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【短編小説】望月のころ 第7話

   第7話

 チャイムを押し、一歩下がって待った。耳を澄ませていると、ドアの向こうでかすかに近づいてくる足音がする。魚眼レンズからこちらの様子を窺っている気配がしたが、ドアは開かない。

 もう一度チャイムを押す。二度、三度。ドアから漏れ出てくる音が、ますます僕を苛立たせた。冷静になろうと努める一方で、こそこそ逃げまわる相手を許せない気持ちが沸き起こる。

 ドアを叩いた。しかし応答はない。もう一度叩こうと振りかぶったところで、開錠の音がした。

「なによ、透。どうしたの」
 細く開けたドアの隙間から、環が顔を出した。

「一体なんの用? あたし、今から出かけるところなんだけど」
 迷惑そうに僕を追い払おうとしながらも、目は泳いでいる。ちらちらと後ろを気にしているのがわかる。

「武、いるんだろ」
 前置きもなく鋭く放った僕の言葉に、環は二の句を継げずに息を呑んだ。
 答えを聞くまでもない。僕はドアノブを掴み、大きく開いた。環が引きずられる格好で表に出てくる。

「ちょっと! 透!」
 環を無視して、靴を脱いで部屋に上がる。一人暮らし用の小さなアパート。ダイニングの奥にもう一つ部屋があるようだった。

 ドアはわずかに開いていた。入っていくと、ベッドの横で、胡坐をかいた格好の武がこちらを振り返る。

「ここでなにしてる」
 殴りつけたい衝動を必死で抑えながら尋ねた。武はわざと僕を挑発するかのように身体をのけぞらせると、

「別になにも」
 と言って首をすくめる。「お前こそ、なんでここにいるんだよ」

「お前を連れ戻しに来たんだよ」
 僕は武に近寄り、肩を掴んだ。

「だから、なんでお前が来るんだよ」
 武が僕の腕を振り払う。

「さくらに泣きつかれたのか」
 後ろめたいはずの武が、まるでこちらを責めるような口調で言った。

『いつから二人は……?』
 武は環の家にいるかもしれない。さくらからそれを聞くまで、僕は二人が特別な関係になっていたことをまったく知らなかった。

『武の様子がちょっとヘンかなって思ったのは、操がまだ二歳くらいのころ。こそこそスマホしたり、帰りが遅くなったり』
 三年も前だ。その頃も定期的にみんなで会っていた。ちっとも気づかなかった自分の愚かさに腹が立つ。

『でも、気のせいかなって思って、追求はしなかったの。操がまだ、手のかかる時期だったし』
 やがて怪しいと感じるような行動は止み、普段通りの日常が戻っていた。ところが武が再就職してしばらくした頃から、また帰りが遅くなり始めた。

『相手が環だってわかったのは、どうして?』
 僕の問いに、さくらが

『武の帰りが遅い夜なんかに、一人でスマホを触っていて、環にメッセージを送るじゃない。普段はすぐに既読がつくのに、そういう時に限ってつかないの』
 そういうことが何度かあった。試しに武にもメッセージを送るが、やはり既読がつかない。

『たまたまかもしれないって思おうとした。でも昨夜、武が帰ってこないのって送ったら、最初だけしか既読がつかなくて』
 その次に送ったメッセージには、なんの反応もなかったという。

 明らかに不自然だった。武が行方不明だと知りながら、続くメッセージを読もうとせず、返信もない。

 最初だけうっかり既読をつけてしまったのだろう。計画していたわけではなく、衝動的な行動だったことが窺える───。

「彼女に頼まれたわけじゃない。僕が行くと言ったんだ」
 さくらは何度も固辞したが、僕の説得に、最後は「お願いします」と電話の向こうで消え入りそうな声で言った。

「早く家に戻れ。家族を泣かせるな」
 本当に言いたいことはそんなことじゃない。それでも言葉を選んだ。

 武は立ち上がり、僕に険しい顔を向けた。まるでこちらが責められているようで、今にも殴りかかってくるのではないかと、こちらも拳を握りしめると、
「やめて!」
 環が僕の前に立ちはだかり、そのまま武の首に縋りついた。

「ごめんね、透。さくらには本当に悪いと思ってる。でも、あたしたち本気なの」
 妙に芝居がかった言い方に、僕は白けた気持ちになる。

「さくらにはあたしからちゃんと謝るから」
 悦に入った環を無視して、僕は武をじっと見つめた。

「お前は本気で離婚する気なんてない。ただそうやって甘ったれてるだけだ」
 武は黙ったままこちらを睨み返している。

「彼女の心を踏みにじって、それでも許してもらえると思ってる。母親に甘える子供みたいに」

 僕の言葉を聞き、まるで理解の悪い子供を相手にしているように環が笑った。同意を求めるように武に顔を向けたが、じっと黙ったまま険しい顔で僕を睨む様子を見て、不安を感じたようだ。

「武はさくらと別れて、あたしと一緒になるって言ってるの!」
 口をきかない武の代わりに、環が言った。

「さくらには悪いとは思うけど、でも好きになっちゃったんだから仕方がないでしょ」
「お前は彼女と本気で別れる気なんてない」
 武に向かってもう一度言った。武は黙ったまま僕を見ている。環がとうとう苛立って、

「あんたがそう思うのは勝手だけど、武の気持ちはあたしが一番わかってるんだから!」
 何も知らない環が喚く。僕はちらりと環に目をやってから、武に戻した。

「本気で別れるなら、きちんとその手順を踏めばいい。こんな風にこそこそ隠れていないで」
「それで?」
 武が肩をすくめた。口の端を歪めると、

「傷ついたさくらを、お前が慰めるってわけか。それで二人は結婚しましたとさ。メデタシメデタシ」
 開き直ったのか、武はこちらを嘲笑するような大きな声で、

「お前さあ、俺にばれてないとでも思った? お前がさくらのこと好きなことなんて、とっくにわかってたよ」
 目を瞠り、顎を突き出す。

「お前は俺のことを馬鹿にしてるんだろうけど」
 そう言って、武が鼻を鳴らした。

「俺のこと心の中で馬鹿にしながら、縁を切るわけにいかないんだよな。そうしたら、あいつと会えなくなるもんな」
 武が僕に向かって一歩踏み出す。まるでお互いの立場が逆転したように、武が僕への怒りをぶつけてくる。

「泣かせるね。純愛ってやつ」
 武は乱暴に息を吐き出すと、

「お前、腹の中では喜んでるんだろ。お前こそ、わざわざ俺を連れ戻すなんて面倒なことしてないで、さっさとあいつのこと、自分のものにすればいいだろうが!」

 僕と武の間に横たわるものが、ひとつ残らず崩れていく。目の前にいる武は十年来の親友ではなかった。そして僕もまた、仮面を外された打算まみれの薄汚い男の姿をさらしていた。

「ねえ、そんな怖い顔しないで。いいじゃない。ホントにそうなれば、すべて丸く収まるんだから」
 環が武の腕に取りすがる。けれども武は僕から目を逸らさない。

「……そうしたいけど、無理なんだよ」
 喉の奥から血があふれる。そんな気がした。自分で自分を切り裂く言葉を吐き出す。

「彼女が愛してるのは、僕じゃなくてお前なんだから」
 武もまた、僕の言葉に切られたように目を瞠った。なにか言おうとして開いた唇が震える。

「あいつが……」
 武が言葉を切る。息を呑み、下を向いた。

「あいつが俺のことなんて、愛してるわけないだろ」
 そう言って鼻を啜り上げた。

「操ができちまったから、仕方がなく俺と結婚したんだよ。そうでなかったら、とっくに捨てられてる」
 声が涙に濡れていく。短く切れた息が口から洩れ、やがて嗚咽に変わっていく。

「あいつは、俺と結婚しなかったら、もっと幸せになったはずなんだ。俺が全部奪ったんだよ!」
 テーブルの上にはチューハイの缶がいくつも並んでいる。酔っているようだ。けれども、武の叫びはこれまでずっと抱えてきたものだろう。

「そんなこと、彼女は思っていない。今だって、お前のことを心配してる」
「もう無理だよ」
 武が鼻を啜り上げた。

「嫌われる前に、こっちから消えようと思ったんだ……」
 まるで小さな子供のような言い訳だ。それでも、目の前の武を見捨てることはできない思った。きっと、さくらも同じ気持ちだろう。

「さくら……」
 嗚咽をあげながら、彼女の名を呼び続ける。僕が決して口に出せない想いを、武が全身で叫び続けている。

 僕はひどく重い頭を支えた。こいつはとんでもない馬鹿だ。その手の中にあるものの大きさに気づけないほど。

 妬ましくなるほどに馬鹿だ。

 我に返った環が、ダイニングへ消えた。戻ってきたとたんに、両手に抱えたなにかを武に投げつける。
 ガチャンという音と共に、武の足元でマグカップが割れた。続いて、茶碗やグラスが派手な音を立てる。

「出てってよ! あんたなんか……あんたなんか死ねばいい!」
 涙でぐしゃぐしゃになった顔に、髪の毛が貼りつく。真っ赤な目からは、黒いマスカラが流れ出していた。

 僕は目を逸らし、部屋を出ていく。玄関で靴を履いていると、武が追いついてきた。
 ドアを閉める直前に、部屋の中から環の泣き叫ぶ声が聞こえた。

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