気に僕の心に余裕と安堵の気持ちが生まれた。

「ですよね。」僕も笑いながら返した。

「まあ、いいや。色々あるよな。」そう言って空を見上げた。爽やかな表情で見上げている先にある夕焼け空は穏やかで、何だか絵になっている。今まで見てきた龍二さんの鋭い眼光を持ち合わせた表情ならそんなことは無いのだろう。今日は何だか僕にとって貴重な日となった。

それからジムに着くまで色々話した。明代さんや良恵さんのことやもうじき行われるデビュー戦のことなど。頭の隅にはあった。[人殺しの息子]への疑問。まさか聞ける筈もない。聞けないし、知る必要性は今日龍二さんと接していて、僕の中で薄らいでいた。そう。彼だって色々あるのだろう。ジムが見えてきた。ジムの背後に広がる夕焼け空は本当に穏やかだった。僕も自然と空を見上げていた

[14]

七海が体調不良で病院へ行った。分かったのは私が仕事を終えてからだ。ロッカーで携帯を確認し、明代さんからの着信履歴

をみて、折り返した電話で伝えられた。携帯に繋がらなかった後に、直接職場への電話がなかったことから、それほどのことではないと思ったが胸がドキドキして、足が若干震えた。こんなことは初めてだ。

電車を降りて、真っ先にジムへ走る。ジムまでの数百メートルはあっという間だった。こんなにおもいっきり走ったのはいつ以来だろう。

勢いよくジムのドアを開ける。いつもとは全く違う開け方だけど何も気にせず中に入った。

「おー、来たか。」聞こえてきたのは、リングの上の明代さんの声だった。ミットを持って、指導しているところだった。

「あの、七海は、七海は大丈夫ですか?」そう言ってジムの中を見回したけど、七海の姿はなかった。

「ちょいちょいちょい。心配なのはわかるけど、あんまり大きな声出すんじゃないよ。大丈夫。奥の事務室で寝てるよ。今良恵と優一が看病してるから見てきなよ。」

「は、はい。すみません。」と、言いながら事務室へと向かう。自然と大きな声が出てしまったみたいだ。

事務室の扉を開け、中を見ると、机やソファーが退かされ、そこに敷いてある布団で七海は寝ていた。良恵さんと優一君が横でお茶を飲んでいた。

「おお、梢。お帰り。」そう良恵さんが声を掛けてくれた後、「お帰りなさい。お疲れ様です。」と、優一君が言った。まだ彼とは、明代さんから紹介されたとき以来、挨拶でしか言葉を交わしてなかった。

「行って来ました。あ、あの七海はどうですか?」さっき明代さんから大丈夫と言われたけど、詳しく容態を聞いてなかったから、まだ心配で、ドキドキしている。

「大丈夫だよ。ただの風邪だ。優一が最初気付いた時はけっこう高熱でしんどそうだったみたいだけどな。医者の話だとゆっくり休ませれば大丈夫だってよ。」そう良恵さんが教えてくれた。その後気付いたように、「っていうか何で私が説明してんだい。優一、自分で言いなさいよ。」とふざけた様子で優一君の肩を肘でつついた。きっと心配そうだった私を和ませてくれようとしたのだろう。実際そのやり取りで少しほっとした気持ちになった。

良恵さんにそう言われ、少し慌てた感じで優一君が話し出した。

「あ、そうですね。今良恵さんが言われた通りなんですけど、最初、絵本を読んでいたら、七海ちゃん元気のない様子で、額に手を当てると凄い熱だったんです。それで急いで病院へ向かいました。病院の先生からは、そんなに心配することはないらしく、このくらいの歳の子はこういった症状はよくあることらしいですよ。でも、僕は大したことはしてなくて、龍二さんが、病院までの手配を素早くやってくれました。」少し照れ臭そうに優一君は説明してくれた。

「そう。ありがとう。本当にお世話になりました。良恵さんもありがとうございます。」お礼を言ってると、安心感からか、自然と少し涙が溢れてきた。指で涙を拭いていると、練習が一区切りついたのだろうか、明代さんが事務室に入ってきた。

「お、まだ七海寝てるか。しっかり寝かせてやれよ。疲れが溜まってたんだな。こんな小さな子供だから仕方ないよ。」首に掛けているタオルで汗を拭き、ゆっくりソファーに座った。

「何だよ、泣いてるのか。まったく大袈裟だねー。」そう言って笑った。

「今まで体調崩さずに元気でいられたんだ。七海は強いよ。ここへ来て、知らなかった奴等と一緒にいるんだ。緊張でストレスもあっただろうし、よく頑張ってるよ。まだこんなに小さいのにさ。今日はしっかり休ませてやんな。明日もゆっくりここに布団敷いて休ませてやるから心配すんな。」そう言って、微笑みながら七海を見つめている。

「ありがとうございます。でも、明日は休みを取ろうと思っています。いつも甘えさせて貰っているし、またにはしっかり母親らしいことをしたいので。」

「そうか。そうか。わかった。明日は親子水入らずでゆっくりしな。っていうか梢。お前、しっかり母親やってんじゃないか。七海の為に働いて、家事して。それに、七海が甘えれる存在になってる。立派なもんだ。胸張って母親やるんだよ。」そう言って明代さんは私の肩をポンと叩いた。

「ありがとうございます。」そう言って七海の姿を見る。しっかり眠っている。ここも七海にとって安心出来る場所なんだろう。

私はジムを見回した。龍二君の姿を確認するために。先程の優一君の話では、龍二君も七海を病院へ連れていく為に、尽力してくれたのだ。ちゃんとお礼がしたい。彼とも、まだ挨拶程度でしか言葉を交わしていないが、しっかり感謝の気持ちを伝えたい。彼の姿はジムの端にあった。練習を終えて、ストレッチをしていた。事務室から出て、彼の元へ行くと、こちらに気付き、目が合った。一瞬反射的に目を反らしてしまった。いつも感じることだけど、ちょっとだけ怖さを感じてしまう。何というか、殺気の様な雰囲気を醸し出している。今の若者とは反するイメージを龍二君は持ち合わせている。おそらくそう感じているのは私だけではないと思うけど。でも今日はしっかりお礼をしたい。大袈裟かもしれないけど七海の恩人だ。

「あの、お疲れ様。今日は七海が大変お世話になったみたいで、あの、ありがとうございました。」そう言って深く頭を下げると、直ぐに返事が返ってきた。

「いえ、別に。大したことしてないっすよ。」挨拶以外で言葉のやり取りをしたのは初めてだ。いつもは彼は練習中で、直ぐ私と七海は帰ってしまう。練習が一区切りついてから会うのは初めてで、これだけの会話だが、まともに話したことはなかった。

「あ、いえ。練習中だったのに病院まで連れて行って貰って、すみません。本当に助かりました。」そう言うと、彼は意外にも、表情を変えて話し出した。

「当たり前のことをしただけです。とにかく何も無くて良かった。」その顔は若干笑顔だった。直ぐに表情を戻したが、初めて見る彼の一面だった。こんな表情もするのだ。彼の印象が一瞬で大分変わった。

[15]

今日は良い天気だ。昨日一昨日と雨に降られて3日振りのお天道様か。濡れたアスファルトが太陽の光で反射して眩しい。夏っぽいねえ。まあ夏なんだけど。

ダラダラ歩いて散歩してジムに着いた。

「おい。アリ。疲れたのかい?」30分くらいの散歩なのに、帰ってきたら直ぐにジムの前で座っちまった。

「やれやれ、甘やかし過ぎかねえ。」横になり、こちらを涼しい顔して見てやがる。3日振りに太陽の光を浴びて活気に満ちた様子のハマギクに水をやりながらジムの中を見ると、龍二と優一の姿があった。アリの散歩に出掛ける時は良恵と七海だけだったからちょっと前に来たのだろう。龍二はヴァンテージを巻き、優一は七海の絵本棚の整理をしている。何か2人で話している。龍二は少しにこやかな表情だ。良恵も何か話に参加していて、七海も横でニコニコしながら聞いている。龍二があんな表情を頻繁に見せるようになったのはここ数日だ。あの日を堺に徐々にだな。

七海が病院へ運ばれてから一週間と数日が過ぎた。体調は直ぐに良くなって、毎日元気にジムに来ている。

「はい、ただいま。」ジムの中へ入ると、七海が走って寄ってきた。

「お帰り。明代さん。」ニコニコしたがら足にしがみついてきた。

「おーい。七海。元気に留守番してたかー?」そう言いながら七海を抱っこした。

「うん。」と言った後に笑顔になる。

七海を抱っこしたまま龍二に話し掛けた。

「どうだい?龍二。調子は?」もうじき試合だ。私の言葉を聞いて、さっきまでのにこやかな表情から一変して、「まあまあです。問題ないですよ。」そう答えた。

ストレッチを終え、リングに入った龍二がシャドーを開始した。今日もいい動きだ。開始直後のゆったりとした動きから、徐々にスピードを増していく。1つ1つのコンビネーションも早い。まだデビュー前の新人としては今まで見てきた奴の中でピカ一だ。そんなリングで動く龍二を優一が手を止めて見ている。

「おい、優一。」何気なく話し掛けてみた。ちょっと聞いてみたいこともあった。

「え、はい。」とっさにこちらを見てきた。

「お前さ、親兄弟はどんな構成なんだい?」そう聞くと、驚いた様子で、「え、あ、はい。ええと・・・。」と、焦っている。別にそんなに驚く様なことは聞いてない。変な奴だ。

「家族は・・・、母親です。2人で暮らしてます。兄弟はいません。父は病気で他界しました。」と、さっきよりは落ち着いた口調で話し、フーッと息をついた。

優一の返事を聞いて、「そうか。」とだけ言って、リングの中の龍二に目を移した。先程からのシャドーは勢いを増している。最近穏やかがを増したがリングの中では相変わらず鋭い眼光の持ち主だ。いいことだ。まあこいつは以前から、優しさと強さを持ち合わせているけどな。

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