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【第2回 自明性を疑え】〜包摂と排除〜


🧐「包摂」と「排除」


一般的な意味は↓

包摂】-ほうせつ-

① 一定の範囲の中につつみ込むこと。

② 論理学で、ある概念が、より一般的な概念につつみこまれること。特殊が普遍に従属する関係。例えば、動物という概念は生物という概念に包摂される。

小学館  デジタル大辞泉

排除】-はいじょ-

押しのけてそこからなくすこと。

(類語)除去、撤去

小学館  デジタル大辞泉

包摂と排除について、とある社会学者が見解を出している。


🧐社会学者ルーマン

ドイツの社会学者《ニクラス・ルーマン》
(1927-1998)

Niklas Luhmann

包摂が考えられるのは、可能な排除を背景としてのみである」

『社会の社会』原著633頁

🧐考察

⬇️通常こう考えられているのではないか

包摂はであり、排除はである

しかし、世間的に「善と悪」とされているものを、今1度立ち止まって考えてみたい。

「包摂されていることって、苦しくない?」
「排除されているからこそ、自由だ」

などの声も上がることだろう。


🧐包摂をもっと詳しく

ここでは、私が受けた大学の講義を参考に、自分なりの言葉でまとめてみようと思う。


そもそも私たちは、「社会」に「包摂」されて成り立っている。(社会に組み込まている、の方が受け取りやすいか…)

しかし、その仕組みが生きづらさを作っている。例として、子供にとっての「社会」は「学校そのもの」である。子供たちが「学校」に「包摂」されている日々で感じる生きづらさは、【対人関係の拗らせ、発展するといじめ問題】ではないだろうか。

いじめが起きるのは、「包摂」されているからだ。

解説すると、(学校生活における)「包摂」の中で起きる「排除」こそがいじめである。そのため、何の関係性もないソトの世界では、いじめも何もない。例としては、他地域の学生が挙げられる。

「包摂」することは、問題解決を意味しない。


🧐排除個人性について

排除個人性▶︎
「個人が社会の外部環境であることを表した概念」

つまり、人は社会に包摂されることで、社会参加のための個人の立ち位置が割り当てられる。一見それは喜ばしいことだが、よく考えると、その立ち位置以上のことは制約されている。


🧐どうしても思い出せない国語の作品

この話を聞いた時に、高校のとき漢文?古文?の授業で扱った作品を思い出した。確か王様と従者の会話で、従者が王様から頼まれたこと以上のことをしたら、逆に罰せられたという話だったような……。作品名が思い出せず、Google検索しても引っかからない🥲有識者いらっしゃったらご教授願います🙏

🧐「〇〇らしく」の包摂は苦しい

他にも、講義で私がハッとしたことがある。
それは、【〇〇らしく】という言葉の包摂性についてである。例えば、「先生らしく」「先輩らしく」「大人らしく」「子供らしく」などが挙げられる。
「身の程を弁えた態度で居よ」などと解釈していた。しかし、これらの言葉には社会構造の包摂・排除が潜んでいる。

「大人らしく」と言われることで、間接的に「子供のような態度をとってはいけない≒わがままを言ってはいけない、自己をコントロールしなければいけないetc…」と暗示されている。これは立派な包摂であり、【〇〇らしく】に縛られる(=包摂される)ことで行動を制限されている。


包摂と排除、、面白い、、

最後までご覧頂きありがとうございました!


【『自明性を疑え』とは????】
アルフレッド・シュッツ▶︎オーストリアの社会学者、哲学者

彼は言った、『自明性(当たり前、常識)を疑え』と。
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