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【倭国】は日本の旧名ではない【任那】記紀が書けなかった倭国→日本の歴史〜古書から日本の歴史を学ぶ〜

※この文章はYouTubeで視聴することも出来ます

こんにちは、今回は倭国についてお話させて頂きます、よろしくお願い致します。

倭国といえば日本の旧称のことだと認識されている方が多いと思います。
一般的な定説では[大宝律令]の制定において国号を「日本」と表記した、とされていて教科書で習った世代も多いのではないでしょうか。
古事記や日本書紀には、倭から日本に国号を変えたことがはっきりと明記されていません。
国名を変えるというのは一大イベントですし、変更するに至った経緯や名前の由来、変更の決定を下した天皇のことなど、色々と細かく書き残したいはずなのですが、記紀ではそのような説明は一切なく、何年に誰の考案で変更したのかがわかりません。

中国の史書「旧唐書(くとうじょ)」には、
「日本は倭国の別種である。その国は日辺にあるので故に日本をもって名とした。あるいはいう、倭国が自らその名の雅やかではないのを憎み、改めて日本とした」とあります。

また朝鮮半島の史書「三国史記」新羅本紀には文武王5年(670年)に「倭国は国号を日本と改めた。自ら日の出る所に近いといって名とした。」とあります。
さらに「史記」の[史記正義]には「則天武后が倭を改めて日本とした」ともあり、日本側がスルーした国名の由来や考案した人物について色々と書かれています、が、これが事実なのかは不明です。

[日の本(ひのもと)]という考えや表現は日本列島の本州で産まれた人の発想ではなく、本州より西にいた人の表現です。
本州で生まれ育った日本人にとっての日が昇る国はハワイですし、ハワイの人からみて日が昇る国はメキシコです。
実はこの倭から日本へ国名が変更される歴史は、古事記、日本書紀を書いた側は非常に言いづらい、掘り返さないでほしい歴史なのです。
ここが紐解かれてしまうと大和朝廷の実態が明るみとなり、その影響は天照大神直系の子孫だとされる天皇にまで及びます。

天皇の血筋に疑問を抱くことは明治維新から戦前までは不敬罪に問われていたそうで、学問・言論が統制されていた時代があります。
(※戦後もあった)
このような天皇絶対の歴史観を皇国史観といいます。

今回の動画から何本かに分けて倭国について様々な角度から見ていこうと思います。
この動画では倭国の実態を掴むために重要となる[任那]を中心に話を進めます。

中国最古の地理書[山海経(せんがいきょう)]では[倭]を北倭と南倭に分けています。
これは南方から日本列島や朝鮮半島どまりの倭人を南倭、遼東半島から北西部に、または日本海を北上して黒竜江の河口に至り、それをさかのぼってシベリア、満州、沿海地方に集落を作った倭人を北倭として古代中国人が区別したのではないかと推察されています。


「後漢書」によれば西暦57年に[倭奴(わな)]という国の国王が光武帝のもとに使者を派遣してきたので、光武帝はこれに印綬を授けたとあります。
この[倭奴(わな)]は伊都国の[伊都(いと)]と読むべきだとする説もありますが、
1世紀頃の中国語音韻上古音では
この様になり→[wa r n ā g]または[•iwə r n ā g][ワナ]に近い音にしかならないので伊都国ではありません。
※倭奴国=日本では[わのなの国]と読む

「後漢書」の[倭奴(わな)]国は[魏書東夷伝倭人条]には[奴国(なこく)]として現れ、
これは後の儺県(なのあがた)だとされています。
現在の福岡市にある奴処(なか)系の地名はその名残だとする説もあります。
[奴]や[那]は元々[土地・国]を表す言葉で、倭人語の大地を表すナエのナも同義です。
後世の土地をならすのナラにも繋がります。

朝鮮半島の古代語で国を表すのは本来は[羅]で、加羅、多羅、安羅などありますが、
それが語頭にくる場合、アルタイ諸語系の言語は語頭のr音を嫌うので[邪(や)]または[那(な)]になります。
そうなると、[奴国]の奴はただ単に国と言う意味しか無い可能性があり、
一つの国の名称が[国(な)]というのはその国が周囲より極めて古いということなのかもしれません。
ちなみに倭国の言葉では単語の語尾のラ行音は脱落する傾向があったので、
のら→の
かぶら→かぶ
トワタラ湖→十和田湖
イカホロ→伊香保
そぷり→層富となります。

「後漢書」には107年に倭面土国王(わのまとこくのおう)の帥升(すいしょう)が
後漢の安帝に使者を送って「生口(せいこう)百六十人」などを献じています。
※ 生口=古代中国や朝鮮半島における捕虜または奴隷

この[面土国(まとこく)]はマト羅ともなり、
[先代旧事本紀]に登場する末羅国(まつらのくに)から肥前国の松浦まで転訛したと見れます。

次に倭人の国々の名が現れるのは[魏書東夷伝倭人条]で、30の国々の名が挙げられています。
不弥(ふみ)・奴国(なこく)・投馬国(とうまこく)
邪馬臺国・邪馬国(やまこく)伊都国、伊邪国(いやこく)・壱岐国(いきこく)・斯馬国(しまこく)
末盧国(まつらこく)・対馬国(つしまこく)・狗奴国(くぬこく)・己百支国(いおきこく)・奴国(なこく)・郡支国(ぐしこく)(ぐきこく) ・彌奴国(みなこく)・好古都国(こうこつこく)・不呼国(ふここく)・姐奴国(さなこく)・對蘇国(とそこく)(とすこく) ・ 蘇奴国(そなこく)・呼邑国(こゆうこく)・華奴蘇奴国(かなそなこく)・鬼国(きこく)・鬼奴国(きなこく)・為吾国(いごこく)・躬臣国(くすこく)(くしこく) ・ 巴利国(はりこく)・支惟国(きいこく)・烏奴国(うなこく)です。※読み方は色々あります

不弥(ふみ)という国は奴国から東に百里の場所にあり、長官は多模(たも)、副官は卑奴母離(ひなもり)と呼ばれ、1000余の家があると書かれています。
この不弥という国名は[魏書東夷伝弁辰伝]にも登場し、馬韓に不弥があると書かれています。
邪馬臺(やまと)や邪馬(やま)という国名も倭人の国として出てきますが、
これも弁辰に[弥烏邪馬国](みおやま)という似た国名が登場しています。
つまり倭国というのは日本列島だけでなく朝鮮半島にも倭人諸国があったことがわかります。

では高句麗広開土王碑や日本書紀に登場する任那という国はどういう国だったのでしょうか。
任那は上古音では[ニムナ]とも読み、ニムは主という意味で[ナ]は土地なので主要な土地、という意味があります。
高句麗広開土王碑のほうに出てくる任那加羅は、[本国加羅]という意味合いがあります。

宋書 によると438年倭の珍王が
《使持節都督倭百済新羅任那秦韓慕韓六国諸軍事安東大将軍倭国王》と自称し、
451年には済王(せいおう)が《使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六国諸軍事安東将軍倭国王》を宋から与えられたとあります。

451年の除授では438年の自称と比べると
[加羅]を付け加えて[百済]を省いていることがわかります。
これは任那は本国を意味する内部呼称であることを知らない文帝が既に朝貢の責を果たしている百済の名称を省いたあと、名称が落ちていると思い込んだ[加羅]を新たに追加したという事です。

文帝は任那は朝鮮半島の新羅・百済・加羅以外のどこかにある国だと思い込んだか、
或いは秦韓・慕韓 がそれぞれ新羅と百済の旧称であるのと同様に任那は加羅の旧称だと考えたのかのどちらかであると推測できます。

479年金官加羅国の荷知王(かちおう)が南朝の斉に入貢して[輔国将軍本国王]の称号を得ています。
金官加羅国が本国である、つまり[任那加羅]のことで、この国は加羅地方の全域に対して宗主権を主張してたため本国のニムナを内部呼称していた可能性が高いです。

では5世紀前後の日本書紀に登場する任那を見ていきます。
一つ目がオホハツセワカタケの段にあります。
オホハツセワカタケの大王の漢風諡号は[雄略天皇]で、これは8世紀後半に付けられたものです。
吉備上道田狭(きびのかみつみちのたさ)という人物が、[任那国司(みまなのみこともち)]に任命され任那へ派遣されます。
またその子供の次男である吉備上道弟君(きびのかみつみちのおときみ)は百済に派遣され、色々とあり親子で倭国に反抗するという内容です。

[任那国司(みまなのみこともち)]という官職はこの時初めて登場しますが、
この官職に関する説明はありません。
[みこともち]は本来[宰]この漢字で表され、これは大使くらいの官職のことで
国司のような高い位ではありません。
[任那日本府(みまなのやまとのみこともち)]の元の表記が
[任那倭国宰(みまなのわこくのみこともち)]だったことからも
※弘仁私記序参照
[任那国司]の国司の部分も同様に、元々は[宰]この漢字で表されていたと考えられます。

上道田狭は日本書紀の一書に曰く、吉備で殺されたとあるので、
[任那国司]には実際には任命されていない可能性もあります。
そうすると上道田狭と上道弟君の親子で倭国に反抗するという物語は単純に上道弟君だけが倭国に背いて百済に行った結果、妻に殺されたという話になります。
5世紀頃の任那に関する記述の2つ目は、任那が新羅を救うお話です。

新羅王は高句麗の軍兵が新羅の地に入ったことを知ると、任那王のもとに使者を出してこう言いました。
「高句麗の王が私の国を責めています。そのため新羅の国は非常に危ない状況です。
伏して倭国宰の行軍元師(げんすい)たちに救いを請いたてまつります。」
そこで任那王は膳臣斑鳩(かしはでのおみいかるが)と吉備臣小梨(きびのおみをなし)、難波吉士赤目子(なんばのきしのあかめこ)という人物に新羅を救わせた、という内容です。
※ 倭国宰=倭国大使館

この話に続く文章は[魏書武帝紀]にもありますので、任那が新羅を助けたというのは実際に起きた史実の可能性が高いです。
高句麗が新羅を攻めたのは[三国史記]では450年で、この時日本書紀では、新羅は任那王に倭国大使館の軍を動かしてほしいと頼みこんでいます。
そして任那王の命令で先ほどの3名の臣が新羅救助に向かっています。斑鳩(いかるが)、小梨(をなし)、赤目子(あかめこ)という人物は後にも先にもここにしか登場しません。
以上が5世紀前後の任那関連の記述で、任那は倭国の植民地的な国ではなかったこと、
5世紀頃の任那に関する役職名や人物はかなりフワフワしていることがわかります。

では6世紀頃の日本書紀の任那を見ていきます。
6世紀に入り任那が登場する記述は《ヲケ三年》の条からです。
順番にピックアップしていきます。
ヲケ大王は後に顕宗天皇という漢風諡号を付けられます。
《ヲケ三年》阿閉臣(あへのおみの)事代主は任那に使いして、任那で高皇産霊の子孫だという月神から自分を倭国に祀れと言われ、
ヲケの命令で山背国(やましろのくに)の葛野郡にその社が建てられた。
紀生磐宿禰(きのおひはのすくね)が任那に拠って高句麗に通じ、あわよくば朝鮮半島の王者になろうとしたが、失敗して倭国に帰ってきた。
《ヲホト三年》任那の倭国県邑(やまとのあがたのむら)に住んでいる百済の民草のうち、逃亡してきた者たちと戸籍から洩れた者たちとを3世・4世になった者までを抜き出し、みな百済に返して戸籍につけた。

《ヲホト六年》百済が任那国の上哆唎(おこしたり)・下哆唎(あるしたり)・娑陀(さだ)・牟婁(むろ)という4つの都を併合したいと伝えてきた、
哆唎国宰(したりのくにのみこともち)の穂積臣押山(ほづみのおみのおしやま)と
大伴大連金村はそれに同意するようにと進言した。
《ヲホト七年》加耶地方の伴跛国(はへのくに)が同じく加耶地方の己汶(こもん)を併合したいと言ってきたが認めなかった。
《ヲホト九年》物部至至連(もののべのちちのむらじ)は百済の使者を送って朝鮮半島に行き、
伴跛(はへ)の暴虐を聞くと水軍500を率いて滞沙江(たさのえ)に行ったが伴跛の軍に大敗した。
《ヲホト二十一年》近江毛野臣(おうみのけなのおみ)は新羅に破られた南加羅と㖨己呑(とくことん)を復興して任那に引き入れるために兵6万を率いて出発したが途中竹斯君磐井(つくしのきみのいわい)に遮られた。

《ヲホト二十三年》倭国が百済に多沙津(たさつ)を与えたため加羅王は倭国を恨み、新羅と手を組んで加羅王は新羅国王の娘をめとった。
しかしそのあと新羅と仲が悪くなり新羅は加羅の城を8つ攻めた。
近江毛野臣を安羅に派遣し、新羅に詔りして南加羅と㖨己呑を再興させた。
任那王の己能末多干岐(このまたかんき)が倭国に来て新羅を討つための軍兵を乞い、目的を果たして国に戻った。

任那にいる毛野臣に詔りして百済と新羅の使者を安羅に呼んで.この2国を和解させようとしたが果たせず、逆に任那に来ていた新羅の兵は任那の4つの村を略奪して帰った。

《ヲホト二十四年》毛野臣が任那で身勝手に振る舞っていたので、(任那王)阿利斯等(ありしと)は百済と新羅に兵を乞い、この2国の軍兵に侵略された。
毛野臣は本国に帰される途中、対馬にて病いで死んだ。
《タケヲヒロクニ オシタテ二年》※宜化天皇
新羅が任那を攻めてきたので大伴大連金村の子、磐(いわ)と狭手彦(さてひこ)を派遣して任那を救わせた。
そこで磐は竹斯(つくし)に止まって国の政治をとり、
一方狭手彦は任那を鎮め百済を救った。
《531年3月》(百済本記)
百済の軍は進撃して安羅に至り、そこに乞乇城(こつとくのしろ)をつくった。

以上が500年頃から531年に至るまでの日本書紀の倭国と任那、朝鮮3国との関係です。

この文章からは、加耶地方で倭国と友好的だったのは任那、安羅、上哆唎(おこしたり)などの国々で、伴跛国(はへのくに)のように公然と倭国にはむかう国もあれば、南加羅や㖨己呑(とくことん)のように新羅の承認がなければ独立できない国々、
上哆唎(おこしたり)・下哆唎(あるしたり)・娑陀(さだ)・牟婁(むろ)のように百済に併合させられた国々が存在したと書かれています。

任那は562年に新羅によって滅ぼされ、滅亡したとされています。
しかし日本書紀では541年に任那再建の協議を行っており、アメクニオシハラキヒロニハ=欽明天皇は即位直後から任那の再興に力を入れています。
そのため任那が滅びたのは541年より前でなければ辻褄が合いません。

では朝鮮半島側では任那のことをどのように記録しているのでしょうか。
朝鮮半島の史書には[任那]ではなく[金官加羅]や[金官国]などと表記していますが、これらは狭義では任那のことを指しています。
※完全に一致している訳ではありません。
[三国遺事]の駕洛国記には《伽耶六国》として次の6つの国名が挙げられています。
金官伽耶・阿羅伽耶・古寧伽耶(こねいかや)・
大伽耶・星山伽耶(そんさんかや)・小伽耶、これらが加耶地方を構成する主要な国々でした。
各々が有していたとされる土地からこの6つの国を日本書紀の10カ国と比べると、日本書紀に含まれていないのは金官伽耶と古寧伽耶(こねいかや)、小伽耶です。

日本書紀(ヲホト王第十七)には、任那には久斯牟羅(くしむら=金官加羅国の領地)が含まれていたことがわかるので、やはり任那とは狭い意味では金官加羅国の呼称だったことがわかります。

[三国遺事]では532年に、任那である金官加羅国を捨てて新羅に走った国王は仇衡王(きゅうこう)だとされていますが、[三国史記]と[海東繹史(かいとうえきし)]には仇亥王(くがい)とあり、両者は同一人物だとされています。しかし[東史年表]には521年鉗知王(かんちおう)が死に、子供の仇衡が立った。532年仇衡王は新羅の侵略のために国が弱まるのを憂いて、位を弟の仇亥に譲ったとあり、このため仇衡王の諡は譲王だといいます。

仇亥は王位を譲られたのち、国をもって新羅の配下となり、任那である金官国は滅びます。(仇亥の諡は末王)
そして[三国史記]新羅本紀にはこのように書かれています。
金官国の国主である金仇亥が妃および3人の王子と共に国の財産と宝物を携えて新羅に帰服してきた。

法興王は礼をもってこれを遇して、上等の位を授けたうえでその本国を封地(ほうち)として与えた、王子の武力(仇亥王の三男)は仕えて官位(角干)まで昇進した。とあります。
弟に位を譲った兄の仇衡王はその後どうなったのかは朝鮮半島の文献にも日本の文献にも全く書かれていません。
仇衡王は弟が新羅に売ってしまった金官加羅国、つまり任那の復興が急務になるわけですが、この当時、日本書紀で任那復興を積極的に行っていたのは欽明天皇なので、仇衡王と欽明天皇は深い関係があったのかもしれません。

また金官加羅は3世紀頃は狗邪韓国(くやかんこく)や駕洛国とも呼ばれています。
さらに年代を遡るとこの国は豊日国(豊国)ともいい、古事記の国産み神話に登場する豊日別の国です。
九州地方の豊日方言が残る地域が豊日国と関係があるとされています。
[魏書東夷伝倭人条]に「その北岸狗邪韓国あり」と書いてある北岸は九州の北岸のことで豊日国(豊国)が朝鮮半島南部にも領土を持ち、後に狗邪韓国と呼ばれ、さらに後世の朝鮮史では駕洛国や金官加羅国といわれるようになります。
この王家は日本史では中臣氏であり朝鮮史では金海金氏(きめきむし)と書かれている氏族です。
※倭人の民族、氏族については別の記事でまとめる予定です

倭国と加耶地方について見てきましたが、文献がひっちゃかめっちゃかしててすみません。
任那は伽耶地方(倭人諸国)の中で本国だと自称していた時の呼称だったので
任那を一つの国として考えると沼にはまります。
金官加羅が滅亡してから、本国の役割を担う任那は対馬の西北部に移動し、後世には任那を対馬の全称としている古文書もあります。

中国史に登場する倭王というのは倭人諸国から共立された王で、この王が住む直轄地を任那官家(かんけ)ともいいます。※日本史では官家=みやけと読ませる。


日本書紀のアメクニオシハラキヒロニハ(欽明)の段にある新羅に滅ぼされた時の任那は金官加羅のことです。

そしてこれまでのお話は全て倭国や加羅諸国の国内事情であって
近畿地方の大和や大和朝廷とは全く関係ありません。
動画の最初にご紹介した「旧唐書」には、
「日本は倭国の別種である…云々」とありましたが、この旧唐書の倭国というのが
九州の豊日国から金官加羅国、安羅国、多羅国などの倭人諸国のことで、
旧唐書の日本とはこれらの倭人諸国とは別種であるとしています。

[大震国本紀]では「日本、旧(ふる)くは伊国にあり。また伊勢と曰い、倭と同隣す」とあり、
[高句麗国本紀]には「広開太皇…任那と伊倭の属、巨なりと称さぜることなし」とあるので、日本は古くは[伊国]または[伊倭]といわれていたことがわかります。
[伊倭]は夷倭のことであり、この時代には殷の人を意味します。[夷]は[伊]であり[委]です。

古事記の雄略天皇の条には「オホハツセワカタケ(雄略天皇)が葛城山に登ったところ
天皇の行列と同様の行列に出会った、天皇は"この倭国で私を除いたら他に王はいない、
今だれが自分と同じようにして行くのか"と問うた。
しかしこの相手がこの山の神、葛城之一言主之大神であったので天皇は惶畏(こうい)したという」とあります。
※ 惶畏=あわて畏れる
雄略天皇は倭王武ともいい、葛城大神は別倭の王です。
九州の倭人と本州の別倭は系統的にも歴史も違っていたので、自らの故地を中原と考えていた九州の倭人が別倭のことを[日の本]や[日本]という言葉で表現したということです。
※別倭=ことやまと

古事記・日本書紀には「〜天皇」という諡号は書かれていません。
この漢風諡号は8世紀後半以降に付けられた造作なので、顕宗天皇のことをヲケ、継体天皇をヲホト、宣化天皇のことをタケヲヒロクニオシタテ、などと読みました。
7世紀以前の倭国の大王も全て「〜天皇」としてしまった皇国史観は日本の古代史を複雑にさせています。

古事記・日本書紀には大きな和と書いてヤマトと読む箇所はありませんし、[大和朝廷]という表記も一度もしていません。

記紀が倭国の歴史を消してしまったため、日本人は倭の大乱が何のことだかわからない、アメタリシヒコが誰なのかわからない、邪馬台国は近畿地方にあったと言い出す始末です。
奈良盆地に存在した王朝は何だったのか、倭国と日本を紐解いていくと全て繋がっていきます。

古代史は膨大な学説があるので、今回の内容はそのうちの一つだと思って頂いて、ぜひ皆さんも調べてみて下さい。

次回は奈良盆地の王朝と倭国の中でも最も有名な邪馬台国についてお話する予定です。

参考書籍も読んでみて下さい。
最後までご覧頂きありがとうございました。

📖この動画の参考書籍📖
鈴木武樹著書「消された帰化人たち」「日本古代史の展開」
鹿島曻著書「倭人興亡史」「倭と日本建国史」
宮崎康平著書「まぼろしの邪馬台国」
吾郷清彦他17名著書「神道理論大系」
石原道博著書「新訂 魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝」
「新訂 旧唐書倭国日本伝・ 宋史日本伝・元史日本伝」
藤間生大著書「日本古代國家」
東洋文庫「三国史記1新羅本紀」
家永三郎著書「日本書紀」
斎木雲州著書「出雲と蘇我王国」
富士林雅樹著書「出雲王朝とヤマト政権」
浜名寛祐著書「契丹古伝」
浜田秀雄著書「契丹秘伝と瀬戸内の邪馬台国」
東洋文庫「三国史記1新羅本紀」
中村啓信著書「古事記 現代語訳付き」
黒板勝美著書「国史大系 日本後紀」

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