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楽園

 覚えているのは、夏の陽射しを浴びてまぶしく光る大樹の揺れる木の葉だった。あれはなんと謂う樹だったのだろうか。誰にも訊かなかったし、誰も教えてくれなかった——つまり、ぼく以外は誰も気にしていなかった訳だ。
 大きな葉を揺らして、夏の太陽の照りつけを遮り、光り、登り易いけれどもすべすべした樹皮で、熟すと赤黒い実をつけた。捥いで口に含むと、ねっとりした甘みと苦みが混じりあって、美味しいとはとても思えなかった。
 彼女は笑いながら、
「それ、毒があるんだよ」
 と云った。
「なんだよそれ、先に云ってよ」
 驚いて振り向いたぼくに、冗談よ、と彼女は笑った。木から滑り降りて、ぼくは彼女を捉まえようとした。そうすると、まるで子供のようにはしゃぎながら、麻のスカートをひらめかせ、裸足で走って此方へ振り向き、
「こうちゃん、もう死んじゃうよ」
 と云って、けらけら笑っていた。ふたつみっつ穫った木の実のひとつを、ぼくは彼女に投げつけた。彼女は、野球選手のようにそれをキャッチし、ぼくの目の前で齧ってみせた。

 ぼくは幼稚園に入った年の夏休みから毎年、中学に上がる迄、毎年叔母の家に預けられた。物事の色々が判るようになってから、その期間、両親が別れるべきか、もう少し考えるべきか、と謂う準備期間のらしきものだったことが判った。
 その理由や障碍になるものがぼくであることが判ったのは、その期間の後半くらいだった。離婚が滞るのにありがちな理由と謂うか、厄介な躓きになるのが「子供」なのだ。それはどちらにとっても、どうすることも出来ない事態である。
 ぼくにとって悲しかったのは、両親のどちらもぼくの面倒を見たがらなかったことだった。彼らはぼくと謂う存在を、泥のように擦りあっていたのだ。
 叔母もぼくと似たような存在だったらしい。親戚中から無視も同然の扱いを受けて、ただひとり彼女を思った祖父が、晩年よくひとりで過ごした山荘を彼女に遺したのだ。
 そして叔母は、その山荘にひとりきりで住み、親族とは殆どつき合いをしなかった。また、血縁の者たちも、彼女とはいっさい拘わりを持とうとしなかった。
 所謂、変人だった訳だ。
 類は類を呼ぶ。
 ぼくも子供とは謂え、周囲に溶け込めず、仲間外れにされていたが、それを苦にもしなかった。幼い心は傲慢な自意識を抱え、周囲の者らに垣根を作っていたのだ。それは、親に対しても同じだった。その頃、ぼくは丸一日声を発しない日すらあった。
 何もかもが煩わしく、己れに味方するものなど誰も居ないと、甘い失望に酔いしれていたのだ。自身に同情することは、甘い蜜に溺れる行為である。我が身を甘やかし、自己の非を棚に上げる。自分は悪くない。被害者なのだと思い込むことで、辛うじて己れを保つ。
 大丈夫、大丈夫。自分は悪くない。
 そんな風にしてぼくは辛い日々を、自己を被害者に仕立てて甘やかすことで乗り切っていた。卑怯な手立てだが、そうとでもしなければ遣り切れなかったのだ。
 そんな日々を過ごしながらも、叔母の家に預けられると一時間も経たないうちに、堰が切れたようにべらべらとあれこれ話しだした。伯母は食卓に肘をつき、ぼくの話が途切れる迄じっと聞いてくれた。説教くさいことは一切、云わなかった。
「そう謂うこともあるわよね」と、感慨深げに頷くのだ。
 ぼくは自分が長々と話した愚痴をぴったりひとことで云い表した叔母の方を見遣り、殆ど尊敬に近い心持ちになった。大人でも斯うやって子供の気持ちが判るひとが居るんだ。そう思うと、なんとなく嬉しくなったのだ。子供たちは(ぼくも子供だったけれど)、相手の気持ちが判るだけに、気持ちが噛み合ない大人より性質が悪かった。
 子供も大人も、ぼくに対して刃を振り翳し、脅してくるような感じがした。それはぼくの心持ちが見せる幻想だったかも知れないけれど、ありありとその凶器が目の前を掠めるのを認めたのだ。その刃の鈍く光る鋒の恐怖を、ぼくは忘れない。
 叔母はどの大人とも違っていた。
 彼女は一族の鼻抓み者で、祖父だけが彼女のことを理解し、可愛がり、自分の隠れ家のようにして居た山荘を彼女に遺した。聞くところに依ると、祖父も(ぼくにとっては曾祖父なのだが)かなりの変わり者で、周囲の人間に理解の出来ない行動をとっていたらしい。
 だが、それがどうだと云うのだ。と、ぼくは思う。ひとと同じことをしなければならないと謂うのは、もの凄く狭い考えだ。個性を大切にしなければ、と云い乍ら、それを発揮した者を排除すると謂うのは酷く矛盾していると、幼い頭で考えていた。
 そもそも、同じ考えをして、同じ行動を取る人間など、この世には存在しないのだから。
 伯母は愚痴でもなんでも聞いてくれたが、自分のことになると、何も云わなかった。ぼくも敢えて訊ねなかった。そして、そう謂う姿勢でいることの方が楽なのかも知れないと思うようになった。
 彼女と接して、どうしようもない繰り言を云っても仕方がないと謂うことが判ってきたのだ。
 だからと云って、伯母が達観した禅僧のみたいな性格だったと謂う訳ではない。思うようにいかないと、よく「ちくしょう、このクソ馬鹿野郎が」と云っていた。それはもの凄く些細なことで、鍋を焦がしたりとか、虫が部屋を飛び廻っているのを獲らまえ損ねた時に云うのだったが。
 つまり、「馬鹿野郎」と謂うのは、自分に対して云っていたのである。

 叔母の家の周りは名も知れぬ樹が取り囲んでいたが、下草の伸びた薮に近い林を抜けると、まるで置き去りにされたような翠色の池が広がっていた。葦が茂り、生き物の気配すらないように思えたが、叔母はポケットに突っ込んでいた小さなカップで池の水を掬い、ぼくの手を引いて家に戻ると、古びた顕微鏡を押し入れから取り出した。
 拡大された池の水の中には、様々な生き物が蠢いていた。
 一心にそれを見詰めていたぼくの背後には、叔母が黙って佇んでいた。その気配を感じることで、ぼくは安堵の気持ちを得ていた。叔母がぼくに何を云わんとしているのか、幼いぼくには判らなかった。片目を瞑って視る微細な生き物を、ただひたすら愉しく眺めていたのだ。
 世の中のひとびとは、こう謂った些細なものたちに目もくれない。それどころか、思い切り目につく段ボールや何やかにかで、簡易の家屋を作って生きているひとびとすらも、見て見ぬ振りをしてやり過ごす。
 役人はそう謂ったひとびとを「見苦しい」と排斥しようとする。そう謂ったひとびとは、労働せず、のらくらと働くものたちのお余りを頂戴して生きる、腐った奴らだと排斥する。ならば、そう謂った生活を一度してみるがいい。
 腐ってもいないものが棄てられたコンビニエンス・ストアーの塵芥箱から弁当を持ち帰るひとびと。脂が浮くからと数時間でドーナツを幾つもの塵芥袋に詰め込み棄てる店員。それを持ち去るひとびと。バイキングだと食べ切れないほど皿に盛って、それを半分も口にしないで他愛もない話に興じる若者たち。電話で注文で受けて、三十分以内に注文した相手が来ないと、まだ充分に美味しく食べられるピザを塵芥箱に棄てるアルバイトの店員。それを持ち去るひと。
 どちらが良いとか、浅ましいとかは語りたくない。
 ただ、こんなことをするのは、世の中で最も知能が高い霊長類の「ニンゲン」と謂う動物だけということだ。他の動物は、喰えるものは喰い、それ以外のものは求めず、余すことを知らない。
 ぼくはこんな根源的な小難しいことに深入りしたい訳ではない。ただ、叔母と暮らした生活の中で、そんなことを朧げに考えただけだ。そして、未だに考え続けている。
 ぼくが中学に上がった年に、両親は離婚し、そのどちらも我が子を引き取るのことを拒んだ。何故なら既にお互い、共に生活する相手を見つけていたからだ。否、今から思うに、その相手が居たからこそ別れ話に発展していったのだろう。ふたりにとって厄介だったのは、ただひたすら、ぼくの存在だったのだ。
 両親は、ぼくを田舎に隠遁している叔母に預けようと思っていたようである。親族たちも(ぼくも)それでいいと思った。
 両親の離婚が書類上でもはっきりした時、親族のひとりが叔母に手紙を出した(彼女の家には電話が引かれていなかったのである)。一向に連絡がつかないことに業を煮やした親族の誰だかが、叔母の住む山荘へ出向いた。
 そこにひとの気配はなく、祖父が遺した家具と書籍だけが冷えきった木造の家屋にひっそりと残っているばかりだった。親戚の者らは叔母の消息を突き止めようとしたが(曾祖父は、彼女に山荘ばかりでなく、かなりの財産を遺していたのだ)、その消息は霧の中に埋もれた人影のように見つからなかった。森にある池の底すら近所の青年団に頼んで探ったが、何も見つからなかった。
 山荘には、叔母を偲ばせるものは何ひとつ残っていなかった。
 調理器具から服から下履き、靴も鞄も、何も残されていなかった。警察に届け出たが、事件性がないとして相手にされなかった。
 相手にされなかったのだ。
 ひとがひとり、持ち物から何からなにまでなくなったと謂うのに、司法は相手にしなかったのだ。
 そして、凡ての事柄から叔母は、消えてなくなった。
 失踪届けが出されたが、誰も積極的に彼女を捜そうとはしなかった。ぼくは、それでいいと思った。生きていようと、死んでいようと、そんなことは些末に過ぎない。彼女はぼくの中に生きていて、ぼくはそれだけで充分だった。
 いつか、ぼくは叔母の年になり、そして、それすら追い抜いてゆくだろう。その時、叔母の気持ちが理解出来るか出来ないかは判らない。その頃には忘れて了っているかも知れない。或いは、叔母とまったく違う立場になっているのかも知れない。そうなった時、彼女に会いたいとは思えないかも知れない。そうならないことを、自分自身に願っている。
 ぼくの理想は今のところ、年若い叔母なのだ。彼女に救われた気持ちを、生涯ぼくは忘れないだろう。自身も多くの傷を抱えていたであろう彼女は、それでもぼくを支えて力強い言葉を寄越してくれた。
 そんな彼女を見下すような、貶めるような親族たちの言動に我慢ならなっかったけれど、それが現実なのだと落胆と共に納得した。大人はなんて、打算的で傲慢で、排他的なのだろう。自分と立場が少しでも違うと、恐ろしいほどに攻撃的になる。相手を殺しそうな勢いで。
 そんな大人にならないように、叔母はぼくを育ててくれたのだと思う。意図したのではなかっただろうけども。それでもぼくは、叔母が目指したであろう将来へ進んでゆきたい。
 それが可能かどうかも判らないし、彼女の理想がどんなものだったのかも、本当のところはぼくにも判らない。。ぼくはまだ子供で、その時期をこなすのに必死になっている。今のぼくは、いつか叔母に会えた時、彼女に笑われないような大人になる為に手を抜いてはならない、ただそれだけを思っているのだ。

 


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