コミケの夢を見て、涙で頬を濡らして起きた。

私はしがない主婦である。なんでnoteにこの話を書こうと思ったのかは、きっと昨日読んだシャーペンの記事がとても良かったからだろう。夢の話を書き留めておきたいと思うのは多分人生でほぼ初だ。

コミケに一般参加をする夢を見た。自分のハマっているジャンルの本を買い漁った後向かったジャンルは文芸、創作、旅行記といった普段行かないジャンルで、多分行く必要性はなかった、なんとなく同じ場所でやっていたから行った、という認識の夢。

そして、私は夢の中で一冊の本に出会った。もうそれは自分でも忘れるぐらい昔、葉鍵というジャンルにハマって男性向けの三日目に行った十年以上前のコミケで、ふらりと寄った創作ジャンルで買った本、表紙に覚えがあった。

信じられない思いでその本を手に取り、でも、めくれば確かに読んだ記憶があって、隣には新刊が並んでいた。懐かしさのあまり私はサークル主に声をかけ、新刊一冊ください、と言い、ずっと昔にあなたの本を買ったことがあるのだと伝えたところで――自分が泣いていることに気づき目が覚めた。

私はコミケに行くこともいつしかなくなり、創作からも離れていた期間も長い、そもそもサークル参加などしたことはない。常に一般参加だった自分だが、コミケはいつでも当たり前のように開催されて、そこに創作の礎のように存在していると思っていた。

だが、今回コロナによってコミケは初めて中止になった。次回は延期、その先も道筋は不透明なままである、100回目を迎えられるのかも分からない。

こんな状況下では、もう対面で夏と冬のあんなに厳しい時期にやらなくてもいいのではと、オンラインや何か他に新しいスタイルがあるだろうと、そんな意見を目にすることもある。それはそれで時代の流れなのかもしれない。

でも、そこには出会いがない。元々知っている好きなジャンルの本を買うだけで、少し気になるからとついでに見に行くこともなく、なんとなく通った通路で気になる表紙を見つけて足を止めることもない。ましてや十年前にあなたの本を買った、なんてミラクルが起きることもないだろう。それがただ寂しい。

昨年、十年以上ぶりに二次創作に舞い戻り、冬のコミケに行った。変わらぬ熱気に不思議な安心感を感じたのを覚えている。当人の体力が足りなくてあまりウロウロ出来なかったのは心残りだが、行きたくなったらいつでも行けるのだ、と思って帰路についたあの冬コミが、最後になる可能性だって、ゼロではないのだ。

あの場は永遠でも絶対でもない。そんな当たり前のことを突きつけられた2020年、コミケに人生かけているわけじゃなくても、もどかしい気持ちを抱えている人は、きっと自分だけではないと思う。ただ、石油王でも億万長者でもない自分に何が出来るのか。

そう思っていた矢先の夢だった。十年前に本を買ったことがあると言われたサークル主が嬉しいかどうかは不明だが、手放しても尚記憶に残る同人誌の数々は、コミケの思い出とリンクしている。素敵なコスプレを見て目を奪われ、無心で通路を歩き東西を往復し、真夏の暑さの中、嵐の中、見も知らぬ人とただ本を求めて列に並んだ記憶。

場は、参加する人がいなければ簡単に消えてしまう。だから、「創作の火を絶やすな」と、掲げているのだろう。そして、自分に出来ることも、それしかない。

本をつくろう。

場を存続させるとかそんな大層なことはきっと出来ないけど、好きなものを好きだと堂々と主張できる当たり前の幸せを原稿に注ぎ込もう。

十年後、コミケという場を老兵が語り継ぐ戦場にしないために


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