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音楽史年表記事編25.モーツァルト、ウィーンで初めてのオペラを作曲する

 モーツァルトは皇帝ヨーゼフ2世の勧めで、自身はじめてのオペラである「ラ・フィンタ・センプリーチェ」を作曲しますが、皇帝ヨーゼフ2世の後ろ盾があったにも関わらず、モーツァルトのこのオペラの上演はかないませんでした。このオペラの上演を妨害したのは一般には宮廷劇場側とされていますが、女帝マリア・テレジアであった可能性があります。なぜなら、いくらオペラの上演が劇場に任されているというものの皇帝自らが上演日を決めているのに、それを覆すことができるのは女帝マリア・テレジアしか考えられないからです。マリア・テレジアはモーツァルト一家が敵対関係にあるイギリスを訪問したこと、あるいはモーツァルトが曲芸演奏を行ったことを許すことができなかったのかもしれません。一方の啓蒙主義者の皇帝ヨーゼフ2世は、おそらく妃のイザベラの影響を受けたものと思われますが、プロイセンのフリードリヒ2世を敬愛していました。ヨーゼフ2世にとってモーツァルトがイギリスへ訪問することについては何の問題もなく、イギリスで大いに作曲家としての腕を上げてきたことについては好ましいことであると考えていたと思われます。
 オペラが完成すると、その抜粋の試演が行われましたが、宮廷詩人の巨匠メタスタージョや宮廷作曲家のハッセはその出来栄えに驚嘆しています。モーツァルトは、オペラ上演は叶わなかったもののウィーンの音楽家からは大きな信頼を得ることになりました。ハッセはモーツァルトのイタリア行きのために多くの紹介状を書いています。
 皇帝ヨーゼフ2世は、モーツァルトの歌劇の上演ができなかった代償に、モーツァルトに対し孤児院の献堂式のためのミサ曲を委嘱します。

【音楽史年表より】
1768年4月~6月作曲、モーツァルト(12)、歌劇「ラ・フィンタ・センプリーチェ(見てくれの馬鹿娘)」K.51
3幕のオペラ・ブッファ。モーツァルト最初のイタリア・オペラ。カルロ・ゴルドーニの原作をマルコ・コッテリーニが改作した台本による。2度目のウィーン滞在の折に皇帝ヨーゼフ2世の示唆により作曲に取りかかったが、実際には上演されなかった。この時代、ウィーンの宮廷劇場は、アッフリジョなる人物が経営の中心を担っており、皇帝といえども演目や演奏者に注文を出すことはできても、実際に決定するのは経営主体であり、父レオポルトの皇帝や宰相カウニッツへの度々の懇願にもかかわらず、上演に至ることはできなかった。初演は翌69年ザルツブルクで行われるが、詳細は不明。(1)
モーツァルトはこのオペラの抜粋を多くの専門家たちの前で演奏し、喝采を博した。また、皇帝ヨーゼフ2世みずから上演の日取りを決めたにもかかわらず、当時ウィーンの楽団を支配していた多くの音楽家が12歳の作曲家を妬んで、この若者のオペラが上演されるのを邪魔した。しかし、このオペラについてメタスタージョやハッセのような有力な人たちは「まったく、もうこのうえなく驚嘆した」と表明する。(2)
【参考文献】
1.モーツァルト事典(東京書籍)
2.ベルモンテ著・海老沢敏他訳・モーツァルトと女性(音楽之友社)

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