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【フェニキア】倭人とユダヤ人【世界最古の王朝】〜古書から日本の歴史を学ぶ〜

※このnoteはYouTubeで視聴することもできます。

今回はフェニキア人とユダヤ教についてお話しさせていただきます、宜しくお願い致します。

フェニキア人というのは、セム系民族で、主にレバノンやシリア、イスラエルの地域に居住していたといわれています。

ヘロドトスの[歴史]には
《フェニキア人は、彼ら自ら伝えるところによれば、古くはエリュトゥラー(ペルシア湾岸)に住んでいたが、この地からシリアに移り、シリアの海岸地帯に住むことになったという》と述べています。

フェニキア人は海洋貿易や航海技術に優れており、地中海全域に商業帝国を築いています。

特に有名な商業帝国やその植民地として、カルタゴ帝国、キプロス島、ウガリット、アルワド、そして[旧約聖書]にも登場するティルやシドン、ツロなどがあります。

フェニキア人の最高神はダゴンやバアルでしたが、商業植民地であったシドンなどではエルとバアルが同化して、天の主バアル・シャミムや山の主バアル・レバノン、バアル・ロシュなどと呼ばれ、カルタゴ帝国の最高神はバアル・ハモンです。


[旧約聖書]列王記では《預言者エリヤはティシュベ(テシベ)の祭司であった》とあり、ティシュベというのは地名であり場所は不明ですがエリヤの出身地とされています。

しかし、ティシュベ又はテシベというのはフルリ人の天候神テシュブ(Teshub)のことで、テシュブはヒッタイト神話において、雷と雨を司る嵐の神として描かれています。

テシュブの別名としてダゴンが使用されており、ティシュベを地名とする説の中にはティシュベはフェニキアの一部であるとする説があるため、通説では預言者エリヤはユダヤ人とされていますが、フェニキア人やフルリ人だった可能性も考えられます。
※ウラルトゥ王国の暴風神ティシュパも同一の神です。


つまり預言者エリヤがダゴン又はバアルの祭司だったのであれば[旧約聖書]にあるエリヤたちがヤハウェを奉じてバアルを弾圧したという部分は創作ではないかと考えられます。

預言者エリヤの時代は紀元前9世紀頃ですが、エリヤがヤハウェを奉じたという部分が創作だっただけでなく、この時代にはまだヤハウェは存在していなかったと考えられます。

そしてフェニキア人はヤハウェを誕生させる1つの要因となった民族であり、歴史上非常に重要な民族でした。

[旧約聖書]の列王記や歴代誌などにはフェニキアの王ヒラムがイスラエル王ソロモンに建築材料や技術者を提供したことや、エルサレム神殿の建設にフェニキア人が協力したことなどが記されています。


紀元前10世紀頃、ユダヤ人はフェニキア人と協力して商業貿易をしていましたが、その後なんらかの理由で両者の協力関係は途絶え、フェニキア人と訣別したユダヤ人は、これまで通りフェニキア人と同じバアル神を祀るのではなく、自分たちだけの神を求めるようになりヤハウェ(ヤーウェ)が誕生します。


ユダヤ人は単なる思いつきでオリジナルの神をつくったのではなく、造らなければならなかった理由があります。



先ずこの時代の世界史を復習していきます。

紀元前922年頃ソロモンが死去し、統一イスラエル帝国は南北に分かれ、北のイスラエル王国と南のユダ王国が形成されます。


紀元前8世紀頃、セム語を話す民族で構成されたアッシリア帝国は最盛期を迎え、多くの民族を征服していました。
その支配はしばしば強制的であったため、民族の間には緊張状態が続いていました。

紀元前7世紀になると、アッシリア帝国は弱体化し始めます。

この時、アッシリア帝国の支配下にいたエルサレムではアッシリアからの独立を求める動きが活発化し、独立運動が起こります。

この時のエルサレムというのはユダ王国のことで、ユダ王国の王たちはアッシリア帝国に対する反乱を企て、周囲の国々と同盟を結んで独立を目指しています。

この独立運動は一時的に成功してアッシリア帝国の支配から脱することができましたが、その後、バビロニア帝国が台頭し紀元前6世紀にはバビロニア帝国の支配下に置かれることになります。

アッシリアやバビロニアがイスラエルを侵略するとき、[旧約聖書]では預言者のエレミヤやイザヤなどが民衆や王に対して戦争を避けるように訴え、「戦っても負ける」と何度も警告しています。

エレミヤは特に「平和の預言者」として知られており、神の律法に従い、平和と正義を求めるように何度も呼びかけていました。

しかし王はエレミヤやイザヤの警告には従わず戦争になり、その結果イスラエル王国やユダ王国はバビロニアによって滅ぼされ、多くの人々が捕虜となってしまいます。

アッシリアやバビロニアはユダヤ人と同じセム族の一派ですが同じ神の下で戦うことはできないので、ユダヤ人は大国と戦うための神ヤハウェを誕生させ、同時にユダヤ人の選民思想が誕生します。

[モーセ]
先ほどモーセがシナイ山で十戒を授かったのは作り話だと言いましたが、[旧約聖書]ではモーセはバアル信仰や生け贄を禁止して2万4千人のバアル信者を討伐したとあります。

しかしその後代にあたるソロモンはエルサレムに立派なバアル神殿を建てていてモーセとは真逆の行動に出ています。

ソロモンがバアル神殿を建てた理由として、異教の妻たちに影響されたと云われていますが、そもそも聖書のモーセに関する伝承のほとんどはダビデやソロモン以降の創作であり、おそらく南北に分かれた後のイスラエル王国で創作されたものです。

モーセの頭には角が生えていることから、おそらく紀元前930年頃までのモーセはバアル信仰の信者であった可能性が高いといえます。

モーセの海を割って歩く神話はバアル信仰のアシェラトが海の上を歩く神話を模倣したもので、モーセとバアルは敵対関係ではありません。

[タルシシ船]
次にタルシシ船についてみていきます。

タルシシというのは聖書に登場する地名であり、「精錬所」を意味するといわれ、金、銀、鉄、錫、鉛などの産地、加工地として広く知れ渡っていました。

[旧約聖書]にはこの貿易の独占権を守るためにタルシシの貿易拠点を秘密にしたとあります。

列王紀には《ソロモン王は海にタルシシの船隊を所有して(中略)三年に一度、金、銀、象、猿、孔雀を乗せて来させた》とあり、孔雀はインドやスリランカに生息しているため、インドやスリランカにもタルシシ船が来航していたことがわかります。

タルシシ船がインドに到着したのは紀元前10世紀頃といわれています。

ソロモンが度々船をケララに寄せたとの伝説があり、インド南西部のマラバール海岸には現在でも古代ユダヤ人の子孫であるコーチン・ユダヤ人が住んでいます。


その後年代は諸説ありますが、タルシシ船は東方への貿易活動の一環としてマレー半島に到達したとされています。

マレー半島の神話にある、鹿がソロモンの命令を受けてワニを数えに来たというワニだまし神話ですが、この伝承にはソロモンの名が残っていることからインドからマレー半島に到着したタルシシ船によって持ち込まれた伝承だと考えられています。

インドの叙事詩[ラーマーヤナ]にも動物の大群が橋をつくり、王子ラーマがその橋を渡ってシーターを救出するという物語が伝承されています。

この神話と類似しているのが日本の因幡の白兎の神話です。

大物主のワニだまし神話の直近のルーツはマレー半島のソロモン神話であり、これがユダヤに繋がるバアル信仰の倭国でこの人々の信仰が今日の神道の柱となっているので、縄文と神道は直結していません。

白村江の戦いで倭国の王朝は滅び、そのあとで今日の天皇家の歴史が日本列島で始まっています。
※詳しくは古代王朝のnoteをご覧ください。


タルシシ船の船団はインドやマレー半島の他にも様々な国に到着して貿易活動を行っています、その一つであるエチオピア帝国についてみていきます。

エチオピア帝国最後の皇帝であるハイレ・セラシエ1世はソロモン王とシバの女王の間に生まれたメネリク1世の子孫であり、第二次エチオピア戦争(1935年〜1936年)後にソロモン朝(近代)が滅亡したことで日本の天皇は世界最古の王朝に繰り上がりました。

7世紀以降に始まった輝かしい歴史を持つ天皇家ですが、その歴史を辿るとかつてアッシリア帝国と覇権を争ってキンメリアと同盟し、大陸を東へ移動したウラルトゥ王朝の末裔です。

[日本書紀]によれば663年の白村江の戦いで倭国は百済救援(きゅうえん)に向かい、第一派だけでも約1万人の完全武装した兵士、プラス馬を170隻の船で出動させています。
しかし白村江の戦い後、約40年後には3隻や4隻の渡航が生きるか死ぬかの命がけの航海となっています。

これらの記述から、白村江の戦いで実際に戦っていた倭国と、遣唐使を派遣していた倭国は同一ではないことが考えられます。


白村江以前の倭国はフェニキア・エブス・ユダヤなどに繋がる民族で構成されており、白村江以降の倭国は陸出身の民族が主要の国となり国名が日本に変更されます。

陸のウラルトゥ王朝などにルーツを持つ天皇には造船技術はなく、遣唐使を渡航させるのに大変苦労した様子が[日本書紀]や[続日本紀]などからも伺い知ることができます。

先ほど、ソロモンのワニ騙し伝承が日本では大物主の因幡の白兎伝承になったという話をしましたが、二つの神話を合わせると

ソロモン王の命を受けたタルシシ船がマレー半島にやって来て、タルシシ船の鹿または兎がドラヴィダ族のワニ船(帆船)を並べて数え、ワニ船はタルシシ船にだまされた、となります。

[宮下文書]の左右大神大系譜・神代第二期にある大物主の系譜を見ると、大物主の父が天大食雄命(あまのたじおのみこと)となっていて「大食」はアラビアのことなので大物主の出身地はアラビア半島にルーツがあることがわかります。

大物主はアラビア半島からインド、マレー半島、そして日本列島という経路で到着したのではないでしょうか。

[宮下文書]にあるエビスノミコトはエブス人のことであり、[旧約聖書]ではエブス人はダビデ王以前にエルサレムに先住していた人々で、ダビデ王はエブス人との同盟によってエルサレムに建国することができたのでタルシシ船にもエブス人が関与していたと云われています。


サムエル紀にはフルリ人の「アラウナはエルサレムのエブス人である」とあり、ヨシュア記には「エブス人即ちアモリ人」という表現が使われていて、エブス人というのは広義のフルリ人やアモリ人とも言えます。

フルリ人の天候神テシュブの別名はダゴンなので、フェニキア人と同じ神を信仰していたと考えられます。

フルリ人というのは紀元前2000年頃の中東における最も優勢な民族であり言語はアッカド語のくさび形文字とシュメール語の表意文字を借用した膠着語で、根拠地の地名はスバルです。

正統竹内文書では人類は宇宙から来て、故郷の星の名前がスバルだとありますが、おそらく地球上に存在した古代の地名です。

古事記の動画では「伏犠」や「北狄」「和義(ニギギ)」が陸経由のフルリ人だというお話をしましたが、
※ セム族のグート族やミタンニ人などと混血した民族
今回のフェニキア人と関係があるのは後にエブス人やアモリ人と称したフルリ人であり、アラビア、インド、マレー半島の海経由の一派です。


フェニキア人とユダヤ人は元々はエルやバアル、ダゴンなどの同じ神を信仰していましたが、アッシリアからの独立運動の流れでユダヤ教が誕生し、大国と戦うための原動力として、神がユダヤ人を特別に選んで特別な使命を与えたという選民思想が成立したのではないでしょうか。
※ユダヤ人の形成とユダヤ教の誕生は同じ時期ではありません。


つまりユダヤ教は紀元前7世紀以降に成立した宗教で、それ以前にインドやマレー半島、日本へ到着したタルシシの船団はバアル信仰であり、日本の神道がユダヤ教ではなくバアル信仰の方が関係が深いというのはこのような理由からです。

「夷」を「えびす」や「えぶす」と読むのは「夷」がエブス人を指しているからで、[後漢書][宋書][隋書]では倭人(南倭)は九夷や東夷、夷の一種だとあります。

ベトナムの史書[大南寔録]では夷は水を意味するとあり、[越絶書]では夷は海なり とあります。


倭人はイスラエル民族が定着する以前からカナンに先住していたエブス人にルーツを持つ海洋民族であることがわかります。

古代史には膨大な学説がありますので、今回の内容はそのうちの一つだと思っていただいてぜひ皆さんも調べてみて下さい。下記の参考書籍もぜひ読んでみてください。

最後までご覧いただきありがとうございました😊


📖参考書籍📖
鹿島曻「倭と日本建国史」「日本ユダヤ王朝の謎」「史記解」
日本聖書協会「旧約聖書」
三輪義熈著書「神皇紀」
岩間尹著書「開闢神代暦代記」
佐治芳彦著書「謎の宮下文書」
家永三郎著書「日本書紀」
中村啓信著書「古事記 現代語訳付き」
黒板勝美著書「国史大系 日本後紀」
ボリス・ピオトロフスキー著 加藤九祚訳「埋もれた古代王国のなぞ 幻の国からウラルトゥを探る」
大林太良編集「民族の世界史6東南アジアの民族と歴史」
鳥越憲三郎著書「古代中国と倭族」
小谷部全一郎著書「日本及日本國民之起原」
三笠宮崇仁・赤司道雄著書「フィネガン古代文化の光」
三森定男著書「印度未開民族 」
石原道博著書「新訂 魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝」「新訂 旧唐書倭国日本伝・ 宋史日本伝・元史日本伝」
吾郷清彦著書「日本超古代秘史史料」 「高天原論究」

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