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洋画家・辻永の政治力

かつて、辻永(1884〜1974)という洋画家がいました。今日では忘れ去られており、僅かに「山羊の画家」として日本美術史に名をとどめる存在ですが、生前は巨匠で、特に1950年代から1960年代にかけて光風会及び日展と日本芸術院第一部に君臨し、洋画壇のドン的な存在でした。

辻永の経歴は「辻永:東文研アーカイブデータベース」の項目に詳しいので一部を引用致します。

光風会名誉会長、日本芸術院会員、文化功労者の洋画家、辻永は、7月23日午前10時15分、心不全のため東京都渋谷区の自宅で死去した。享年90歳であった。辻永は、明治17年(1884)2月20日、父の任地広島県に生まれ、水戸中学校を卒業、東京美術学校西洋画科に進んでいる。同級生に森田恒友、山本鼎などがいた。黒田清輝、岡田三郎助の指導をうけ「飼はれたる山羊」(明治43年)、「無花果畑」(明治45)、「椿と仔山羊」(大正5)など、初期には山羊の画家として知られ、白馬会系の描写をさらに進めて、大正9年から10年にかけてのヨーロッパ滞在をへてしだいに風景画家としての明確な方向をとっていった。辻は少年時代からとりわけ植物に対する関心がつよく、樹木、花にひかれて日本各地を旅行し、日本の湿った風土の風景を描くことに専念していった。後年植物草花に対する関心は、『萬花図鑑』(12巻、昭和6年、平凡社)、『萬花譜』(12巻、昭和32年、平凡社)となって結実した。戦後、文展が文部省より離れて日展となり、昭和33年、社団法人日展となってからは、辻は理事長となって会の運営にあたり、日展の法王、と称されるほどに日展の中心的な存在となり、また芸術院においても大きな役割をはたした。昭和34年文化功労者、昭和39年には、勲二等瑞宝章をうけている。

『日本美術年鑑』昭和49・50年版(265-271頁)
辻永《無花果畑》(水戸市立博物館、1912年)
初期の「山羊の画家」としての側面を示す作品。
辻永《玻璃器などのある室内》(水戸市立博物館、1935年)
中期の作品。
辻永《須磨の朝》(茨城県近代美術館、1956年)
後期の、画壇政治家となってからの作品。
辻永《てんぢくあふひ》(水戸市立博物館、1907年)
辻永には植物画家としての側面もあり、こういう作品を描いています。

辻永は絵そのものはあまり面白くなく、政治力で画壇に君臨するタイプの画家で、だからこそ没後に忘れ去られたのですが、「辻永という男―画壇を牛耳るもの―」(『週刊東京』1959年9月19日号、pp.3-10)という無署名の記事にその政治力の凄さが書かれていますので全文引用致します。この記事が書かれてから70年経過していませんが、『週刊東京』という廃刊した雑誌であることを考えると、断りなく全文引用しても特に問題は無いでしょう。

『週刊東京』1959年9月19日号、p.3に掲載されている辻永の写真

 美術の秋開く―その華やかなどよめきの中に、ことしもまた「辻永」の名前が、五万に及ぶ画家の間で秘めやかに語られている。
 画壇の消長の中で、いつか隠然たる勢力を背に"辻天皇"の異名までもつ彼―その彼は画壇でどのような役割を果しているのだろうか?(文中敬称略)

辻天皇の御巡幸

 銀座ウラ通りの、ある画廊での昼さがり、数日前からその画廊で、新人画家の数人が集まり個展を開いていたのだが、その日は、いつもと打って変り朝から重苦しい、緊張したフンイキに包まれていた。
 チリ一つ見当らないまでに清潔にされた室内。部屋の四隅に飾られた白、黄、紫などの生花が優雅な香を発散させている。
 "お約束"の時間を過ぎること二十分。今や遅しと待ち構えている画家たちの表情に、ようやくいらだちが見え始めた。
「大先生、お見えにならないのではないか・・・・」
 一人が不安そうにこうつぶやく。と、そのとき、静かに一人の老人がゆっくり入ってきた。
 ハッとカタズをのむ画家たち。そして、次の瞬間、かれらは一様に直立不動の姿勢で最敬礼―。
 この老人―いうところの"大先生"つまり日展理事長というよりは、日本画壇の大ボス的存在として君臨している辻永その人なのだった。
 だから、新人画家の人々が、まるで天皇を迎える地方民のように終始、緊張した状態になっていたのも当然といえよう。
 こうした辻の"個展めぐり"を画家仲間の一部では「辻天皇の御巡幸」といって、そのボスっぷりをヒニクっている。
 しかし、そのように陰口をたたく画家の先生方も、ひとたび辻の前にでれば、あたかも社長の前に呼びつけられた給仕さんのように、小さくなり、お世辞笑いの一つもムリしてつくりだしてしまうという。
 つまり「辻ににらまれたらこの世界では、ウダツが上がらない」というわけである。
 もっとも、在野画壇に所属するものの中には「なに、オレたちは辻の鼻イキをうかがわなくとも大丈夫さ」とおはこのレジスタンスぶりを発揮している向きもあるが、いざ、芸術院会員の選考ともなれば、やはり辻天皇の"お声がかり"が必要となるので、面と向かって敵対行為にでものもいない有様だといわれる。
 かように、在野画壇から恐れられ、与党の日展系からは"辻大明神"とたのもしがられている"辻永"とは、一体、どんな男なのか―。

画壇政治の天才

 
一口にいって、およそ、ボスの概念とは縁遠い感じの老人である。今年七十六歳。角刈りの頭に油気はないが、一見、女子高校の老校長さんといったタイプで、柔和なその表情には、ボスにありがちなケレン味、イヤ味、クサミがゴウも見られない。
 衆議院文教委員会で日展問題をソ上にのせた社会党の高津正道代議士が、ある人の紹介で辻と会ったとき、「あなたが辻さんですか」とびっくりし、「紹介者」に「ほんとに、この人が日展を牛耳っている、あの辻さんか」とくりかえし聞き直した、というエピソードかあるくらいだ。
 高津代議士もボス的印象と余りにかけはなれているのに、ア然としたのだろう。
 帝展第四回以来、審査員たること三十年。生えぬきの純官展派で、日展系はむろんのこと、在野及び地方の画壇事情もことこまかに精通しているというのが、もっぱらの定評。
 例えば、水準以上の画家の履歴、画風、入落授賞回数などはことごとく彼の頭脳の中にまるで生字引のように刻みこまれているそうだ。
 こんなところから「彼なしに日展運営は不可能だ」とか「辻は入選授賞の虎の巻を握っているから画壇に隠然たる勢力をはれるのだ」として、ボスのレッテルをはられているのかも知れない。
 もっとも、彼の画歴は、明治三十九年美校卒業の二年後、第二回文展の初入選が振出し。クラス・メートの和田三造が第一、二回と連続二等賞で一躍名をあげたのに、辻は十年ほど「ヤギと交際」し(彼は昔、ヤギをかっていた)その間三等賞三回、第十回展にやっと特選というスロー・テンポ。絵の方は、特別の天才とはいえない。
 むしろコツコツたたきあげる努力型の部類に入る。
 しかし、コト画壇政治となると、持前の天才ぶりを発揮する。「自我意識が人一倍強く、神経のこまかい集団の画壇に起ったイザコザをたちどころにスムースに解決してしまう」という。
 美術評論家の今泉篤男氏にいわせると
「政治性において彼の右に出るものは見当らない。しかも、野党筋の画壇からもある種の信頼と尊敬を集めている。かれの長所は、誠実な公平さで、勢力のバランスをつかむコツは、天才的と思えるほどカンがよい。だから、結果的には、いつもかれの思うままに、画壇全体が動いてしまうわけだ」
 辻自身もそれを否定することなく「日本の美術界を発展させるには、徐々に、よりよく進んでいくよりしかたがないですネ」といい切っている。
 しかし、画壇のおかれた複雑な現状は、果して"辻政権"をいつまで存在させるだろうか。

抗争の中に立つ王者

 
日本画の場合にもいえることだが、明治四十年「文展」(文部省美術展覧会)が創設されて以来のわが洋画界の歴史をひもとくと、さながら政党の離合集散のように"分裂の歴史"だ、ということができる。
 その代表的な例が二科会。二つに割れるどころか、三つに分れ、四つに分裂、昨日の味方は今日の敵とばかりにらみ合っている。
 二科会は、故石井柏亭から、フランスへ逃げだしたフジタ・ツグジが受けついで、さらに東郷青児があとを引きついだものだが、東郷はアクの強い男で、自他共に許すワンマン。とてもこのワンマンとはやっていけぬと、宮本三郎、田村孝之介らが、東郷よりも先輩格である鍋井克之、正宗得三郎、中川紀元らをかついで第二紀会を創設した。
 ところが、「東郷はもちろんゴメンだが、さりとて宮本たちともしっくりいかない」と向井潤吉、田中忠雄、小出卓二らが行動美術協会を起して別行動をとった。そしてしばらく三分裂の形でやってきたが
「いままでガマンしてつきあってはきたが、やっぱり東郷ワンマンとは分れたい」
 と野間仁根、鈴木信太郎らが四、五年前、一陽会を作ってタモトを分った。
 こうした対人的な争いではないが、昭和五年にも、児島善三郎、林武、野口弥太郎、高畠達四郎らが、当時の二科会を脱退、新たに独立美術協会を結成している。これもふくめると、二科会は文字通りに四分五裂したわけである。

われこそは・・・・

 
元来、作家とか画家という人種は、自我が強い。自我が強くなければ個性の強い芸術も生れては来ないのだから、自我の強さが芸術家の必要条件でもあれば、美徳でもあるわけだ。
 ところが、芸術上の美徳も人の和を作る場合には邪魔になる。
 「われこそは」と一国一城の主をもって認ずる人たちが集まって団体を作っているのだから、ちょっとしたきっかけで分裂騒ぎが持ちあがるのも当然のことといえる。
 ところが、辻天皇の勢力下にある日展系団体は、辻を中心にしてがっちり固まっている。
 もっとも、自我と排他性の強い"芸術家先生"の集合体であるから同じ日展系に所属する光風会、一水会、東光会、示現会などの各派同士のあつれきや辻の所属する光風会内部でもたえず「おれはアイツとは組めん」とか「辻先生は最近、一水会や東光会に肩を持ち過ぎている。少しわが会派の重要性を認識してもらいたい」などと盛んに不満の声が渦まいているが、決して、表面的には噴火しない。
 それも「辻さんという政治家が頂点にどんとかまえて、ニラミをきかしているからだ。しかも、辻さんは、頭からおさえつけるという権力主義的なやり方でなく、逆に、言いたいだけいわしてニッコリ笑っているという方法で、最終的にはみなの納得する線でまとめている。権力主義的でないから、ほかのものは、かえって気味が悪くなってしまうようだ」
 と、その間の事情を今泉篤男氏は語っている。
 ちなみに、日展系のなかでも一ばん大きく根を張っているのが辻天皇を頂点として中沢弘光、中村研一、小絲源太郎ら芸術院会員を擁する光風会。ついで有島生馬、山下新太郎らの率いる一水会、奥瀬英三の示現会、斎藤与里の東光会、白日会、その他大久保作次郎、川島理一郎らが代表する無所属の集合体である新世紀美術などが日展系。これに対し、在野団体では、二科、独立、一陽会、新制作、第二紀会、行動美術、国画会、自由美術、モダンアート、美術文化、春陽会といったところが、そうそうたる大家に率いられ"日展系なにするものぞ!"とひしめいている。
 しかし何といっても、日展の主流派は光風会であり、光風会出身の日展理事長辻永は、主流、反主流、さらに野党である在野団体にも大きな影響力をもっている。だから良きにつけ、悪しきにつけ、ひとしく彼に"日本洋画界の大ボス"の名を冠しているのである。次にその"ボス振り"を見よう。

策謀しない策謀家

 昨年、日展は芸術院に絶縁状をたたきつけ、純然たる民間団体として新発足して、ジャーナリズムをにぎわせた。それより前、一昨年、梅原龍三郎が芸術院会員を辞退したことで、同年七月、衆院文教委員会で、高津正道代議士が、「日展はボスが運営しており、内部は腐敗しきっている。とくに、洋画は辻永が牛耳っている」と爆弾発言をしたことに端を発して、ついに日展改組問題にまで発展したいきさつは、絵画ファンならずとも記憶されている向きも多いだろう。

鮮やかな"神通力"

 
ところで、以上の高津発言は、どのようなところから爆発したのだろうか。明治四十年以来の官展の流れを受けて、芸術院と結んだ半官半民の封建的な旧日展に対する各方面の不満が積み重なってきたところへ、たまたま高津委員のもとに情報が舞いこんだからだ。
 ところが、問題の高津発言をめぐって今なお画壇に残る"伝説"をご披露して辻の"怪物"ぶりをうきぼりしてみよう。
 それによると、高津代議士のところへ"情報"を売りこんだのは、美術界の内情にくわしい美術業界雑誌の某記者。これは、後日、高津代議士自身も認めることだから"厳粛な事実"なのだが、さて、以下がボツボツ怪談めいてくる。
 というのは、その某記者は、常日ごろ、辻家に出入りし、しかも、非常にじっこんな間柄だった―というのである。
 加えて「辻は美術界、とりわけ洋画壇の情報を某に依頼していた」とみる節も伝えられていただけに、某記者の情報売りにし、奇異な感じを与えると同時に、いろいろなオクソクを生んだものである。
「高津発言は、辻とのナレ合いなのだ」
「いや、某は辻の悪ラツさにイヤ気をさし、美術界刷新のために高津に持ちこんだのだろう」
 大方の意見は、この二通りに分れていた。
 当の辻は、そうした風説に少しも動揺することなく、どく吹く風と構えていた。
 ところが、高津発言の中で、あれほど矢面に立たされて攻撃された辻永は、翌年に誕生した新日展の理事長に「悠然として」登場してきたのである。
 この鮮やかな進退ぶりには、さすがの在野団体の猛者連も、ア然として顔を見合わせてしまった、といわれる。
 あるものは、辻の"神通力"をいまさらのように見直し、他のものは、辻の策謀の深さを攻撃するなど、いろいろ取ざたされたが、結果的には"辻天皇"の権威をいっそう確立するキッカケとなってしまったことはたしかである。

"宅診"できまる当落

ボスがボスたるゆえんとその存在が、一番、効果的に発揮されるのはなんといっても審査会だ。
 イスに腰かけ、ズラリと顔をそろえているのは、その道のそうそうたる審査員先生方。その前に一枚の画が運び込まれる。
 先生方は、しばらく画を見つめているが、中の何人かの手がかすかに動く、と前面の壁にパッパッと赤電灯がともる。一つ、二つ、三つ・・・・十、少し遅れてもう一つ、合計十一の赤ランプがともった。
 これは独立美術の審査風景である。十一のランプがともれば過半数の酸性を得たわけで、当然この画は入選と決定した。
 ところが、多くの団体の審査には、こうした「二十の扉」式な光景は見られない。挙手によって審査員が意思表示するのだ。挙手の方法だと思わぬ弊害がある。隣りの審査員が手をあげると、ついつられて手をあげてしまうこともあるし、その団体の有力な審査員が挙手すると、その顔色をうかがって手をあげる審査員も出てくるからだ。これでは公正を欠く。そこで赤ランプ方式―審査員の一人一人が掌にスイッチを握っていて「よし」と思ったらスイッチを押せば、他の審査員にはわからず、自分の思いどおりの審査ができるという仕組である。なかなか進歩的な方法だ。
 この赤ランプ審査を行なっているのは、林武にの独立美術だが、神経質すぎるくらい「公平」ということに気を使う辻永の日展はどうだろうか。民間に天降ったとはいえ、アカデミックな伝統を尊ぶ日展だ。やたらに流行の先端を追うことはしない。審査員先生方の家庭は電化されても、審査場の"電化"はまだ早い、と依然挙手にする審査方法。ただ、他の審査員の顔色がわからぬようにと、十八人の審査員は一列横隊に並べる配慮をしているが、それはそれなりのむずかしさがあるようだ。

宅診と往診

 
"宅診" "往診"というのはお医者さんだけの用語だと思っていたら、画壇にもこの用語が通用する。どこの展覧会でもそうだが、審査が間近にせまると、出品者の審査員への働きかけは目立ってハデになってくる。審査で拾ってもらえるか、ふり落とされるか、一年間精魂をかたむけた作品と、お土産をかついて、審査員の家へ参拝者がワンサと押しかけるのだ。
 審査員の教え子はもちろんのこと、ついぞ一面識もない者まであいさつにくる、自分の画をおぼえておいてもらって、審査のときは「何分よろしく・・・・」とお願いするわけだ。こうして審査員詣でをやることを"宅診"といい、逆に審査員の方から、とくに目をかけているお弟子さんの家へ行って画を下見してやることを"往診"というのだそうだ。
 この"宅診" "往診"については、いろいろの批判も生れてくる。

おおむね公平

「先生が弟子を指導するのは当り前・・・・」といってしまえば、それまでだが、「事前に入学試験問題を教えるようなもので、カンニングだ」と落選画家がフンガイするのも無理はない。ひどい先生になると、自ら絵筆をとって描き直してやるというほど。
 権威をもつ展覧会ほど出品者も真剣になるのは人情。ことに日展のように、寄合世帯で審査員も自分の会からより多くの入選者を出そうとし、出品者も入選、入賞がそのまま社会的名声につながる場合、特に"カンニング"がひどいのではないか、という疑いを持つ人たちも多いようだ。
 しかし、今泉氏は、美術評論家としての豊富な体験を通じて「審査はおおむね公平だと思う」と次のように述べている。
「私が事前に下見して、これはまずいから落すべきだろうと思った絵が入選していることはよくあるが、少しでもいいところがあると感じた絵で落選していることはまずない。オレの絵が落選するわけはない、審査はいい加減だ―という声をよく聞くが、自分のホクロに気がつかないのと同様だ。自分の絵の欠点がわかるくらいにならなくては・・・・」
 ところで、審査員クラスから芸術院賞をもらったり、さらに芸術院会員に・・・・と出世するためには、芸術院会員の知遇を得なければならない。
 ところが、芸術院美術部門の会員五〇人のうち三三人(洋画以外も含む)は辻永の率いる日展が占めている。ここでも"辻天皇"は大へんな勢力を持っているわけ。
 芸術院会員を目ざす美術家は辻天皇をアダやオロソカにはできない理由がここにあるのだ。
 現在、芸術院美術部門には三つの空席がある。今年のはじめに物故した石井柏亭、和田英作(いずれも日展系)と辞退した梅原竜三郎(在野)の後ガマである。
 結局、新会員も日展系二人、在野一人が選ばれることになろうが、有力候補としては、日展系では、寺内万治郎、木下孝則、小山敬三の三画伯。在野では林武、児島善三郎、東郷青児、中川一政の各画伯があげられている。日展系では寺内万治郎が当選確実というから、あと一つのイスを木下孝則と、小山敬三で争うことになる。一方在野の方では、林武がまず確定的との声が高い。「辻永の軍配も林武に半ば以上あげられている」とは消息通の一致した意見のようだ。

"花籠部屋"は嘆く

 
わが国の洋画家は、地方で一応芸術家で任じているものまで入れると、約五万人。その三分の一が大なり小なり中央画壇とつながりを持っている。
 ところが、団体の会友以上となると三千人程度。そして、画商が「市場価値あり」と認める画家は、その一割の三百人、そのうち、画商の方から頭を下げていく"先生"は、十指をちょっと越えるだけ。これではあとの人たちはどうして食っているのだろう―と首をかしげたくなろう。

"義理買い"というパトロン

 
看板描きや街頭似顔のアルバイト、学校に勤めて図画の先生をやっているのもあるが、ここで見逃せないのは"義理買い"という言葉である。
 入賞、入選と一応の肩書がつくと、郷土出身の実業家などが"お義理"で買ってくれることである。画商が頭を下げて買いにくる売れっ子のほかは、多かれ少なかれ、この"義理買い"の恩恵をうけているわけだ。
 日本画の場合、料理屋のオカミが若い画家をひいきにして、客席にタイコモチ然としてハベらせたり、絵を描かせたりしているのをよく見かけるが、洋画では、やはりそれほどの古風なパトロンはいないようだ。
 結局、大部分の洋画家は義理買いをしてくれる金持ちの家にカンバスをかつぎこまねばならないのが現状のようだ。
 ちなみに、売れっ子画家といわれる人々にご登場いただこう。
 梅原竜三郎、坂本繁二郎、林武、鳥海青児、小絲源太郎、須田国太郎、岡鹿之助、脇田和、森芳雄といった顔ぶれ。値段は号(はがき大)二十五万円から千円くらいまで。
 面白いことに、この売れっ子の中に辻天皇が入っていないが「天皇必ずしも人気者」というわけにはいかないようだ。

「万年落選候補」の悲哀

 
だが、いくら才能と実力が支配する画壇とはいえ、人間が寄り集まった世界に変りはない。作品のことは別として、人間関係の面から、好き、きらいの感情がでてきたとしても、あながち非難されるとはいい切れない。
 日本画界で特異な作風を誇った故橋本関雪画伯は、中国に渡ること十数回。その才能が高く評価されていたが、それにもかかわらず、なかなか芸術院会員になれなかった。
「ウデはよかった。だが、ごう慢無礼な態度が禍いしたんでしょうね」
 生前の画伯を知っているある人は、こういう。人間関係のまずさが、才能に禍いした例であろう。しかも、芸術作品全般についていえることだが、客観的な評価の基準がない。
「写実万能の昔なら、写実の優劣で入選、落選がきまったのも、まだ判らないことはない。だが、いまは美術のあり方についてもどだい、これといった確定的なものがない。わたしはわたしの方法でやるが、こんこんとして、はっきりした基準がないのをいいことに、審査員の気に入るような作品が入選するのを見ると、まったくたまらない気持だ」
 これは、生徒たちから「万年落選候補」とひやかされているある高校図画教師の嘆きだ。
 展覧会はいうまでもなく、これら芸術家たちにとって才能をためす場所なのだ。そして、入選の実績を重ねていけば、やがて長い旅路の彼方に芸術院の塔が浮んでくる。芸術院会員という、いわば輝ける栄誉を受ける日を目ざしての第一歩が、日展の入選なのである。
 当然―だれしもが"入選"にカケる。いい作品を作ろうとする努力もさることながら、ウラ口工作のあの手この手も考え出す。秋風がたって、審査が近づくと、有力者といわれる審査員の家の門をたたく芸術家の姿がめっきりふえる。出品する作品を持ちこんで、ご教示を一言という正統派から、紹介状片手の"ごあいさつ組"、"入選の手引き"を本気できき歩くものもあるという。
「わたしが属しているグループは、相撲の世界でいえば花籠部屋、つまり"小部屋"で、代表として出る審査員の数も少ない。展覧会となれば、多くの審査員を出している"大部屋"に寄り切られることになり、入選者が出ないという結果にもなる」
 相撲の世界なら、いくら小部屋でも一人の若乃花が出れば、横綱の座を襲うこともできる。だが、画壇では、永遠に小部屋の悲哀をぬけられないと、くだんの高校教師は深いタメ息をつくのだった。絵の才能はなくても、有力者との間に親分子分の関係をとり結ぶ政治的な才覚さえあれば、"芽が出る"という、およそ本末転倒であろう。

"辻政治"の功罪

 
装われた"美"の背後に、こうしたしきたりを知って嘆く人もあろう。また、どこの世界も同じ、という声もあろうが、この日本画壇という"奇妙な"この社会の中に君臨する辻永という老人の存在を、わたしたちはどう見るべきなのだろうか。いわば、彼の功罪論ということになるのだが。
 今泉篤男氏に登場願って彼の果した役割を語ってもらおう。
「口うるさい画壇という世界をとにもかくにも、ここまで持ってきたのは辻さんの功績だ。
 このことは、たとえ、反対派の在野団体に所属するものもひとしく認めているところだ。そして、また、辻さん以外にはできなかった、といっても過言ではないと思う。
 それは、結局、ボスと悪口をたたかれている割合には、会員の割りふり、日展の運営面では、非常に公平なやり方をしたせいだと思う。
 しかも、辻さんという人は、いい意味にしろ、悪い意味にしろ、画壇政治家に生れついた、と思われるほど、カンがすばらしい。だから、味方からも敵からも不思議に人気があり、たのもしがられているという変ったボスなのだ。恐らく辻さんなきあとは、こうした画壇にピッタリした"世話役的なボス"は再び現われないだろうし、また、人材も見当らない」

私も故・安井収蔵(美術評論家)の著書『色いろ調』で辻永の政治力の凄さについては知っていましたが、ここまでとは思いませんでした。

私が疑問を覚えたのは、辻永が1950〜1960年代にこれほどの政治力で洋画壇に君臨したにもかかわらず、今日ではそれについて全く言及されないことです。

辻永の後世の主要文献である『辻永画集』(六藝書房、1991年5月)や図録『辻永展 「山羊の画家」の軌跡』(水戸市立博物館、1986年10月)、図録『万花譜の世界―辻永の植物画展』(水戸市立博物館、1995年2月)を見ても画家としての足跡は書いてあっても画壇政治家としての側面は書いてありませんし、滝悌三氏(美術評論家)が執筆した『光風会史 80回の歩み』(光風会史編纂委員会、1994年4月)を読んでも戦後の辻永については不自然なまでに言及を避けているのです。辻永の政治力抜きに戦後の光風会を語ることは不可能なのに。あと、図録『洋画家たちの青春 白馬会から光風会へ』(中日新聞社、2014年3月)を読むと、光風会理事長(当時)の寺坂公雄氏は戦後の光風会における辻永の役割についてきちんと言及しているのですが、冨田章氏(東京ステーションギャラリー館長)は辻永について全く言及していません。

私は心ある美術評論家の方に辻永の画壇政治家としての側面を網羅した単行本を執筆して頂きたいと切に願っています。売上はともかく面白い内容になることは確実ですので。

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