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音楽史年表記事編24.モーツァルト、2回目のウィーン王宮訪問

 モーツァルトの第2回ウィーン訪問では、63年1/19にウィーン王宮に招かれますが、マリア・テレジアは母マリア・アンナと、皇帝ヨーゼフ2世は父レオポルト、モーツァルト、姉ナンネルと2手に分かれて、それぞれ2時間にわたって話をされたとされます。
 恐らく、女帝マリア・テレジアはモーツァルト一家が西方大旅行でイギリスのロンドンを訪問したことを聞き、その詳細について知りたかったのでしょう。イギリスは1740年から48年のオーストリア継承戦争でマリア・テレジアがヨーロッパの中で四面楚歌の窮地に立った中では数少ない友好国でしたが、1756年から63年の7年戦争では、オーストリアと敵対したプロイセンと同盟したため、オーストリアはフランス、ロシアと同盟するという外交革命を行い、これまで敵対してきたフランスと同盟を行うこととなり、イギリスとは敵対していました。
 マリア・テレジアはオーストリア継承戦争では、プロイセンとフランスの後ろ盾を得たバイエルンに神聖ローマ皇帝位を奪われ、シュレージェンでも領地を奪われています。このプロイセンの脅威に立ち向かうために長年敵対してきたフランスとの同盟に舵を切り、イギリスとの友好関係を破棄するという外交革命を進めました。マリア・テレジアは夫のフランツ・シュテファンを神聖ローマ皇帝に復活戴冠させ、プロイセンとも講和しオーストリアという国を守り切ったことで、オーストリア国民からは国母と敬愛されていました。このような状況の中で、マリア・テレジアはモーツァルト一家がフランスから、さらに敵対するイギリスへ渡り、しかも王宮を訪れイギリス国王ジョージ3世から丁重にもてなされたと聞き、イギリス行きを決行したモーツァルトの父レオポルトへの憎悪が高まり、それがモーツァルトにも向けられた可能性があります。
 また、マリア・テレジアの夫フランツ・シュテファンはモーツァルト一家の西方大旅行中に死去し、マリア・テレジアは喪に服していましたが、モーツァルト一家の初めての宮廷訪問でフランツ・シュテファンが提案したといわれる鍵盤の上に布をかぶせて演奏するという、モーツァルトの曲芸演奏についても関心を持っていたと思われます。マリア・テレジアは西方大旅行においてモーツァルトが行った曲芸演奏が皇帝フランツ・シュテファンを侮辱したと感じた可能性もないことはないと思われます。
 一方の若き皇帝ヨーゼフ2世はプロイセンのフリードリヒ2世を尊敬していましたので、モーツァルトがイギリスを訪問し作曲家として経験を積んだことを喜び、前回のようにモーツァルト一家に大金を下賜できない代償として、モーツァルトにオペラを作曲するように勧めたものと思われます。モーツァルトはただちに歌劇「ラ・フィンタ・センプリチェ」K.51の作曲に取りかかりました。

【音楽史年表より】
1765年8/18、モーツァルト(9)
女帝マリア・テレジアの夫で神聖ローマ皇帝を継承していたフランツ・シュテファンが死去する。フランツの死後、神聖ローマ皇帝位は長男ヨーゼフ2世に引継がれ、またフランツ自身の領地であったイタリアのトスカーナ大公国は3男レオポルト(後の皇帝レオポルト2世)に引継がれる。(1)
1766年11/29、モーツァルト(10)
モーツァルト一家、ザルツブルクへ帰郷する。(2)
1767年9/11、モーツァルト(11)
モーツァルト一家は、従僕ベルンハルトを伴い、再びウィーンに向けて出発する(第2回ウィーン旅行、約1年4ヶ月)。大司教がこれ程早く旅行の許可を与えたのは、前回の西方旅行の成果を認め、一家の活躍がザルツブルク宮廷の名誉になると考えたからにほかならない。今回の旅の目的はウィーンで近く執り行われることになっているマリア・テレジアの第9皇女マリア・ヨゼファ・ガブリエラとナポリ王フェルディナンドの婚礼に合わせ、子供たちを売り込むことであった。ところが、花嫁のマリア・ヨゼファは折から流行し始めた天然痘に感染し、10月半ばに世を去る。(3)
10/26~12/23、モーツァルト(11)
モーツァルト一家はウィーンで流行していた天然痘を避けるためオルミュッツ(現在のオロモウツ)に滞在する。ヴォルフガングはオルミュッツ到着から10日ばかりの間病に苦しむ。その後、姉のナンネルが発病、11月末には回復する。(2)
12/24~1768年1/9、モーツァルト(11)
モーツァルト一家、ブリュン(現在のブルノ)に滞在する。(2)
1/19、モーツァルト(11)
モーツァルト一家、ウィーンに帰着する。(2)
モーツァルト、宮廷を訪ね皇太后マリア・テレジアと若き皇帝ヨーゼフ2世に謁見する。ウィーン宮廷では、かつてそこを支配していた生き生きとした陽気さは、今や暗い悲しみに席を譲っていた。ナポリ王の許嫁だった皇女ヨゼーファはひどい流行性天然痘で亡くなっていた。かろうじて同じ運命から逃れたマリア・テレジア自身は、1765年に亡くなった夫のことを悼み、あらゆる祝祭や楽しみから遠ざかっていた。彼女は自分と亡くなった夫に多くの喜びを与えてくれた2人の神童が到着したと聞いたとき、この子供たちをすぐに宮廷へ呼び寄せた。・・・女帝陛下はモーツァルトの母に親しく話しかけられ、子供たちの天然痘や長い旅行のこまごまとしたことについて話をされ、一方若き皇帝ヨーゼフ2世は父レオポルトやモーツァルトと音楽やその他たくさんのことについて話をされ、この時の謁見は2時間に及んだ。この時、ヨーゼフ2世がモーツァルトにオペラの作曲を勧めたといわれる。正式な依頼ではなかったが、モーツァルトは皇帝の言葉を頼りに8ヶ月を費やしてオペラ・ブッファ「ラ・フィンタ・センプリチェ」K.51を作曲する。年若い皇帝ヨーゼフ2世は、功利主義的な教条主義にとっては比較的むだなものと思われた贈り物のような支出を好まなかった。ヨーゼフ2世はモーツァルト一家の友人であり、保護者であることを12歳の少年にオペラを1曲作曲せよという命令を下したことで示した。若い作曲家は燃えるような熱意に満ちて即座に仕事にとりかかった。(4)
【参考文献】
1.最新名曲解説全集(音楽之友社)
2.モーツァルト事典(東京書籍)
3.西川尚生著・作曲家・人と作品シリーズ モーツァルト(音楽之友社)
4.ベルモンテ著・海老沢敏他訳・モーツァルトと女性(音楽之友社)

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