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生きる と 活きる

コロナ禍でTwitterの閲覧時間が1日の大半を占め始めた頃、死なない杯というものがあるのを知った。

『自分で自分の生活を作る』
悩みに悩んで、締め切りギリギリにパソコンを立ち上げた。
そして、やっぱり、締め切りには間に合わなかった。

丁寧な生活を営むということがとても苦手なわたしは、いつだって自分の声を無視して生き続けてきた。
『生活を送る』ということを考え始めた途端に、無気力になってしまうのでとことん生活に向いていない。

巷ではどうぶつの森が流行ってるらしい。
自分で自分の生活を作り上げて、営み続ける、そんなゲーム。
現実世界でもこんななのに、ゲームの世界まで勘弁してくれよなんて思いながら友人たちのそれぞれの島を横目でみる。
そこの動物たちは常に笑顔で思わず心配してしまうくらいだった。
「ここはストレスフリーだから」と、私にそのゲームを薦めてくれた彼はそこに楽園を見出せたのだろうか?

私は簡単に幸せに溺れられる楽園にいるくらいなら、この地獄を選ぶ。
幼き頃に読んだ、ダンテの『神曲』の挿絵が脳裏にこびりついている。
人生の縮図みたいだ、なんてそのとき思って以来わたしはずっと地獄にいる。
ここは心地が良い。
安直に手に入れた幸せに囲まれて過ごす人たちは、どんどん貪欲になっていくように思える。
『理想の、幸せな、生活』を送る彼らを見ても魅力的に思えないのだから、わたしはやっぱりここにいたいのだ。

頑張ってここから抜け出したとしても、煉獄にしかいけないのだから自分の歩みでいくしかないのだという半ば諦めの心持ちが私を生かしてくれる。
このどう足掻いても変わらない状況下でお前はどう生きるんだい?
私の耳元でわたしが囁く。
そうだなあ、とりあえずは好きなものに振り切ってみるよ。

好きなものが生活の一部になった時、少しずつ色んなものが昇華されたような気がした。

映画を観る、音楽を聴く、演劇を観る、散歩をする、写真を撮る、読書をする、お花を買う、洋服を買う、コーヒーを淹れる、カフェに行く、好きな人たちに会いに行く。

好きなもので溢れさせたら、いつの間にか『生活』をしていた。
生きることには必死にはなれないけれど、生きる為に必死になれることはあるのだと気がつく。

希死念慮を抱きながら息を吸っては吐き続ける私は、やっぱり楽園は居心地悪いからずっとここにいることにするよ。
それは悪いことでもなくて、ただ人の目を気にすることもなく、貪欲になることもなく、自分の歩みを自分で決められるということで。

希死念慮。
生を意識すれば、それは色濃くなっていく。
恋人かのようにぴたりと隣にくっついてくる、それを、私は払い除けることがどうしてもできない。
その『選択肢』をいつでも取ることができるからこそ、好きなことに振り切れるのかもしれない。

どうぶつの森はどう頑張っても好きになれないのだけど、たまごっちは好きだった。
どちらも生活にフォーカスを当てているけれど、後者は終わりがあるからできていたのかもしれない。
画面に表示されるあの輪っかを見るたびに少し悲しくなるくらいにはきちんとのめり込んではいたよ。

『自分で自分の生活をつくる』
私は終わりに向かって、歩いていく。
好きなものに囲まれて、自分の歩みに任せて。
明日も好きなものに触れながら生きていく。
そうやって、私はわたしの生活をつくっている。


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