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音楽史年表記事編12.ベートーヴェンとピアノ製作者ナネッテ・シュトライヒャー

 ベートーヴェンの生涯で最も長く深く関わった人物は、女性のピアノ製作者ナネッテ・シュトライヒャーです。ナネッテは1769年、ドイツ・バイエルンの古都アウグスブルクのクラヴィーアの名工ヨハン・アンドレアス・シュタインの娘として生まれました。
 1777年ナネッテ8歳のときには、モーツァルトがアウグスブルクのシュタイン工房を訪れ、モーツァルトはシュタイン製のクラヴィーアのすばらしさに魅了され、ナネッテの父シュタイン、オルガニストのデンムラーとともに3台のクラヴィーアのための協奏曲ヘ長調「ロードロン」K.242を演奏しています。
 ベートーヴェンも1787年、16歳の時、ウィーン訪問の帰途、シュタインの工房を訪問しており、その後、ボンのワルトシュタイン伯爵からシュタイン製のクラヴィーアが贈られました。ナネッテはその後、シュトライヒャーと結婚してウィーンに移り住みますが、ベートーヴェンはピアノ演奏者として、ナネッテはピアノ製作者として、ともに協力してピアノの改良に取り組みます。ベートーヴェンは1812年人生で最悪の状況に追い込まれ、この時期、多くの友人も身辺から離れましたが、ナネッテは生活面の世話ばかりではなく、ベートーヴェンの心の支えともなっています。
 ベートーヴェンにはフランスのエラールやイギリスのブロードウッドから最新型のピアノが贈られています。部品で送られたピアノを組立て、調整、調律を行ったのはナネッテでした。これらの最新型のピアノによって、ピアノ・ソナタ第21番ハ長調「ワルトシュタイン」Op.53やピアノ・ソナタ第29番変ロ長調「ハンマークラヴィーア」Op.106の名曲が生まれました。

【音楽史年表より】
1787年4/20頃、ベートーヴェン(16歳)
ベートーヴェン、母重体の報を受け、ウィーン留学を切り上げてボンへの帰途に着く。ボンへの帰途、アウグスブルクに立ち寄り、同地の貴族ヴィルヘルム・フォン・シャーデンと知己を得て、ボンまでの路銀を借用する。また、ピアノ工房主シュタインを訪れる。(1)
1803年8/6、ベートーヴェン(32歳)
ベートーヴェン、パリのエラール社から新型のピアノフォルテを寄贈される。このピアノは5オクターヴ半の音域をもち、従来の2弦張りからすべて3弦張りになったことで重量感のある音が出せ、鍵盤を移動させる新式のペダルを装備し、ベートーヴェンのピアノに対する感じ方や考え方を大きく変えさせるものであった。この新しいピアノの性能を活かし、ワルトシュタインソナタや熱情ソナタが生み出される。(2)
このピアノの調整にはウィーンのピアノ製作者ナネッテ・シュトライヒャーがあたる。
1804年作曲、ベートーヴェン(33歳)、ピアノ・ソナタ第21番ハ長調「ワルトシュタイン」Op.53
エラール製のピアノ入手後の1803年から翌1804年にかけて作曲される。フェルディナント・ヴァルトシュタイン伯爵に献呈される。1802年10月に「ハイリゲンシュタットの遺書」をしたためたのち、ベートーヴェンは再度創作に情熱を注ぎこむため、ウィーンに戻るが、その時にボン時代の宮廷楽団の同僚である作曲家レイハの訪問を受ける。レイハは一時ウィーンに滞在していたが、その後はパリに本拠を移して活躍していた。そのレイハがベートーヴェンがヤケッシュ製の使い古されたピアノしか持っていないことを知り、パリに戻ってからベートーヴェンへ楽器をプレゼントする後援者を探したとみられる。そして、1803年8月パリのピアノ製作者エラールから、5オクターヴと5度の幅広い音域をもつ、イギリスアクションのピアノが贈られる。この新しいピアノには4本のペダル機構が備えられ、全音域にわたって3重の弦が張られていた。このエラールのピアノの存在こそが、ベートーヴェンの中期のドラマ的ソナタ様式を飛躍的に充実させるようになる。(2)
1813年夏の後半、ベートーヴェン(42歳)
ベートーヴェンは夏の後半をピアノ製作者のシュトライヒャー一家の人々ともにバーデンで過ごすが、この時の様子をシュトライヒャー夫人ナネッテは「彼はきちんとした上着はもとより、まともなシャツ一枚として持っていませんでした。」と後に回想している。秋にウィーンに戻ってから、ベートーヴェンが弟カール一家のために出版社等を回り、借金や前払いなどの交渉に奔走しているのを見て、ナネッテはベートーヴェンの着るものから家事全般まで世話を焼かずにはいられなかったとも述懐している。(1)
1817年7/27、ベートーヴェン(46歳)、無伴奏声楽小品「どこ?どこ?」WoO205d(Hess289)
ウィーン郊外ヌスドルフからバーデン滞在中のピアノ製作者ナネッテ・シュトライヒャーに宛てた手紙の中で「僕のシーツはどこ?」という一文に続き2点ホ音と2点ヘ音が書かれている。(2)
1817年8月、ベートーヴェン(46歳)
8月のある日、ベートーヴェンはウィーンを訪れていたロンドンの有名なピアノ製作会社ブロードウッド&サンズの2代目経営者トーマス・ブロードウッドの訪問を受ける。この時の出会いが翌年に大きなプレゼントをもたらすことになる。このころ、ベートーヴェンはピアノ製作師ナネッテ・シュトライヒャーに「難聴の耳にも十分に聞こえる音量を持ったピアノを作ってほしい。」と頼んでいる。ベートーヴェンは1803年にエラール社から贈られたピアノを長年愛用していたが、宮廷ピアノ製作師の称号を持つナネッテはその間、何度も修理や調整を行っていた。また、ベートーヴェンはしばしば甥カールの教育問題や育て方などでナネッテに相談を持ちかけ、助言を求めることがあった。一方、ナネッテは男所帯で家事もままならぬベートーヴェンを見るに見かねて、時には洗濯をしたり、着るものまで気遣ったりするほどであった。(1)
1818年6月初旬、ベートーヴェン(47歳)
イギリスからブロードウッドのピアノがウィーンに到着する。ブロードウッドのピアノはオランダからライン川を上るルートではなく、どのような理由からかジブラルタル海峡を通り地中海に入り、イタリア半島東側のアドリア海を北上してトリエステで陸揚げされるルートで搬送されたとみられる。イタリアからウィーンへの輸送にはナネッテ・シュトライヒャーが尽力し、彼女の工房に運び込まれて、組立て、調性、調律されることになった。(1)
1818年6月中旬、ベートーヴェン(47歳)
ナネッテ・シュトライヒャーからベートーヴェン宛に、ブロードウッドのピアノがいつでも使える状態になったとの報せが届き、早速メードリングの借家にピアノが運び込まれることとなる。作曲中のハンマークラヴィーア・ソナタには従来のピアノでは表現しきれないブロードウッド・ピアノならではの表現が盛り込まれる。(1)
1818年秋遅く、ベートーヴェン(47歳)、ピアノ・ソナタ第29番変ロ長調「ハンマークラヴィーア」Op.106
全曲を完成する。ルドルフ大公に献呈される。「ハンマークラヴィーア」の呼称は初版のタイトル「ハンマークラヴィーアのための大ソナタ」に由来する。この作品でベートーヴェンはふたたび4楽章構成による形式拡大を見せる。それは二重の意味を持つ。1つはOp.101に見られたように、開始楽章から終楽章に向かっての規模の拡大であり、もう1つは個々の楽章の形式拡大である。音楽内容は全ソナタ中でもっとも厳しい論理性に支配されており、カンタービレ期、ロマン期を通して優勢であった叙情性は捨て去られ、異例な交響的な複雑さを示している。和声法は極めて革新的な発展を遂げ、連続トリルや二重トリルなどの新たな用法、フーガによる終楽章といった革新性に満ちた書法を見せる。(2)
【参考文献】
1.平野昭著・作曲家・人と作品シリーズ ベートーヴェン(音楽之友社)
2.ベートーヴェン事典(東京書籍)

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