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【宮下文書】3種の神代文字で書かれた【富士王朝】竹内宿禰と徐福の【系譜】〜古書から日本の歴史を学ぶ〜

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【宮下文書とは】

宮下文書とは富士古文書とも称され、神武天皇より以前の超古代に、富士山麓で栄えたとされる富士高天原王朝に関する伝承を含む古文書です。

宮下文書は不老不死の秘薬を求めて富士に渡来した徐福が、子孫7代に渡って編纂したものと言われています。

ですが正統竹内文書の73代武内宿禰曰く、8代目孝元天皇が正史を作るように命じ、

第一世竹内宿禰が筆録の監修を行ったと言います。

実際宮下文書には竹内宿禰の系譜が明記されていて、徐福の船が紀州に到着した時、案内役をしたのが竹内宿禰だという伝承とも繋がります。

系譜を見てみると、第53代竹内宿禰の名前は時能(畑時能)といい、新田義貞に仕えたこと、第55代竹内宿禰は名前を正宗といい、楠木正行(まさつら)に仕えたことなどが系譜上に記載されています。

宮下文書には徐福の系譜も詳しく明記しています。

徐福の祖国である秦の黄帝第四皇子という人物から系譜は始まり、そこから数えて87代目に当たる人物が徐福になっています、さらに徐福から数えて30代目までの嫡孫の系譜が明記されており、徐福から数えて8代目の人物から姓が福岡になっています。

宮下文書は原文の写本が残っているわけではありません、また、他の古史古伝のように神代文字と漢字仮名交じり文に書き直したものもありません。宮下文書の情報を得ようとした時、三輪義熈(みわよしひろ)氏が書いた「神皇紀」という書物と岩間尹氏が書いた「開闢神代暦代記」という書物からの情報になります。もしくは「神皇紀」の中にある「神皇紀古文書引用書目」という欄に記載の、合計114種の資料が宮下文書と言い換えることもできます。

また、種本の一つとされている寒川文書(相模の寒川神社に伝えられている文書)は、第7代孝霊天皇が作成したと岩間尹氏は主張しています。

「神皇紀」を書いた三輪義熈氏は宮下文書を明治26年に発見してから29年間研究に没頭し、さらに古跡を実地調査し、大正10年6月に「神皇紀」を発行します。

岩間尹氏の「開闢神代暦代記」は昭和47年に発行されています。

【宮下家の初代】

宮下文書には応神天皇の第二皇子、大山守尊(おおやまもりのみこと)は阿祖山太神宮の大宮司にならせ給うたとあります。

この大山守尊の第一皇子、不二尾田長彦尊は宮下の姓を名乗り、宮下源太夫明政と称して宮下家の初代となったとあります。

大山守尊は富士山麓に流れ着いた徐福を丁重にもてなしてした人物です。

初代からは代々、その時代の実録などを加筆伝存しています。

そして第77代宮下義興(よしおき)氏の時、秘封の「徐福伝」「寒川日記」南朝の諸記録を公開する決断をし、明治16年2月に世に発表しました。公開から10年が経って三輪義氏が研究を始め「神皇紀」を編纂することになります。

【内容】

宮下文書は富士山麓一帯を神都、つまり高天原として展開する史伝です。富士山に高天原があった事はホツマツタエの記録とも一致しています。

開闢から神武王朝までの歴史が記録されています。

高天原とは原初の意味では天孫族の出身地、発祥地だと言えます。その高天原の土地を外国にある天竺真郡洲(あまつくにまごりこく)と明記しています。これはかなり本質を突いていると思います。

宮下文書には他にも

富士山の一角に天神および皇祖を祭る太神宮を建立すると記されていたり、

大物主命と猿田彦命が共通の祖先から分かれた事、さらにウガヤ王朝とも祖先が同じだったとしています。

【古史古伝と比較】

宮下文書にある高天原世天神七代というのは日本書紀の第一代国常立尊〜第七代イザナギ尊までと名前が殆んど同じです。

ですが同じなのは名前だけで、内容は全くことなります。

例えば日本書紀では第一代国常立尊を宇宙開闢時の第一の神として独神と説明していますが、宮下文書では夫婦神として地上の高天原(富士山)の神都に居住した天皇である事、さらにこの神こそが豊受大神だと説明しています。

宮下文書にある豊阿始原世地神五代という時代は、記紀でいう高天原やニニギ、ホホデミなどの時代、そして古史古伝ではお馴染みウガヤ朝などが全てこの時代に含まれています。

ウガヤ朝の時代について他の古史古伝と比べて見ると、宮下文書はウガヤフキアエズを51代とし、ウエツフミでは73代、竹内文書では72代、九鬼文書も72代としているため、宮下文書のウガヤ朝は所々抜けていることがわかります。

祭祀やその飾り物、供え物などの伝承は竹内文書とよく似ています。

正書とされる記紀と比べた時、宮下文書はかなり現実的な古文書であり、日数、場所などを明確に記録しています。

宮下文書はウガヤフキアエズ初代の時に外寇を防ぐ目的として富士の高天原から九州の高千穂に都を移したことが明記されています。都を移してからは富士山の神都のことを天都という名前に変更しています。

しばらくは天都に上って即位し、九州に下って皇都を造っていますが、なぜか神武天皇からは大和国橿原で即位しています。それ以降も段々と富士山の天都との繋がりが薄れていき、ついに景行天皇の御代、阿祖山太神宮の副宮守司長、阿祖彦王の一派が天都復旧を企てて反乱を起こします。この反乱をヤマトタケル尊が勅令を受けて鎮圧します。これが東夷征討の真実であると宮下文書では主張しています。

東夷征討後、ヤマトタケル尊は能褒野(のぼの)で亡くなられ、父の景行天皇はヤマトタケル尊を追悼し東国巡幸を行ったとあります。竹内宿禰が先導役となり富士山に登ります、菅原の大塚で福地山(ふくじやま)を拝み、中室の麻呂山で天照大御神の政所の古跡に行き、在所を建てさせました。

これを「麻呂山の宮」といいます。天皇は阿祖山太神宮を祀り、小室の都督となりました。

その後欽明天皇の御代に暴風雨が起こり、麻呂山の天照皇太神宮の古宮などが破損した時天皇はこれを復興したとあります。

この復興の記録を最後に朝廷との公式祭記が途絶えています。

【宮下文書の神代文字】

宮下文書は漢字で書かれていますが、元々は3種類の神代文字で書かれていました。神代文字から漢字に翻訳したのが徐福だとされています。

ではこの3種類の神代文字について見ていきます。

〜原典の歴代記に使用していた神代文字〜

これまで別の動画でもご紹介して来た古史古伝は例外なく、神代文字で書かれているかまたは数種類の神代文字の存在について伝えられていました。

宮下文書「神皇紀」バージョンではウガヤ朝第一代の説明箇所で、天之御中世第十五代 高皇産霊命(たかみむすびのみこと)が色々な物の形を画いて文字となし、これを石に彫ったということが記されています。高皇産霊命が神代文字を作ったことがわかるのですが、字体の説明がないためこの神代文字がどういう系統の物なのかがわかりません。また、この記録を最後に文字に関する記録は出てきません。本の最後に参考書目というコーナーがあり、そこには「神代文字考」や「神代日文伝」と載っているのですが、参考にしただけで本編には記載がなく残念です。

次に宮下文書「開闢神代暦代記」バージョンを見ると、古代文字の説明があります、さらに実際の神代文字も筆写ですが掲載しています、その神代文字というのががこちらです。

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物の形を表した31字の文字と、数を表す17字の文字に分けられており、アソヤマ文字と名付けられています。

数字の方は完全ではありませんが五進法から十進法へ展開しています。

この文字が出来た時代は「天の世」だと書かれています。

次の時代「天之御中主ノ世」には、表音文字の「五十音字」が発明されます、しかしこの文字本体の記載がなく、一例として「アマツアシタフルウ アシタアメノヨ」というカタカナの一例をあげるのみで説明が終わっています。

天之御中主世の5代目神皇、「天之常立比古神(あめのとこたちひこのかみ)」の時から死後に諡が与えられるようになります。

この諡に神代文字が使用されていたと「開闢神代歴代記」バージョンでは明記されています、残念ながら文字本体の記載はありませんでした。

「神皇紀」の書物はなかなか分厚くて読むのに挫折しそうですが、古史古伝では珍しく電子書籍バージョンが出ていて書籍で買うよりもお手頃な価格で読むことができます。(もっと早く知りたかった)

ここではご紹介しきれなかった、地形図、富士山噴火についての記録、天之御中主世から神皇時代までの左大臣・右大臣の系譜なども面白いので是非読んでみてください。

「神皇紀」と「開闢神代歴代記」の種本になった合計114種の資料は今どこに保存されて誰が守っているのでしょうか、現存しているかどうかさえ不明ですがこれらの資料がもう一度開示される日が来ることを切に願います。最後まで読んでいただきありがとうございました。

参考書籍

三輪義熈著書「神皇紀」

岩間尹著書「開闢神代暦代記」

吾郷清彦著書「日本超古代秘史史料」 「高天原論究」

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