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【ショートストーリー】東京幻夜譚―蟲影裂界からの訪問者―

 東京の夜の街路樹が揺れる。
 まるで樹木が警鐘を鳴らすかのように、夜風の中で枝がしなり、幹が軋む。
 だれかに気づかれてはならない。隠れた存在がそこに息づいているのだ。

 人気のない路地裏を過ぎれば、そこには崩壊した建物の姿があった。
 廃墟となった古い木造アパートの一角に、幽霊の瞳のように窓があり、内部が覗ける。
 中を覗くと、誰かが這い上がってきている。
 息も絶え絶えに、ゆっくりとその者は地上に出現する。
 夜が笑うように、木の葉が落ちる。

 その場に佇むものは、外見からは普通の人間に見えた。
 しかし背後から見れば、もうひとつの影が見え隠れする。
 もしかしたら既に存在そのものが二つに裂けているのかもしれない。

 その者は壁に凭れかかり、呻き声すら上げられなかった。
 その一方で、無数の蟲の求め合う音が響き渡っていた。
 これは本当に東京の夜の路地の出来事なのか。
 それともなにか別の次元での現象が沁み出しているのか。
 はっきりとした実感が掴めない。

 おのれが誰なのか把握しかねた、その者は明け方近くなってからようやく立ち去っていった。
 路地裏には蟲の死骸だけが無数に残されていた。

 翌日、ある青年が目を覚ました。
 大学生の錦戸正次郎だ。
 ふと見れば、ベッドの横に蟲がはねまわっている。
 蛾か何かだったが、次第に数が増えていき、正次郎はあまりの数に戸惑う。

 学校に行っても、やはり蟲がちらついているようだった。
 講義室の隅に蟲の死骸が無数に転がり、誰もが気にしているように感じられた。
 しかしほんの僅かな蟲くらいで大人げない、と自分に言い聞かせ、無理やり心を落ち着かせる正次郎だった。
 不気味な何かに巻き込まれる予感がした。

 教室を出ると、今度は校舎の影に不思議な物体が潜んでいるように見えた。

「はは、そんな、気のせいさ……」

 正次郎は敢えて見えないふりをした。

 帰路に就いた正次郎は、いくつかの路地裏を抜けていった。
 しかし一向に気味の悪さが拭えず、むしろそれが募っていく。
 ふと立ち止まると、足元にまた蟲が死んでいる。しかも一匹や二匹ではない、異常なまでに数が多い。まるで殺戮現場のようだった。

 もしやと思った正次郎は、つい先ほど通り過ぎた建物の廃墟を想起する。
 あの場所から蟲が湧き出してきたのだろうか。
 確かめるため、夜の帳に包まれながら、そこを覗いてみた。

 すると、かの者の影がまた窓からちらついた。
 二つに裂けた影が、うねり動いているかのようだった。
 正次郎は恐怖に怯えながら、暗闇に飲み込まれていった。
 彼があげたはずの悲鳴も無言の闇に溶けていった。

 我に返ると、正次郎は見覚えのない部屋の中にいた。
 それが現実世界なのか、異界なのかさえ分からない。
 まるで空間が歪んでいるかのように感じられた。

 そこに蟲の大群がわき上がり、次第に蟲の波となっていく。
 ゾワゾワと波打つ音が広がり、その轟音に正次郎は理性さえ失いかねない恐怖を覚えた。

 すると、奇しくも蟲の集団が人の形態をとった。
 二つに裂けた影と共に、かの者の姿があった。
 正次郎は言葉を失い、そこに立ちすくむしかなかった。

「おまえも気づいたか。この世界は二つに裂け始めている」

 かの者はそう告げた。
 正次郎にはどういう意味なのか分からず、唖然とするばかりだった。

「この世界は、本来二つだったのさ。しかし人間は一方の現実にのみ囚われ、偏りすぎた者は死後に裂かれてしまう」

 かの者はさらにそう語った。正次郎は頭を抱える思いだったが、言われてみればそう不思議なことではない気さえしてきた。

「君も蟲に取り憑かれたくらいだ。もうすぐ気づくはずだ。自分が二つに分裂していることを」

 正次郎は戦慄した。
 自らの存在が二つに裂けるなど、今まで想像だにしたことがなかった。
 一体どういうことなのか。

 すると、ゾワゾワと音を立てる蟲の波が再び押し寄せてきた。
 正次郎は抵抗する間もなく蟲に飲み込まれていく。
 彼の意識はそのままどこかへ流された。

 正次郎が意識を取り戻したのは、また知らぬ間に別の空間に移されていた後だった。
 目に飛び込んできたのは、地続きの蟲の大群だった。

 蟲。蟲。蟲。

 地平の果てまでびっしりと埋め尽くされた蟲の大群。

 そして彼の目の前に立っていたのは、かの者とそっくりな別の存在だった。
 その影は正次郎自身のように映っていた。
 彼は今二つに分裂した自分の内なる別の側面と対峙したのだ。
 互いに全く別の側面でありながら、表裏一体の関係でもあった。

 正次郎は自己の可能性を目撃し、戦慄した。
 しかしやがては心の内なる世界と向き合う選択を取らざるを得なくなるだろう。

 世界は実に二つに裂けており、その二面性を認めるか否かで、
 人生の在り方が規定される。
 そういう試練に、正次郎は晒されているのだ。

 正次郎はその二面性を前にして、深い沈黙に陥った。
 かの者はじっと彼を見つめ、穏やかな口調で語り始めた。

「我々は皆、二面性を内包している。光と影、善と悪、現実と幻想。だが、それを意識する者は少ない」

 かの者の言葉に、正次郎は無意識に頷いた。自分の中にあるもう一つの自己。その存在を認めたくない気持ちと、知りたいという好奇心が交錯していた。

「だが、蟲はその境界を曖昧にする。君が見た蟲の大群、それは君の内なる混沌を映し出しているんだ」

 正次郎の眉間にしわが寄った。内なる混沌とは何か。そして、それをどう受け入れればいいのか。

「混沌と向き合うこと。それが自己と世界を理解する第一歩だ。」

 かの者はそう言うと、手を伸ばし、正次郎の目の前で指を鳴らした。すると、蟲の波が引いていき、静かな空間が広がる。

「君は今、自分自身という大海原に漕ぎ出した。驚異に満ちた海だ。だが、その海を探検することで、本当の自分を見つけ出すことができる。

 正次郎は深く息を吸い込み、その言葉を胸に刻んだ。そして、かの者の目を見つめ返すと、確かな意志を持って問いかけた。

「それで、私はどうすればいいんですか?」

 かの者は優しく微笑んだ。

「探求するんだ、自分自身を。そして、二つの世界を統合する。それができたとき、君は真の力を得ることができるだろう」

 正次郎はその言葉を受け止め、立ち上がった。目の前に再び広がった蟲の大群を見渡し、自分の内面と向き合う決意を固める。

「分かりました。私は、私の混沌と向き合います」

 かの者は頷き、正次郎の背中に手を置いた。その瞬間、正次郎の周りの空間が光に包まれ、彼は新たな自己認識と共に元の世界へと送り返された。

 目を開けると、正次郎は自室のベッドに横たわっていた。周囲は静かで、何事もなかったかのようだった。しかし彼の心には変わらぬ決意が息づいていた。自分自身と向き合い、二つの世界を統合する――その試練に、正次郎は変わらず晒されているのだった。

【終わり】

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