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Frankenstein and Poor Things

  The 2024 movie “Poor Things“ was the best film I’ve ever seen. And I was so interested in the content, then I’ve gotten to research anything that I want to know. And I learned that this movie (this is a novel to be exact) was influenced by Frankenstein, one of the world's most famous horror stories. I wanted to study this concept of Poor Things deeper, so I decided to read Frankenstein. Thus, I found the difference and common point between Frankenstein and Poor things.Eventually, I felt like writingFrankenstein deeper than Poor Things impulsively. So I’m going to write the impression of these stories and my research, especially Frankenstein, here.
(I will write about Poor Things in another document)


『OUTLINE』

  哀れなるものたちは、一人の女性の遺体に天才医師ゴッドウィンが赤ん坊の脳みそを移植し、体は大人だが知能が赤ん坊である人間を生み出したことから始まる。彼女をベラと名づけ、研究材料としゴッドウィンとその弟子マックスはゴッドウィンの屋敷の中でベラの成長を見守る。そして、日々過ごしていくうちにマックスはベラに好意を抱き、伴侶となることをゴッドウィンに頼む。しかし屋敷の中しか知らないベラは外の世界に強く惹かれ、弁護士のダンカンと旅に出る。旅でベラは“生きる”ということを知り、先入観もなければ常識もない純粋な振る舞いと思考で「良識ある社会」に対して対抗していく。

  フランケンシュタインはヴィクター・フランケンシュタインという科学者が人間の仕組みに興味を持ち、一から人間を創り出すことを決心する。しかし創り上げた生命は世にも悍ましい姿をしており、ヴィクターに捨てられることになる。その「怪物」は孤独に暮らしていくことになるが、その過程で人間について学び、知性を鍛えていくことになる。それでも見た目の恐ろしさゆえに誰からも受け入れてもらえず、自分という存在を創り出した主人公に復讐をする。

  哀れなるものたちは多くの点において、フランケンシュタインのストーリーと著者から影響を受けていることがわかる。フランケンシュタインの著者であるメアリー・シェリー(1797〜1851)は無神論者でアナキズムの先駆者であるウィリアム・ゴドウィンが父であり、母はフェミニズムの創始者と呼ばれるメアリー・ウルストンクラフトである。哀れなるものたちのベラの創造主はメアリー・シェリーの父の名前にそっくりなゴッドウィンという名であり、映画の節々からフェミニズムの観点が用いられていることも感じられる。実際に物語の終着点は、数々の男からの執着と束縛から解かれ、自分の力で未来を切り開いていくベラが映し出され、映画は終わる。社会からの女性への期待される姿や、男性からの評価で価値が決められるような女性の姿に対し、ベラは反抗する。このような点から、哀れなるものたちはフェミニズム映画として分類されることもある。他にも、ベラと同じくフランケンシュタインの著者はパーシーという男と駆け落ちをしている。これらの共通点において、人造人間がテーマであること以外にも哀れなるものたちはフランケンシュタインの作品に関わる多くのことからインスピレーションを得ているとわかる。

『LOOKISM』

  どちらの作品の人造人間(ベラは脳を取り替えられただけだが)も、歩んでいく人生の中で知能を得ていく点は同じだが、二人の大きな違いは見た目にある。ベラはその美しい姿から、研究として育てられていたがゴッドウィンに彼の子どものように愛されながら育ち、マックスからは誠実な愛を与えられ、弁護士であるダンカンにも気に入られる。ダンカンとの旅先でも常識はずれな行動ばかりするベラを拒絶する人はいなかった。ベラはパリにて売春宿で働くことになった際にも、容貌の美しさから選ばれやすくなるという描写がある。また、パリからロンドンへ帰ってきて、妻として相応しくない行動ばかりしていたベラをマックスは難なく受け入れるが、それもベラの美しさに心底惚れていたからであろう。受け入れるどころか、「他の男が君と過ごした時間に嫉妬する」「君への愛は情熱的である」と発言する。

 その一方で、恐ろしい容貌から創造主であるフランケンシュタインに逃げられ、名前すらつけてもらえなかったその「怪物」はどこへ行こうと誰一人として受け入れてくれる人間はいなかった。「怪物」はフランスのある一家の暮らしをひっそりと眺め、人間の温かさを知り言葉を知り、本を読むことで人間のさまざまな側面を学ぶことになる。「怪物」は自然を好み、感受性が高く、さらにはその一家の暮らしが楽になるようにこっそりと助けることもあるほどに繊細で
優しい心の持ち主だった。しかし、いざ一家の目の前に現れると誰もが怯え、叫び、「怪物」を追い出そうと必死になる。この出来事から「怪物」は人間に対する憎しみを抱えるようになる。

  神を信仰する人たちにとって、人間は神の姿に似ているよう美しく造られたと信じている。現在ではその思想が強くは根付いていなくとも、フランケンシュタインは19世紀の小説であり、哀れなるものたちもヴィクトリア朝時代(1837〜1901)がモデルと予想されているため、強く信じられていた可能性が高い。フランケンシュタインの主人公であるヴィクターは特に見た目の美しさを重視している様子がよく見受けられる。ヴィクターは深く愛する従妹の美しさを天使のようだと称し、褒め称える描写が多くあった。フランケンシュタインだけでなく、どちらの作品にもルッキズム的な差別が著しく見られる。
  哀れなるものたちに出てくる醜い対象はゴッドウィンである。ゴッドウィンは子どもの頃から、同じく科学者である父親から身体中を実験対象として扱われてきたため、顔や体の節々が歪であり、食事すらまともに行えないほど奇妙な存在として描かれている。そのため外出する際は罵声を浴びることが多いと言う。しかし、このような事例は時代や作品に限らず、現代の日常生活にも多く存在している。学生時代、特に小学生くらいの物事の判別があまりない頃に顔や体に対する悪口を言われたことで、それ以降何年も、何十年も気にし続けてしまうという人が多い。社会ではさまざまな場面で美貌差別を感じさせる点が多い。今で言う流行りのアイドルグループの会社の売り出し方に注目してみると、明らかに1番人気なメンバーを表に出すようにしている。それは芸能界としてメジャーであり当たり前の売り出し方なのだが、その1番人気なメンバーは必ずと言っていいほどグループで1番可愛い/かっこいいとされている、いわゆるビジュアル担当と称されるような人物である。アイドル業界は特にルッキズムが目立つところだが、日常的にも外見的な差別行動は少なくない。顔が整っているから許される。そんな言葉をよく耳にするし、誰もが何かに対して思ったことがあるのではないか。自身の容姿に対する悩みの有無に限らず、私たちは無意識に人間の外見を気にして生きている。そして人と人とを比べ、どちらがより優れているか、より好ましいかを追及したがる。

 私は外見からくる不安こそ最も執念深く、人の心に住み着くものだと思う。一度気にしてしまうと、そこにばかり目がいくのである。昔であれば、多少人と比べることは少なかったかもしれない。街や集落などの比較的小さいコミュニティの中の人としか関わりがないからだ。しかし、現代では簡単に世界中の人々を見ることができる。それがもたらすものは、激しい劣等感と他人からの評価への執着である。外見ばかり気にしている人を、ある人は怠惰だと思うかもしれない。しかし、外見に囚われている人にとって自分の見た目が美しくない、満足がいかないとなると、何をしても楽しさを感じにくくなるのだ。例えば、旅行に行くとなった時、どこかの美しい人のようには自分はなれないと感じる。日常だろうとなんだろうと、人々の生活を見ることができるSNSは外見主義的な思考を植え付けるきっかけになる。映画だろうが、写真だろうが、美しい絵になるのは実際にその人物が美しいからであると信じる。日常的に劣等感を感じ、不特定多数の他人と比べることから生まれる顔面コンプレックスや外見至上主義は、日々の幸せさえも奪うことができてしまうのだ。  
 それを克服するには、自分の顔を好きになることが1番の道だと思う。それは一種の諦めであり、自分自身の存在を自分が認められるようになることである。私には私なりのチャームポイントがあると思うこと。それは誰かにとって難しくても、いずれ必ず見つかるものだと信じる。その点を誰かに言う必要はないし、日本の場合特に、自分への過大評価とも取れるような発言は他人からの批判の的となり得るけれど、鏡を見た時に、自分の写っている写真を見た時に、何回に一度でも良いから自分を素敵だと思えるようになることが、このような病的な感情を鎮めていくと考える。

『AFFECTION』

  次にベラと「怪物」の間にある大きな違いは、親にあたる人物から受ける愛情の量、つまり育った環境である。ベラは研究として造られたとはいえ、ゴッドウィンはベラを娘同然に可愛がり、大切に育てた。「愛しいベラ」と言ったり、寝る前に絵本の読み聞かせをするなど子育てらしい育て方をし、十分に愛情を注いでいたと言える。ゴッドウィンにとっては科学者として、ベラに情が移ってしまったことは研究に純粋な結果が見られないとして失敗談のように語っていた。

  その一方でフランケンシュタインの「怪物」は、偶然出会う見知らぬ人間だけでなく、創造主であるフランケンシュタインからも拒絶されてしまう。「怪物」は人間同士が育む愛情や、優しい眼差しを受けたいと願い、自分の伴侶を求めるようになる。そのためには伴侶も自分と同じくらいの醜さである必要があると考え、それに値する人物を創り出してもらうことを頼みにフランケンシュタインのもとに「怪物」が現れるが、フランケンシュタインは彼のことを悪魔であり、生かしておくべき存在ではないと決めつけた。その際「怪物」がフランケンシュタインに対して放った言葉を以下に綴る。

「人間とは、みじめな存在を憎むもの。ならば生きとし生けるもののなかでも図抜けてみじめなこのおれが、嫌われないわけがない。だが、おまえまでもが、このおれの創造主であるおまえまでもが、己の手でこしらえたおれを憎み、拒絶するというのか。―まずはおれに対する義務を果たすのが筋ではないのか?」

  「怪物」は少しの希望から、フランケンシュタインから受け入れてもらえるかもしれないと期待していたことと、旅の途中で出会うフランスの家族から親子関係という機能性を理解したことがわかる。自らを創り、逃げ出したフランケンシュタインに対し、父親としての義務、つまり愛情を注いだり、学ぶことを教えるべきなのではないかとうったえている。

   実際に、心理学者のマズローによる欲求五段階説によると、人間には生まれて間も無く生理的欲求に続き社会的欲求というものが生まれるといわれている。この社会的欲求は自分の存在を他者に受け入れてもらいたいという欲求である。つまり、「無償の愛」と呼ばれるようなものを、赤子は求めるのである。それは子どもにとって絶対的存在である親からの愛情を受けることが重要であり、その段階で生まれて間もない子どもは、自分が生まれてきたこの世界から受け入れてもらえる存在かどうかを測るのだ。このように社会的欲求は、承認欲求のように自分の持っているものや、したことなどの実績に基づいた他者からの評価を求めることとは違い、自分そのものの価値判断を他者から求めるものである。「怪物」は完全にこの欲求を満たされず、身を削られるような思いを生まれてからずっとしていることになる。また、フランケンシュタインの家庭事情が前半に描かれているのだが、彼自身、自分の家庭環境は恵まれたと話している。温かい両親がいて、お互いに愛し合っている従妹もいる。つまり、「怪物」はベラだけでなく、ヴィクター・フランケンシュタインとも対照的であることがわかる。

  哀れなるものたちとフランケンシュタインの物語の違いとしては、ベラと「怪物」の求めるものの違いにある。ベラは自分の“自由”を最も求め、「怪物」は”愛”を求めた。この違いは、結局のところ幼少期の環境に基づくものであると考える。ベラは愛されて育ったが、自由を与えてもらえず屋敷にこもって過ごしていた。子どもは制限をかけられすぎると、どうやったら不都合なことから回避できるか、どうやって親の目を出し抜くことができるかを考えるようになり、対抗心が強くなる。そのため、やってはいけないと言われることに、より興味を惹かれる性質がある。ベラはダンカンとの駆け落ちの前に「私をあまり守ってくれなさそうなところがいい」と発言していることからも、束縛やルールに縛られず、自分の自由を求めていることがわかる。
  そしてフランケンシュタインの「怪物」は、生まれてすぐに自由を手にいれたといっていいだろう。その代わり、住処も食料もなければ、親もいない。本来の赤ん坊であれば、凍死か飢え死にしてしまっていたはずだが、「怪物」は生まれたその時から立派な身体を持っており、食料は木の実で凌ぐことができるほど、頑丈に造られていたのだ。そのため、死という恐怖は感じないが、自分が何者であるのかがわからず、なぜ憎まれなければならないのかという人間に対する憎悪の感情と愛されたいという欲が膨らんでいく。「怪物」とフランケンシュタインの間の関係は、愛着障害の特徴が多くみられる。 

  愛着障害とは、幼少期に親に当たる相手との関係において、愛情関係を築けなかったなどの原因から問題が生じている状態のことである。自分が安心していられる場での保護者との愛着関係は、心の発達に大きな影響を及ぼすものであり、人格の土台ともなり得る。愛着障害を持つ人の行動の例としてあげられるのは二つあり、ひとつは人への信用がなく、信頼関係を築きにくく、もうひとつは人との距離がわからず、誰にでも近づいてしまうタイプがある。このふたつのパターンは子どもによくみられる特徴であり、真逆の特徴をもっているが、どちらも人からの愛情への過度な執着があることがわかる。そして、親から十分な愛情を受け取れなかった分、他人からの愛情や評価に依存する傾向にある。しかし、子どもは親からの愛情を受けたいと思う気持ちからは逃げられないのである。親が自分を見捨てようと、なにがあっても子どもにとって親は大きすぎる存在なのだ。「無償の愛」とは親から子に向けての言葉ではなく、子どもが親に対して抱く気持ちであると感じる。

『MY THOUGHT』

  哀れなるものたちを見て、私が持った印象はとても前向きなものだった。ベラの自由奔放な生き方は、私たちに希望を与えてくれるし、女性としての自己決定権について考えさせられる。ベラは自分自身で人生の道を切り開いていくことを望み、誰に対しても拒絶することがなかった。そのため、生まれに関する事実を伏せられ、実験の被験者として育てられたが、ゴッドとの愛情関係が築かれていたため、ベラは狡猾な嘘や罠は許せないが、人間としてゴッドを許すと発言した。このシーンでのベラの大人の対応や考え方には驚かされた。
 とてもファンタジーな内容でありつつ、この映画は私たちに社会とは何か、生きるとは何かを自分なりに考えさせてくれるきっかけになるのではないかと思う。しかしそれは説教じみたものでも、特定の考え方をおしつけるようなものでもない。自分で自分自身の選択を信じること、正解に導くことが重要なのである。ベラは自分のした選択に後悔している様子は全くない。ロンドンの家に帰ってきた際、メイドに「売女が帰ってきた」とベラに対し皮肉をいわれるが、ベラはその様子に嘲笑する。そのあとにも、マックスとの会話において、「売春は飽きた」と言ったり、駆け落ちや売春をしていたにも関わらず、マックスのベラに対する愛情が変わらないことに驚き「売春をしていたことは男の自尊心を傷つけるものだと知ったのだけれど」と、彼の気持ちを確かめようとする。他にも、ダンカンが金のために他の男と寝たことに憤怒した際にも、ベラは冷静に、そしてその行為をする決定権は私にあるものだと主張し、ダンカンを見捨てる形になる。つまり、ベラ自身は売春をすることにも、していたということにも後悔していないことがわかる。駆け落ちをしたこと、ダンカンと性におぼれたこと、貧富の差を目の当たりにしたこと、売春宿で働いたこと、人生で起きたすべてのことは経験であり、それがあって今の彼女があるのだと。良い経験も、悪い経験も、したことで得られる知見や感情の価値は測りえないものである、そういったことを感じさせてくれる映画だった。

  フランケンシュタインを読んで私は、哀れなるものたちとは対照的に人間のおぞましさを感じた。特に、家族というものに対する執着の恐ろしさを考えさせられた。「怪物」だけでなく、主人公フランケンシュタインの家庭環境についても供述があり、彼の家族観も見ることができるが、フランケンシュタインは母親に対する執着が強いことがわかった。死者をよみがえらせる方法で人造人間を造りだそうとしたのも、母の死が関係しているとわかる。なにより家族に対する執着を感じたのは「怪物」の計画だ。伴侶を造ることを約束した後、フランケンシュタインは「怪物」の目の前で完成直前の”それ”をめった刺しにする。約束を破ったフランケンシュタインに対し、「怪物」は彼の愛する人々を一人残らず殺すと宣言し、実行していく。しかし、「怪物」は優しく繊細な心の持ち主であったために、フランケンシュタインの愛する無実の友を手にかけることは、「怪物」にとっても辛く、ひどくダメージを与えられるものであった。そしてエリザベスさえも手にかけた後、フランケンシュタインに後を追わせるのだが、その途中でフランケンシュタインは息を引き取ってしまう。その際に「怪物」はこう語る。

「こいつ(フランケンシュタイン)もおれの犠牲者だ。―おまえまでをも死に追いやった。」

 そして嘆く「怪物」に対し、ウォルトンは「おまえが感じているのは哀れみではない。おまえの悪意の犠牲となった者が、手の届かぬところに行ってしまったことに、ただ嘆いているだけなのだ。」と言うが、これに対し

「ちがう、それは断じてちがう。だが、そう思われたとしても仕方がない。おれがなぜこんなことをするのか、その目的の真意を知らぬ者の眼には、そうも見えるだろうからな。」

 「怪物」は追いかけるフランケンシュタインを殺すわけでもなく、その反対に生かしておけるように食料を残して行ったり、自分の形跡を残し、しっかりとついてこれるようにしていた。読者として第三者目線であった私も「怪物」の目的を知らなかった。しかし、このセリフを読んで個人的な解釈だが、「怪物」の目的を悟った。
 その目的とは、最終的にフランケンシュタインから必要とされることだったのではないかと思う。フランケンシュタインは家族も友も妻も失い、頼れる人がいなくなった。しかし、自分がいる。そう思わせたかったのではないかと。「怪物」は、人も少ないほどの極寒の地域にフランケンシュタインをおびき寄せたものの、彼のの死に対しては後悔している様子を見せた。その時点で、「怪物」の目的はフランケンシュタインを殺すことではないとわかる。
 ただ、親として、自分を造りあげた親として、自分を必要としてほしかったのだ。自分以外に頼れる人がいない状況を作れば、実現するかもしれないと信じたのだ。「怪物」は、生まれてからずっとただただフランケンシュタインという父からの愛を求めていたのだ。子どもは、親が自分を愛してくれるはずであるという希望を捨てられない、なにがあろうと子どもは親を見捨てられないということを痛感させられた。家族という呪縛について、考えさせられる作品であった。

 どちらの作品も、私の人生にとってかかせないものとなった。人造人間というテーマから似ているものだと予想していたが、雰囲気や与えられる印象は対極にあるように感じた。そのため、似ていると言われているようだが、全くの別物として考えることができた。
 どちらに対しても言えることは、これからの人生に、学びに、大きな一歩を与えてくれるものであったということだ。

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