生きる、ということがこの頃わたしにはどうもわからないのです。

　というのもあの人が逝ってしまってからというもの、わたしはこの世の住人ではなくなったようだからです。

　ある朝、わたしは自分が匂いを感じる能力を失っていることに気がつきました。

　あのウイルスの後遺症でしょうか。

　でもわたしにはそれももはやどうでも良いことです。

　ただこれまでも億劫だった食べることが、さらに億劫になったことぐらいのものです。

　わたしは花に水をあげます。

　白百合と黒薔薇です。

　どちらもあの人が大切にしていた花です。

　わたしはせめてこの花たちを枯らさないようにしています。

　わたしが生きている意味は、ただそれだけです。

　愛猫のコマが甘い声で餌をねだってきます。

　わたしの足に体を擦りつけてくるので、わたしはいつものようにコマを撫でてから餌を出してあげます。

　ある朝、わたしは自分から触覚が取り去られていることに気づきました。

　物に触れても、自分に触れても、まったく何も感じません。

　世界がまたわたしから確実に遠ざかったことを感じます。

　でも今のわたしにはそれが相応しいのだと思いました。

　ただコマを撫でた時の、あの優しい毛触りをもう感じることができない、ということが少しだけ悲しかったのです。

　わたしは花に水をあげてから眠りに落ちました。

　目覚めた時、私は音を聴く能力を失っていることに気がつきました。

　世界はとても静かでした。

　わたしはこの世界がとても気に入りました。

　何もわたしの心を乱すことがない、静かなだけの世界。

　いつものようにコマが餌をねだってきましたが、その声ももう聴こえませんでした。

　感触のない手でコマを撫で、匂いのしない餌を出してやります。

　ある朝、わたしは暗闇の中で目を覚ましました。

　いえ、違います。

　わたしの目は見えなくなっていたのです。

　静かで、真っ暗でした。

　私は困りました。

　手探りで花に水をあげようにも、指先に触れているものが何かわからないのです。

　ただ肌に当たる陽の暖かさだけが唯一感じられることでした。

　その時、わたしは理解しました。

　わたしは植物になったのです。

　花になったのです。

　花のわたしは、花として、耳を澄まし、目を凝らしました。

　刹那、冷たく心地良い水の感触を覚えました。

　あの人です。

　あの人が愛おしそうにわたしに水を注いでくれているのです。

　これは夢なのでしょうか？

　これは現実なのでしょうか？

　それともあの世なのでしょうか？

　それはどちらでも良いことです。

　わたしはまた愛するあの人に逢えたのですから。

（了）