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【ウラルトゥ王国】忘れ去られていた謎の国【紀元前9世紀〜滅亡】

※このnoteはYouTubeで視聴することも出来ます。

こんにちは、今回はウラルトゥ王国ついてお話しさせていただきます。
宜しくお願い致します。



ウラルトゥ王国というのは紀元前9世紀の中頃、西アジア中央部のアルメニア山地に形成された王国で、ウラルトゥは“アララト”の名で旧約聖書にも登場しています。


ウラルトゥの初見は紀元前1300年頃のアッシリア碑文に見られ、現在知られているウラルトゥについての情報のほとんどはアッシリアの文書から得られたものです。


ロシアの歴史学者ボリス・ピオトロフスキーが記し、加藤九祚氏が翻訳した「埋もれた古代王国の謎」によれば、ウラルトゥ王国について次のように述べています。


紀元前9世紀末から紀元前8世紀初頭になるとウラルトゥ王国の領土は著しく拡大され、この頃の中心都市であるトゥシュパには長さ70km以上の大運河が建設されました。

これはトゥシュパに飲料水を導いたもので、現在でもシャミーラムの運河、の名で残っています。

このほか多くの神殿、宮殿、城塞が建設されました。

ウラルトゥ王国の軍隊はアッシリア人との戦いに成功をおさめ、西はユーフラテス川、東は防衛線として重要な山岳部を領し、北はアラクス川に達しました。


このように紀元前8世紀初頭には新アッシリア帝国の危険な競争者となっただけでなく、オリエント諸国の中でも主導的な地位を占めるようになりました。


アッシリア王のシャルマネセル3世はウラルトゥ王国と長い間敵対していますが、この時の戦いの様子がアッシリアの年代記やバラワットの遺跡に残されています。

ウラルトゥ王のアルギシュティが残した碑文やアリン・ベルドという丘から発見された楔形文字の文章によって、ウラルトゥ王国の全盛期はエレブニ市(エレバン)を中心としていて、この時期に南コーカサスとウルミア湖沿岸におけるウラルトゥ王国の権力が確立されていたこと、さらに西方のシリア北部への遠征も成功していたことなどがわかります。


新アッシリア帝国はウラルトゥ王国の増大する勢力に対抗できず、次々に領土を失いました。

これらの戦いの結果、西アジアにおけるアッシリアの主導的地位はウラルトゥ王国に移行していきました。


しかし紀元前8世紀後半になるとアッシリアが再び勢力を回復し、失った土地を再び取り戻して北部シリアではウラルトゥ王のサルドゥリ2世の軍勢を大敗させています。

これによりウラルトゥ王国は地中海地域および小アジアとの交易にとって最も重要となる地域をアッシリアに返還せざるを得ませんでした。


紀元前735年頃、サルドゥリ2世の子のルサ1世がウラルトゥの王位につきました。

彼はウラルトゥ王国からの独立を目指す各地の総督達と激しい戦いを繰り広げています。

ときには総督たちがウラルトゥ王国に対して直接反旗をひるがえすこともあり、こうした反乱についてはニネヴェの王宮古文書室に保存されているアッシリア諜報機関の手紙に詳しく語られています。


総督の鎮圧に加え、さらに自国の北方では西アジアに侵入したキンメリア人から国境を守らねばならない上に、南東方では不可避の状態にあったアッシリアと軍事的衝突に対処する必要に迫られました。

そこでルサ1世は軍司令官や総督たちの反乱の対策として旧来の総督管区を小さくし、総督達の増大した権力を抑えるための辺境統治の改革を行いました。


そしてルサ1世の孫にあたるルサ2世の時代に総督統治の改革が完了し、衰退したウラルトゥ王国の勢威を一時的ながらも取り戻しました。


紀元前714年新アッシリア帝国の王であるサルゴン2世による遠征は多くの資料によって広く知られています。

ニネヴェで発見されたアッシュルバニパルの碑文には、ウラルトゥに派遣された諜報機関の報告書の原文が430行の楔形文字で残っています。


サルゴン2世のために作成されたこれらの手紙と情報から、困難なウラルトゥ遠征のために綿密に準備がされていたことが伺えます。

ウラルトゥ王のルサが同盟軍や山岳民の族長らとともにドヘンゾ山に登りアッシリア軍の背後にまわったためサルゴン2世は奇襲攻撃を決意し、自ら騎兵部隊を率いて夜襲をかけたとあります。


ウラルトゥ軍はこの攻撃に耐えられず、ルサ王は自らの戦車を捨て馬に乗り換えて逃れました。


この時のルサ王のことが次のように文書に残されています。
《鷲の前を飛ぶ夜の鳥のように彼の心は恐怖に震えた(中略)彼は王城であるトゥシュパを捨てた 猟師の前を走る獣のように彼は自らの山の斜面に達した》とあります。


その後サルゴン2世はウラルトゥの都市であるウルフーも占領し、アッシリアへの帰路につく途中、突如ウラルトゥの最も神聖な都市ムサシルに兵を向けることを決めます。


ムサシルの領主ウルザナは山中へ逃れ、アッシリア軍は無抵抗のムサシルに入り破壊と掠奪を行いました、この時の様子がサルゴン王宮から発見されたレリーフに残っています。


ムサシルの領主ウルザナの王宮にあった宝物はアッシリア王の手中に入り、サルゴン2世のテキストには戦利品の長いリストが残っているのですが、これによると黄金が1040kg、銀が5060kgあり、ハルディ神殿からの掠奪品はさらに多かったと記されています。


神殿には重さ2トンにのぼるウラルトゥの国王アルギシュティの像や戦車に乗るルサ王の大青銅像があり、神殿の入り口には“偉大な番人”を示す二つの青銅像が立てられていたことが、サルゴン王宮のレリーフや粘土版テキストによって明らかになっています。


ムサシルの壊滅によって、ウラルトゥは同盟者だけでなく南からの守護者を失い、著しく弱体していきます。


サルゴンの年代記によると《ルサはムサシルが破壊され彼の神ハルディが運び去られたことを聞いて腰の鉄剣を引き抜いて自害した》とあり、これにより紀元前714年に開始されたサルゴン2世によるウラルトゥ遠征は終わりを迎えます。

19世紀にアッシリア王宮跡で発見されたレリーフや楔形文字テキストの解読によって、アッシリアとウラルトゥは互いに勝敗を繰り返しながら敵対し続けていたことがわかりますが、当然のことながらアッシリア側の年代記やレリーフにはアッシリアの勝利だけが記録されていて、ウラルトゥ王国が勝利した戦いについてはふれられていません。


[ウラルトゥの名称]
ウラルトゥという名称はアッシリア人の呼び方で、ウラルトゥ語では“ビアイリニ”や“ビアインリ”“ビアイニリ”といいます。


現在のイラクにあるヨルガンテペ遺跡から出土したテキストによれば紀元前2000年紀の半ばから、ウラルトゥの地にはミタンニのフルリ人が流入したことが記されています。

ミタンニのフルリ人はエジプトやカナンからウラルトゥの地まで拡がり、後にヒッタイト王国に従属するようになります。

アッシリア側の記録には《シャルマネセル1世の軍隊がウルアトリを撃破しクティ族と戦った》と述べていますが、紀元前11世紀以降になると「ウルアトリ」は「ビアイニリ」に継承されています。


ヘロドトスの[歴史]によれば、《紀元前5世紀ウラルトゥの故地にはサスペイレス族、マティエネ族、アラロディオイ族、アルメニオイ族の四族がいた》
と述べています。



[ウラルトゥ王]
ウラルトゥ最古の王であるアラメ又はアラマ又はアラムという国王は南方の新アッシリア帝国の脅威に対抗してナイリという地域の諸部族を初めて統一した人物です。

このアラメに始まり、15代のウラルトゥ国王が確認されています。

遺跡の発掘が進むにつれ新たな国王の存在が確認されるようになり、最後の国王ルサ4世の存在が確認されたのは20世紀後半に行われたカルミル・ブルール遺跡の発掘によるものです。


ウラルトゥ王国はルサ1世の時代にアッシリア軍に大敗して以降、キンメリア人やアッシリアからの度重なる攻撃によって疲弊していきます。


旧約聖書の一書であり、三大預言書の一つである[エレミア書]によればウラルトゥ王国は「紀元前539年 マンナイ スキティアと共にバビロンを攻撃した」となっています。

マンナイ王国というのは紀元前1000年頃の古代オリエント国家の一つで「マナ」或いは「マンナ」ともいい、紀元前616年に新バビロニア王国およびミディアとの戦いに敗れるまで続いた王国です。

紀元前7世紀頃のマンナイではスキタイが大きな役割を果たしていたことがイラン北西部のジヴィエ遺跡から明らかとなっています。

マンナイ王国はアッシリアと連合してウラルトゥ王国を攻撃していた時代もありますが、紀元前539年にはウラルトゥ王国と同盟国になっていることがわかります。


[ウラルトゥ王国滅亡]
ルサ2世の治世後、ウラルトゥ王国は次第に衰退に向かいます。

ウラルトゥ王国は周辺地域からの豊かな貢物を蓄え、整備されたウラルトゥの行政、そして経済的な中心都市はスキタイ諸族と活発な関係を持っていました。

ルサ2世の死後、約60年の間に5人のウラルトゥ王が交代しました。紀元前590年頃になるとメディア王国によってウラルトゥの首都トゥシュパは陥落し、荒廃した国家の中心部はメディア王国の領土になりました。

ウラルトゥ王国の都市のひとつであるテイシェバイニは発掘の結果、現地の諸種族によって壊滅されたことが明らかとなりました。

当時ウラルトゥ王国と同盟者であったスキタイ人はウラルトゥ王国の衰退とともに次第に敵対関係になるのですが、テイシェバイニの石積みに射こまれたやじりからは、スキタイ式やじりが発見されテイシェバイニを襲った現地の諸種族の中にスキタイ人も含まれていたことがわかります。


テイシェバイニが破壊されて以降、都市と内城には水が流れなくなり一帯は荒野と化し、ついに古代オリエントの強国であったウラルトゥ王国は滅んでいきました。

その文化的遺産はウラルトゥに変わって登場した国家によって受け継がれましたが、遠く離れた島国日本にも受け継がれています。




今回は古代オリエントの王国、ウラルトゥ王国について調べていきました。

古代史には膨大な学説がありますので、今回の内容はそのうちの一つだと思っていただいて是非皆さんも調べてみて下さい。
下記の参考書籍もぜひ読んでみてください。
最後までご覧いただきありがとうございました❤️

📖参考書籍📖
ボリス・ピオトロフスキー著 加藤九祚訳「埋もれた古代王国のなぞ 幻の国からウラルトゥを探る」
鹿島曻著書「歴史捏造の歴史2」
三笠宮崇仁著書「古代文化の光」
E・Dフィリプス著 勝藤猛訳「草原の騎馬民族国家」
護雅夫著書「古代トルコ民族史」

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