次に会う日を楽しみに

家康との戦を目前に、調略と軍議の嵐の中にいる。
8月も半ばを過ぎ、私は各々の布陣や兵站を練る中で、我が友・大谷吉継に山中村への陣地構築を指示していた。主戦場がここ大垣城ではなく関ヶ原近辺になるであろうと見越しての布陣である。吉継は平塚らを伴い、ひと足先に陣地の整備を開始する手はずだ。出立を控えた吉継が大垣城へ顔を見せたのは、予定よりもやや早い秋晴れの日だった。
「刑部、よく来てくれた」
従者に手を引かれ、黒い杖をついた吉継が戸口に現れた時、私はなんとも言えない感情に襲われた。見た目はいつも通りの彼である。最後に会ってからひと月も経っていない。けれども何かが違う。ド、ド、と己の鼓動が耳をつく。
「さすがの治部も、疲れた顔をしている」
吉継はそう言っていたずらっぽく笑った。私は胸に拡がる違和感を振り払うように、改めて友と向き合う。
「疲れたなど、私が言っている場合ではない」
「もっともだ」
「…お前のほうはどうだ」
問いに、吉継がうなずく。
「問題ない。このまま山中村へ行き、村人たちに手伝ってもらいながら空堀を作って布陣する。敦賀から吉治が到着したら、共に指揮をさせるつもりだ」
ここまでは何事も計画通り。吉継と共に練った軍略だ。調略さえうまくいけばもうひと安心だが、連日連夜手紙を書いても書いても書き足りない。各地の将兵を確実に味方につけることは、太閤殿下や秀頼様の名をもってしても難しい。そうして眠れぬ渦中に、吉継が訪ねてきている。久しぶりに見た友の姿に、私は当然歓喜した。得体の知れないこの違和感を除いては。
「治部よ、忙しいのを承知で頼む。今宵、わしにお前の時間をくれないか」
状況報告の後で、吉継からそう頼まれた。
私は承知するとすぐに左近を呼び寄せ、夜間の手紙の代筆を頼んだ。そしてそのまま胸騒ぎに蓋をするように、今日の軍議の段取りへ取りかかる。夜が待ち遠しくもあり、恐ろしくもあり、落ち着かない昼下がりだ。


⁂⁂

大垣城の客間に灯りを灯す。夜間でも詰める兵たちで城は落ち着かないが、奥の間はやや喧騒から離れて静かである。万事左近に指揮を任せ、指定した客間に着いた頃にはまだ吉継は来ていなかった。夜半になるとやや冷える。着物の襟を合わせ、揺れる灯りを座ってただ眺めた。こうしてぼんやりとするのはいつぶりだろうか。我ながら近頃はいっそう目まぐるしい日々だと思う。
しばらくして、私の近習に案内されながら吉継が現れた。昼間よりも上着を1枚増やしている。病身に寒さはより堪えるだろうと心配になった。
「待ったか」
「いや。久しぶりに穏やかな時間を過ごしていた」
「…ならばもう少し遅れるべきだったな」
案内を下がらせる。やや足取りのおぼつかない吉継の手をとり、座布団の上に座らせた。ぼんやり過ごすのが久しぶりなら、吉継とふたりきりで向かい合うのも久しぶりだ。少し緊張するくらいだ。寒くないかと気遣うと、吉継は大丈夫だと笑った。
「刑部よ、約束通り来てくれたこと、改めて感謝する」
「いよいよ、といったところだな。家康殿の出方次第ではあるが…軍議に参加してみると、思ったよりこちらの士気が高くて安心した」
「宇喜多殿や行長のやる気がありがたい。彼らの雰囲気のおかげでかなり助かっている」
「よいことだ」
それからしばらく、此度の戦のこと、政情のこと、家族のことなどをふたりで話した。やはり吉継は徳川殿の動きをかなり警戒している。上杉や真田との連携が思うように取れていないこと、こちらから徳川殿へ寝返る将がいるであろうこと、味方の結束にいささか不安があること、秀頼様のご出陣が叶うのかということ。今、こちらの士気は高い。ゆえに軍議では、何が起ころうと問題はない、数で押し切れる、こちらには秀頼様が、といった楽観的な論調が目立っている。
しかし聡い吉継からしてみれば、不安定な部分が多くすでに綻びすら見えているのだろう。彼は不安や不満を隠さないし、戦略の穴の指摘を欠かさない。もちろん怖気づいているわけではなく、勝つために私へ提言してくれているのである。吉継と話すたび、目の前の地図や手控えは墨で塗り潰したかのように文字で埋め尽くされた。彼によればどうやら事ここに至ってもまだまだ不安要素は山積みで、聞けば聞くほど頭痛がするようだった。
やがてそういった不穏な会話が途切れた頃、吉継が突然真面目な顔をして座を正した。頭を抱えていた私もつられて動きを止める。
「治部…いや、三成。近くに来てくれ」
乞われるまま、膝を進める。すると手袋をした吉継の手が、縋るように私の両頬を包んだ。引き寄せられ、鼻同士がつきそうなほど顔が近づく。嫌な気持ちはない。それよりも私は、吉継の目が涙に潤んでいることに驚いて硬直していた。
「…三成、隠していたことを言う」
「吉継…?」
「わしはもう、かすかにしか目が見えぬ」
またも鼓動の速度が早くなる。私は黙って、吉継のその目を見つめていることしかできない。
「最後にお前の顔を、こうして目に焼き付けておきたいのだ」
指が、手袋越しに私の顔をなぞる。存在を確かめるような手つきに、気の済むまで、されるがまま身を任せた。やがて満足したのか手が止まる。離れていく手を、今度は私が掴んだ。
「…もうよいのか」
「あぁ、ありがとう。このまま触っていられるなら、いつまでもそうしていたいがな」
「吉継……病は、かなり悪いのか」
聞くまでもないことだった。握った手首が、恐ろしいほど細い。着物を着込んで、頭巾、手袋等に覆われた姿は一見以前と変わらぬように見えるが、重装備で痩せた体を隠しているにすぎない。昼間感じた違和感はこれなのか。私が思っていたよりもずっと急速に、不治の病は吉継を蝕んでいた。
「勝っても負けても、わしには最後の戦だ」
「…そうか」
「もう一度言うが、どうせ死ぬのなら畳の上でなく戦さ場で…それも家康殿のためでなく、お前のために死ねるならこの上ない喜びだ」
吉継の言ったとおり徳川殿に勝機があるとするならば、私は彼を自陣に引き留めるべきではない。私は吉継を死地へ引き込む鬼だ。それにもかかわらず吉継と敵対したくないあまり駄々をこね、友情を盾に側に引き寄せ縛りつけているこの醜悪さを、幾晩自己嫌悪して過ごしただろう。どんなにもっともらしい理由をつけたところで、私の願いはただひとつ、単に吉継と離れたくないだけなのである。
それでも私なりに妥協して、決断は吉継に委ねた。そして彼が出した結論が、今と同じ言葉。踊り上がるように嬉しかった。同時に不利と思う方を選ばせたことに申しわけなさを感じた。
私は徳川殿に劣るとは考えていない。無論、この戦さに勝機を感じているし、勝つつもりでいる。勝たねばならぬ。豊臣から天下を奪おうとする徳川殿や、恩を忘れた加藤らが与するような軍に、負けるわけにはいかない。けれども、深謀遠慮に優れる吉継が苦言するからには楽な戦いになるとも思っていない。決断の日から常にあらゆる戦略を考え続けている。吉継も、他の将たちも、決戦に向けて各々絵図を描いている。すべてを賭けた戦さになるだろう。特に、主導となって動く私と、余命少ない吉継にとっては。
「この先何が起こるか分からない。三成、これが今生の別と思って言う」
確信に迫る吉継の言に、目を背けていた現実が突きつけられる。そうだ、戦いの推移次第では、吉継と会うのはこれが最後になるのだろう。そのつもりで、彼は大垣城に立ち寄っている。最後の挨拶のために。
「お前と過ごした日々は、この上なく幸せだった。病を得て腐っていくばかりだったはずのわしの人生を救ってくれたこと、感謝してもしきれない」
「そうか」
「ありきたりな言葉になるが…輪廻転生、ふたたび生を受けた時には、またわしと出会ってくれぬか」
手に、自然と力がこもる。私は吉継の顔から目を離せず、その息づかいまですべて拾い集めた。
「病のわしがお前より早く死ぬのは道理。遅かれ早かれということである。お前は…まだまだ生きるやもしれぬから、六道の辻では待たぬ。けれども次の世では、必ずふたたび…」
吉継が言葉を詰まらせる。伏せられた瞳から、今にも涙がこぼれそうだった。私は何度も頷き、震える吉継の手首をゆるく握り直した。
「…吉継、この手袋を取ってもいいか」
「……、あぁ」
彼が病に侵された皮膚を見せたくないことは重々承知している。けれども最後だというのなら、私にも欲が出てくる。傷に障らないよう、丁寧に黒い手袋を脱がせた。その手はまだらに荒れて色が変わり、確かに痛々しかった。だがそれ以上に、胸に込み上げるものがある。私は吉継の手を、再び自分の頬に押し当てた。
「あたたかいな」
「…お前も」
「この体温、来世での目印として忘れずにおくぞ、吉継」
不意に、吉継が親指で私の目元を擦った。自分が泣いていることに、その時初めて気づく。気づいた途端どうしようもなく涙があふれて、嗚咽混じりに吉継に抱きついた。吉継はそんな私を笑って受け止める。
「覚えているか、三成。まだ知り合って間もない頃、大阪城下をふたりで巡ったな。あの時お前はわしの手を引いて、あちこち連れ回した。見たこともない店、知らない人々、初めて口にする食べ物…お前といると世界が勢いよく拓けていって、とても楽しかった。あの頃の熱量を、わしは今も忘れていない」
互いに若かったと思う。太閤殿下の元で発展してゆく大阪の街が、日の本という国が、私は好きだった。この世の発展のためならば、政務も戦も苦ではなかった。何より太閤殿下や家族や友人たち、天下万民みなが笑っている世を夢にみて、熱い理想を語り合っていた。
「…綺麗事と言われてきたが、諦めきれない。太閤殿下から秀頼様へ引き継がれた世を、私は徳川殿に譲るつもりはない」
「分かっている。お前は理想を貫け」
吉継は私の背中を押してくれる。それがどんなに心強いか、おそらく彼には分かるまい。私は涙をぬぐい、改めて居住まいを正した。いい歳をして互いに目を赤くして、なんとも滑稽だと思うと少し笑えてきた。
「体に障らなければ、今宵は飲もう」
「よいのか、治部。やることは山積みだろうに」
「最後くらい、お前に酒で勝ってみたいのだ」
「そうか、ならば受けてたとう」
すぐに酒を持ってくるよう近習を呼び寄せる。
生涯の友と杯を交わすこの最後の夜を、死ぬその時まで、死んでもなお、私が忘れることはない。そうすれば、今宵たとえ飲み比べに負けたとしてもきっとまた、次がある。

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