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【任那vs新羅】倭国最大の国家【金官加羅】〜古書から日本の歴史を学ぶ〜

※このnoteはYouTubeで視聴することも出来ます。

こんにちは、今回は伽耶諸国の金官加羅についてお話しさせて頂きます、よろしくお願い致します。

金官加羅は金官国や駕洛国とも呼ばれ、所在地は韓国の慶尚南道の金海市という場所を中心に存在したと云われています。

[三国志]や[後漢書]では狗邪韓国ともいい、3世紀頃は半島南部の加羅諸国中最大の国家だったと考証されています。

残念ながら[三国史記]と[三国遺事]にはこの国について詳しくなく、わずかに[三国遺事]の駕洛国記にまとまった記録があるのみです。

まずは建国神話を見ていきます。

駕洛国記によると
《後漢の世祖、光武帝の建武18年壬寅(42年)三月、禊浴(けいよく)の日に彼らが住んでいた村の北側にある亀旨(くじ)に皆んなを呼ぶ怪しげな声がした〈中略〉しばらくたってから空を仰いでみると紫色の紐が天から垂れてきて地面についた 紐の端をみると紅いふろしきがあり その中に金色の合子が包まれていた それを開いてみると中に黄金の卵が6個入っていて太陽のように円い しばらくして再びそれを包み かかえて我刀干(あとかん)の家に持ち帰り 床のうえに安置してみな解散した 

翌日の夜明け方に大勢のものが集まって来て それを開いてみると6個の卵が化けて男の子になっていた〈中略〉日に日に大きく育ち 顔は竜に似てあたかも漢の高祖のようであった〈中略〉その月の15日に即位した 初めて現れたというので諱を首露といった あるいは首陵ともいう(謚号)  国を大駕洛または伽耶国と称したが これは六伽耶の一つであり残りの五人もおのおのかえって五伽耶の主となった》
とあります。

駕洛国記によれば伽耶六国は金官伽耶・阿羅伽耶・古寧伽耶(こねいかや)・大伽耶・星山伽耶(そんさんかや)・小伽耶とあり、この6つの国が伽耶の主要な国々だとあります。

[三国遺事]に記されている王統は次のようになっています。

金官加羅の初代国王は首露王で在位期間は西暦42年〜199年、王妃は阿踰陀(あゆだ)国の王女、許黄玉(きょ こうぎょく)という人物です。

首露王陵の正門の大梁に刻まれた双魚文様は、古代インド、アヨーディヤの建築紋章の特徴と一致していることから、アユダは古代インドのアヨーディヤと比定されています。

許黄玉は金官加羅第2代目の王、居登王(きょとうおう)を産みます。居登王の在位期間は199年〜259年です。

居登王の妃は、許黄玉の付き人であった官職の娘、慕貞(ぼてい)という人物で慕貞は第3代目の王、麻品王(まひんおう)を生みます。在位期間は259年〜291年です。

さらに麻品王の妃も古代インドから付き人として渡来していた趙匡(ちょうきょう)の孫娘、好仇(こうきゅう)という人物です。

麻品王と好仇の間に生まれたのが第4代目国王居叱弥王(きょしつび おう)で在位期間は291年〜346年です。
王妃は阿知(阿躬阿干の孫)で第5代目の国王、伊尸品王(いしひんおう)を生みます。

伊尸品王の在位期間は346年〜 407年で王妃は貞信(ていしん)(司農卿の克忠の娘)という人物で第6代目国王坐知王(ざちおう)を生みます。

坐知王の在位期間は407年〜421年で王妃は傭い女を娶り、その女性の仲間に官職を与えたため国中が騒ぎ立てたとあります。

さらに鶏林国が討伐しようと謀ったが、娶った女性を追い出して荷山島に流し政治を改めたため長く民を安らかにしたとあります。

正式な王妃は福寿(ふくす)(道寧大阿干の娘)という女性で、第7代目国王の吹希王(すいきおう)を生んでいます。

吹希王の在位期間は421年〜451年で王妃は仁徳(進思角干の娘)です。仁徳(進思角干の娘)は第8代目国王の銍知王(ちつちおう)を生み、銍知王は首露王と許黄玉の冥福を祈るため王后寺を建てたと記されています。

在位期間は451年〜492年で王妃は邦媛(ほうえん)(金相沙干の娘)です。

邦媛は第9代目国王の鉗知王(かんちおう)を生み、鉗知王の在位期間は492年〜521年、王妃は淑(しゅく)(出忠角干の娘)で金官加羅最後の第10代目国王仇衡王(きゅうこうおう)を生みます。

仇衡王の王妃は桂花という人物で長男に世宗角干、次男に茂刀角干、三男に茂得角干がいます。

仇衡王は保定(ほてい)2年壬午9月に新羅の第24代目国王、真興王が軍をおこして攻めてくると降伏したとあります。

保定という元号は、北周の武帝の治世に使用された元号で561年1月から565年12月まで使用されています。
つまり保定2年 は562年ですが、
[歴代三宝紀]には《梁(りょう)の中大通4年壬子に新羅に降った》とあり、中大通4年壬子は西暦532年です。
[三国史記]でも新羅に降伏した年は532年となっており正確な年は定かではありません。
※中大通=武帝蕭衍の4番目の元号

金官加羅は西暦42年に首露王によって建てられ532年から562年の間に滅びたことが記されていました。

以上が金官加羅国の基礎知識です。



次に[日本書紀]に登場する駕洛国について見ていきます。
※日本書紀では駕洛国を主に加羅と記している

[日本書紀]のヲホト王(26代継体天皇)の第十七には、任那には久斯牟羅(くしむら)という加羅の領地が含まれていたことがわかります。

さらに479年、加羅の荷知王(はじおう)が南朝の斉に入貢して〈輔国将軍本国王〉(ほこくしょうぐんにむなおう)という称号を得ていることからも当時、本国任那の責務を果たしていたのは加羅だったことがわかります。

[日本書紀]欽明二十三年紀には、
原文
廿三年春正月新羅打滅任那官家 一本云廿一年 任那滅焉 總言任那別言加羅國 安羅國 斯二岐國 多羅國 卒麻國 古嗟國 子他國 散半下國 乞飡國 稔禮國合十國

《新羅、任那官家(かんけ)を打ち滅ぼす 一本に曰く二十一年に任那滅ぶという すべては任那と言い 別けては加羅国 安羅国 斯二岐国(しにきこく)多羅国 卒麻国(そまこく)古嗟国(こさこく)子他国(こたこく)散半下国(さんはんげこく)乞飡国(こつさんこく)稔禮国(にむれこく)合わせて十国》とあり、
[三国遺事]では駕洛国の主要な国6つの記載がありましたが、[日本書紀]では十国の国名が記されています。

【金官加羅の滅亡】
次に[日本書紀]ヲホド25年(531年)の条を見ると、百済本記曰くとして次のように記されています。

任那王の己能末多干岐(このまたかんき)が倭に来て新羅の侵略を防ぐための援助をヲホト王に乞うたとあり、当時の任那王がいた国と新羅が交戦状態であったことを記しています。

これは[三国遺事]にある金官加羅と新羅の抗争を指していますので、助けを求めた任那王は金官加羅の国王というのとになります。

ヲホト王は近江毛野(おうみのけな)に出兵を命じ、6万人の兵を率いて任那へ向かって出発したとあります。

新羅は筑紫国造(くにのみやつこ)磐井と通じて近江毛野の兵を妨害し、そこから磐井の乱が勃発したとあります。

磐井の乱の後、529年3月には近江毛野を任那安羅へ派遣し、新羅との領土交渉を行わせていることから、本国任那の名称は金官加羅国から安羅へ移ったことがわかります。
安羅の領地は筑紫を含んでいたので新羅-筑紫-安羅は協力関係にあったと考えられます。

新羅に味方して任那(金官加羅)の援軍を妨害したとされる筑紫磐井という人物は大伴磐のことで、彼の父である大伴金村は宣化天皇2年の537年

原文
二年冬十月壬辰朔 天皇以新羅冦於任那 詔大伴金村大連 遣其子磐與狹手彥以助任那 是時磐 留筑紫執其國政 以備三韓 狹手彥 往鎭任那加救百濟

朝鮮半島において新羅が任那を侵攻したため、宣化天皇の命をうけて息子の磐と共に任那救援に派遣されています。
この時、磐は筑紫国に留まって国政を司った、とあります。

磐井の乱の後、本国任那の名称は安羅に移ったことからも大伴は安羅の王族ではないかと考えられます。
伽耶諸国の一国である安羅は新羅側につき、金官加羅を裏切る形となりました。

この安羅の裏切りは後の白村江の戦いで新羅の重臣となった金官加羅の旧王族が唐と手を組み倭国の水軍を大破させたことにも繋がります。

“いつの世でも親類縁者がもっとも危険な敵となる”と出雲口伝にもありましたが白村江の戦いはその言葉通りの歴史だったことがわかります。


引き続き金官加羅の滅亡について調べていきます。
[三国遺事]では532年に金官国を捨てて新羅に走った国王は仇衡王だとされていますが、[三国史記]と[海東繹史(かいとうえきし)]には仇衡王ではなく仇亥王とあり、両者は同一人物だとされています。

しかし[東史年表]には521年鉗知王が死に、子供の仇衡が立った。

532年仇衡王は新羅の侵略のために国が弱まるのを憂いて位を弟の仇亥に譲った。
このため仇衡王の諡ほ譲王と云うとあります。

つまり仇衡王と仇亥王は同一人物ではなく兄弟です。

弟の仇亥は兄から王位を譲られたのち、国をもって新羅の配下となり、金官加羅国は滅びます。仇亥は金官加羅最後の王であり諡は末王です。

そして[三国史記]新羅本紀では金官国の国主である金仇亥が妃および3人の王子と共に国の財産と宝物を携えて新羅に帰服してきたため、法興王は礼をもってこれを遇し上等の位を授けたうえでその本国を封地として与えたとあります。

仇亥王の王子の中でも三男の武力は特に新羅王に仕えて官位(角干)まで昇進したとあります。

では兄の仇衡王は弟に位を譲ったあと、どうなったのか、朝鮮半島の文献にも日本の文献にも彼がその後どうなったのかは全く書かれていません。

一説には[三国史記]での仇衡王は[日本書紀]で倭に来て援助を乞うたとある任那王己能末多干岐とする説がありますので、詳しい内容は鈴木武樹氏著書「消された帰化人たち」を読んでみて下さい。

【まとめ】
今回は[三国遺事]にある金官加羅の系譜を初代から順番に見ていきました。
[日本書紀]では金官加羅と新羅の抗争のことを任那と新羅と抗争として取り上げていました。
この時に新羅と通じていたのは筑紫国造磐井であり、筑紫国は当時安羅の領地であったことから新羅と安羅vs金官加羅の抗争だったのではないか、というお話でした。

古代史には膨大な学説がありますので、今回の内容はそのうちの一つだと思って頂いて是非皆さんも調べてみて下さい。概要欄に記載の参考書籍も読んでみて下さい。最後までご覧頂きありがとうございました♡*

📖参考書籍📖
金富軾/林英樹訳「三国史記」
一然著 金思燁訳「三国遺事 完訳」
申采浩著書/矢部敦子訳 「朝鮮上古史」
鹿島曻著書「倭と日本建国史」「日本ユダヤ王朝の謎」
鈴木武樹著書「消された帰化人たち」
家永三郎著書「日本書紀」
鹿島曻/吾郷清彦/佐治芳彦著書「倭人大航海の謎」
東洋文庫「三国史記1新羅本紀」
本田済編訳「中国古典文学大系漢書・後漢書・三国志列伝選」
ミスペディア編集部「面白いほどよくわかる朝鮮神話」

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