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【太陽神=倭人】〜古書から日本の歴史を学ぶ〜

※このnoteはYouTubeで視聴することも出来ます。

こんにちは、今回は結縄文字という古代文字とそれを使用していた民族についてお話させて頂きます、宜しくお願い致します。

結縄文字とはその名の通り縄を結んで文字にしたもので「キープ」とも云われ、キープとはケチュア語で「結び目」を意味しています。

縄や紐、蔓などを結び、その形や結び目の位置、本数や結び目の数によって情報を伝えたり保存したりします。

本来は海洋民族が数を数えるためのもので、それが後世になり言葉の意味を表す表意文字のような表意縄と発展していきます。

例えばアヒルクサ文字、タネコクサ文字、阿波文字などはキープを連想させます。

キープは古くから東西にわたって使用されていた記憶媒体であり、古代エジプト、インド、中国、ソロモン諸島などの南太平洋諸国、南アメリカのインカ帝国、アメリカの先住民インディアン、南ペルー、そして日本にも結縄の習俗が残っています。

日本では明治時代中頃まで沖縄の八重山諸島の質屋などで実際に使用されていました。

古代日本で結縄文字が使用されていたことは、平安後期の学者である大江匡房が著した[筥崎宮記]にも詳しく書かれているようです。 

インカ帝国では国家の統計記録を管理するのにキープが用いられ、キープの専門家集団のことを“キポカマヨ”またはキープ・カマヨクなどと呼ばれていました。

数え方は十進法が用いられ 、1本の太い縄に数本から数百本の細い縄がつけられ細い縄の結び目の数によって1から9までの数が表されています。
太い縄から最も遠い結び目が一の位を表し、近づくにつれ十の位、百の位の数が表されたといいます。

ヘロドトスが記した[歴史]にはペルシヤ王ダレイオスが結縄文字暦をイオニア人(アカイア人)に託したことが記されています。
インディアンはアルファベットの結縄を伝えています。

結縄について古文書を見ていくと、[桓檀古記]三聖紀の注に《倭 辰 餘国 或は横書きし あるいは結縄し 或は鍥木(けつぼく)す》
とあります。

[史記]三皇本紀や[易経]の繋辞伝には古代中国の伏犠(ふっき)が《初めて書契をつくり結縄の政治にかえた》として
“結縄の政(まつりごと)”という言葉が残されています。書契とは文字のことです。

しかし中国大陸に於ける文字の初見は殷の甲骨文字に始まるので、これより1000年以上昔に設定されている伏犠の時代に書契をつくったというのは矛盾しています。

[旧事紀]の天神本紀には《宇摩志麻治命(うましまじのみこと)が天からもたらした瑞宝をもって主上の魂を鎮め 糸を一から十まで数え結んだ》とあります。

魂を鎮めるために一から十数えるというのは[ウエツフミ]にもニギハヤヒ系統の秘法として記されています。

日本の勲章の一つである瑞宝章はキープの縄を象徴しているのではないでしょうか。

[宮下文書]では結縄を使用して寿命を記録していることがわかります。

古代の年齢の計算法については[竹内口伝]などにもある春秋二倍暦説によって一年に2回歳をとる計算方法が有名です。

[宮下文書]では月を基準にして歳を数えているため1年に12歳増える年齢計算を使用しています。

日数の計算方法は十進法を使用し、算木の棒を用いて、1から1000まで数えると◯を付け、◯を藤のつるで作った輪と交換します。

千単位までは棒で数え、それ以上は輪の数を数えて合計とするので、例えば火火出見尊(ほほでみのみこと)の寿命に十五◯六千余日とあるのは、15の◯と6000で21000となり、現代の年齢にすると58歳となります。
[宮下文書]の◯を万と解釈してしまい「十◯」で一万であるはずか十万と翻訳してしまったのが誤りです。

その後ウガヤ朝の初期は月の満ち欠けを2回繰り返した60日をもって一年と改められ、年齢は200歳から300歳になっていますが300歳を現代の年齢に変換すると50歳になります。

神皇三十三代目(田仲雄男王尊)の時代には殷(商)国は周の武王に滅ぼされ、殷国王の紂辛王の王子が対馬へ渡ります。

この時、暦書を朝廷へ奉呈して十干、十二支を日本で用いて十月重ねて一年、つまり三百日をもって一年と改めたとあります。

十月重ねて一年とする時代はこれより大和朝の人皇十五代応神天皇の時代まで続き、天皇は百済国から阿知(あち)、技師に頼み暦の改正を行なっています。

これ以降は一年は十二ヶ月となり、大は三十日小は二十九日と定められ三年ごとに一ヶ月を加えて一年はおよそ三百六十余日となるようにしました、これを太陰暦と云います。

さらに太陰暦の年月日に十干、十二支を付けて日本の暦が出来上がりました。

この時代より以前は11月と12月(又は1月と2月)は無かったのですが、記紀では12月まであったように書かれていて、暦の説明などは記されていません。

このように結縄を使用して寿命を記録していた[宮下文書]ですが、この書物の作成者は表向きは徐福とされているのですが《大化改新の後 藤原氏の使者がわが物部蘇我の歴史を尋ねて来たので教えた 共同して文書の補正を行なった》と記されているので、[宮下文書]の作成者は物部氏と蘇我氏ということなります。

[出雲口伝]では徐福の和名がニギハヤヒとホアカリであり、饒速日族の中でも筑後国の吉野ヶ里に住んだ者の子孫が、物部となったとありました。

[契丹古伝]では秦始皇本紀の徐福は宛(えん)の徐と書かれていて、宛は現在のウズベキスタンにあった大宛という国家の分国ですが、宛の徐が後の物部氏となり、[旧事紀]では結縄は饒速日一族の文化だったので[宮下文書]が結縄によって王代を記していることとも繋がります。

饒速日、物部、蘇我、の一族が結縄文字を日本や朝鮮半島に持ち込んだ海洋民族だと考えられます。

紀元前2500年頃アラビア海周辺にいたマラ族の船団は[旧事紀]に登場するアマツマラのことですが、マラ族は中国大陸に入ると「徐珂殷」と書かれ、古代インドコーサラ国のシャーキヤ族と同一民族と認識されていました。

[旧事紀]の天津麻羅は始祖をニギハヤヒとし、ニギハヤヒのニギは、カルデア人の一派であるアメニギやニンギルスという神に関係があります。

ニンギルスは、メソポタミアの初期王朝時代の碑文に登場する神で豊穣と戦闘の神とされています。

ハンムラビ法典で太陽神として広く識られるハンムラビの横にいる人物ですが、よく見ると手には棒と輪を持っていますので、彼は記録媒体としてキープを使用していた海洋民族なのではないでしょうか。

そして[宮下文書]にはメソポタミアの歴史と解釈できる箇所が多数存在していることも事実で、ハンムラビの時代南メソポタミアにいた民族が古代日本列島へ渡って来たと考えられ、そのルートはアマツマラの船団を追っていけばわかるのではないでしょうか。

古代史には膨大な学説がありますので、今回の内容はそのうちの一つだと思って頂いて、皆さんも結縄やキープについて調べてみて下さい。このnoteの参考書籍も是非読んでみてください。
最後までご覧頂きありがとうございました⭐︎*

📖参考書籍📖
吾郷清彦・鹿島曻著書「神道理論大系」「倭人大航海の謎」「バンチェン倭人のルーツ」「古史精伝ウエツフミ」「倭人興亡史」
浜名寛祐著書「契丹古伝」
三輪義熈著書「神皇紀」
岩間尹著書「開闢神代暦代記」
E・ドーフルホーファー著書/矢島文夫・佐藤牧夫翻訳「失われた文字の解読 Ⅰ」
渡辺素舟著書「中国古代文様史 上」
斎木雲州著書「出雲と蘇我王国」
三笠宮崇仁著書「古代文化の光」
安本美典氏「先代旧事本紀現代語訳」

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