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ともだち

 ずっと昔、とても親しくしていた子が訪ねてきた。
 彼はまるで、昨日会ったかのように、
「やあ」
 と、声を掛けてきた。その子は昔のままだった。顔一面に薄く灰色の産毛が生えて、吊りあがった大きな目を瞬くと、カメラのシャッターが切れるような音が幽かに聞こえる。
 久しぶりだねえ、と云うぼくに、「なんで? 二日会わなかっただけじゃん」と、彼は不思議そうな顔をした。
「そんな訳ないだろ、あの市営住宅から引っ越して以来、会ってないよ」
 その子はふふふと嗤って、
「なに、変なコト云ってんのさ」と、ぼくの肩を小突いた。
「その左手のホータイ、こないだ箱ブランコの骨組みが仆れてきて、爪が四枚取れちゃったやつじゃないか」
 ああ、そんなことがあったな、とぼんやり思い出した。まだ四つかそこらの話だ。母親が適当に治療したから、堀内先生に叱られていたっけ……。何十年も前の出来事である。しかし、自分の左手に目を遣ると、少し汚れた包帯が巻かれていた。
「もう、痛くないの?」
「ぜんぜん」
「かず君、あんまし痛いって云わないもんね」
 慥かに、それほど痛みに敏感ではない。怪我をしても、痛いだろうとは思うが、それは何処か自分から遠く離れた感覚なのだ。
 ——壁のひとはどうした?
 何のことだか判らず訊き返した。
「壁からじっと見てるヒトが居るって云ってたじゃん、すんげー、怖がってたよ」
 彼は猫科の肉食動物のような目を光らせて此方を覗き込んだ。そして、やっと彼の云うところの「かべのひと」のことを思い出した。
 市営住宅のざらざらした手触りの壁紙は、蔓草のような模様だった。ところどころに子供が描くような、ごく小さいチューリップもどきの赤い花が散っていた。この当時から寝つきの悪かったぼくは、豆球がぼんやり照らすその壁紙を床から天井まで蔓を辿っては、また視線を下ろし、それに飽きると赤い花の数を数えたりして気を紛らわしていた。いつ頃からか、階下のボンボン時計が二回鳴ると、枕のあたりから手を伸ばして其処から更に二十センチほど上に、人の顔のようなものが見え出した。
 はじめのうちは夢だと思っていた——が、それはそう思い込もうとしているだけだということくらい自分でも判っていた。特に恐ろしげな顔ではなかったが、そもそも壁に顔があること自体が不自然であり、恐怖感を与える。
 ぼくは両親と川の字になって寝ていた。みっつ違いの姉は別の部屋で祖母と寝ていた。何かが起きている気配はまったくない。いや、N市の中心地にほど近いとはいえ、矢鱈と緑の多い処だったので(実際、玄関を開けると目の前に小さな林があった)生命の息遣いは感じられた。
 しかし、それは虫とか小動物のものであって、たまに聞こえてくる車の音以外に人間の気配はしない筈だった。それなのに、壁の中ほどを見上げると、男とも女ともつかない顔が、じっと此方を見つめているのである。
 大きくも小さくもない、普通の大きさでもない。なんと謂って表現していいのか判らないのだ。
 このことは誰にも云わなかった。ただ、彼にだけには打ち明けていた。
 彼だけは単純に笑ったり、不気味がったりしないだろうと思ったからだ。実際、彼は「誰だろうね、そのひと」と云って、ぼくと一緒にその正体を考えてくれた。ぼくが寝る狭い畳敷きの部屋で、ふたりで座り込み、何時間も壁紙を視つめていた。
「ぼくが居るから出てこないのかなあ」
 彼はなんとなく、その変な顔を見られなくて残念そうだった。ぼくは午間は出ないんだ、と云い訳をした。
「呼んでも出てこないのかなあ」
 残念そうにしていたけれども、彼は飽きることなく、日が暮れるまで膝を抱えて壁をじっと視つめていたのだった。

      +

 少しづつ子供の頃のことを思い出したが、彼の名前だけが喉に引っ掛かった魚の小骨のように、記憶の裡から出てこなかった。
 彼の名前はなんといったのだろうか。
 顔中に目立つ産毛が生えているものだから、いろいろな中傷交じりのあだ名で呼ばれていたが、ぼくは右足が不自由だったので、そんな蔑称のような呼び方は決してしなかった。それなのに、
 思い出せない。
 彼は僕のことを「かず君、かず君」と幼少の頃の呼び名で親しげに話し掛けてくると謂うのに。そもそも、ぼくと同級ならば四十を越えている筈だ。それなのに、彼は五つのままなのだ。夢なのだろうか。こんなにはっきりした夢があるのだろうか。
 そんなことを考えていて、会話が途切れてしまった夕暮れ。
「もう、暗くなるから帰るよ。かずくん、なんか元気なさそうだからさ、心配してたんだ。かべのひとのことは今度じっくり考えようよ」
 そう云って彼は、ふ、と消えた。

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